アドラー心理学入門

「どう、生きたらいいのか・・・」
アドラー心理学なら明確に答えることができる!

アドラーの名を騙った、偽アドラー心理学
に騙されないように、正統派のものを。


●アドラー心理学の目標

・アドラー心理学ははっきりとした目標を掲げ、絶えずその目標を達成する方向で子どもを援助します。まず育児の行動面の目標として、一、自立する 二、社会と調和して暮らせる ということ。そしてこれを支える心理面の目標として、一、私は能力がある 二、人々は私の仲間である という目標を提示します。

●信頼すること

・育児の場面でも、注目しないということの意味は、このように必要があれば、いつでもブレーキが踏めるように構えはしておくが、けれども決して先回りしてブレーキを踏まないことではないかと思います。大事にならないうちにと早々に、ブレーキを踏んではいないでしょうか。
・子どもたちは家に訪ねてくる客人が父親と議論している場にいることを許され、次の日に学校に間に合うことだけを条件にいつ寝るかは子どもたちの判断にまかされていた。
・担任の先生は、どうやら家での様子を聞きたいようで、その上、宿題をするよう子どもに指導してほしい、宿題をするのを見届けてほしい、といわれました。しかし、私はそれを断りました。

これが最も重要なマインドセットだろうな。
そしてこのような子どもに対する信頼は、
以下にあるような「横関係」という考え方に支えられている。
●縦関係と横関係

・私がこの会話を聞いて感じたことは、先生が生徒を対等の関係の存在と見なしていない、ということです。どの駅で降りるかということについては、この先生のように何度も念を押さないといけないことだとは思えませんし、たとえ修学旅行で初めて訪れた土地で道に迷ったとしても、自分たちの力で解決する力を持っていると考えていけない理由はない、と思います。
・そもそもほめることができるというのは、その人の対人関係が基本的に「縦関係」であることを表しています。ほめるというのは、能力のある人が能力のない人に、あなたは<よい>と上から下へと相手を判断し、評価する言葉であることを見ましたが、そのときの対人関係の構えは縦関係なのです。しかし、アドラー心理学では、縦の人間関係は精神的な健康を損なうもっとも大きな原因である、と考え、横の対人関係を築くことを提唱します。ほめることに対して勇気づけは「横の関係」を前提とするものであり、横の関係ときだけ勇気づけることができる、ということができます。
・ジッハーは全体としての人が進む道筋を「進化」という言葉を使って表現しています。進化をめざして人は「前」へと進むのであって「上」へと進むわけではないのです。広い道路を並んで歩いているのですから、別に誰が先に行こうと、後を歩こうとかまわないわけです。前を歩む人もいれば、後ろを歩む人もいますが、両者は優劣の関係にあるのではありません。
・クリシュナムルティが次のようにいっています。「君たちは、親や先生たちが、人生で何かに到達しなければならないよ、おじさんやおじいさんのように成功しなければならないよ、と言うのに気づいたことがないですか。教育の機能は、君たちが子どもの時から誰の模倣もせずに、いつのときにも君自身でいるように助けることなのです(『子供たちとの対話』平河出版社)

そもそも時間的に後に生まれてきただけで、
そこに「上下」があるわけがないのだ。
大人は子どもに対して謙虚が足りない。敬意が足りない。
●楽天主義(ポジティブシンキング)と楽観主義の違い

・どんなことが起こっても何とかしようと思いたいのです。楽天主義は、何が起こっても大丈夫、何が起こっても悪いことは怒らない、失敗するはずがない、と思うことです。大丈夫だと思って何もしません。そうではなくて、楽観主義は現実を見据えるのです。現実をありのままに見て、そこから出発します。たとえば、子どもの今の現実を見たら大丈夫ではないということはあります。しかし、大丈夫ではないのですが今ある現実をきちっと見据えるということから出発します。これを楽観主義といいます。楽天主義は大丈夫、何とかなると考えて結局何もしません。かといって何ともなないという悲観主義に立つこともありません。悲観主義は状況に対する勇気を欠いており、何ともならないと諦めて結局ナニしないのです。
・アドラーは、人があらゆる状況で楽天的であれば、そのような人はまちがいなく悲観主義者だといっています。敗北に直面しても驚いたふうには見えません。すべてはあらかじめ決まっている、と感じ、楽天家であるように自分を見せているだけなのです。
・アドラーは楽観主義を子どもたちに吹き込む必要を説いています。しかし、他方、世界は薔薇色である、といったり、逆に、世界を悲観的な言葉で描写することを避けるべきである、といっています。

ここはとても重要な鍵だ。
エセポジティブシンキングに陥ってしまう人はこの点が理解できていない。
「現実を見ろ」という人が悲観的な場合は無視する必要があるし、
「大丈夫」という人が悲観的な場合もあるということ。
大切なのは、現象をありのままにみる勇気。
そして、たとえそれがどういう状況であっても、前に進もうという勇気。
●共同体感覚

・ここでいう「共同体」というのはさしあたって自分が属する家族、学校、職場、社会、国家、人類・・・という集団のすべて、過去・現在・未来のすべての人類、さらには生きているものも生きていないものも含めたこの宇宙の全体を指している、と考えていいのですが、アドラーはこれを「到達できない理想」である、といい(Individualpsychologie in der Schule)どこにも既存の社会であるとはいっていません。
・アドラー心理学は、決して社会適応の心理学ではありません。次のようにアドラーはいっています。社会制度が個人のためにあるのであって、その逆ではない、と。たしかに個人が救済されるためには共同体感覚を持たなければならない、とアドラーはいいますが、個人をいわば社会というベッドに無理に寝かせるということを意味しているわけではありません。また社会通念や常識を持つことが重要である、とここでいわれているわけではありません。社会通念、常識そのものがそもそも誤っていることもあるからです。
・コモンセンスは、しかし、常識とは必ずしも重ならないので、「共通感覚」というこなれない言葉を使うことにしています。今現に私たちが属している社会の通念に合致しているのがいいのか、それに対してノーというのがいいのか判断に迷ったらより大きな共同体を考えよ、とアドラーはいってきました。ときには、それゆえ、既存の社会通念や常識に断固としてノーといわなければならないこともあります。実際、多くのアドレリアンがナチスに対して態度決定を迫られ、ノーと答えました。そのことは死を意味しました。

アドラーの共同体感覚とか貢献を、
おかみ・おえらいさんの都合のよいように解釈されないよう、
この部分はよく理解しておく必要がある。
アドラーが形而上の理想を意識していたとしたら、
それはもしかすると、「空」なのかも知れないと、感じた。
●そもそも人はわかり合えない。だからこそ

・そもそも人と人とはわかり合えないということをアドラーは前提にしているのですが、だからこそ話し合うしかない、と考えているのであって、初めから話し合うことを放棄することとはまったく別のことです。言葉によって問題解決を図らないことの背景には、相手を自分より劣ったものと見なしていて、話してもわからないだろうという思い込みがあるということです。
・嫌われることなく好かれたいということばかり考えて生きていくと、結果としてたしかに皆に気に入られるようになるかもしれませんが、あらゆる人に対して八方美人を演じるのでそのために人生の方向性が定まらず、やがて不信感を持たれてしまうことになります。そういう人は自分が実に不自由な生き方をしているといわなければなりません。敵がいないということは絶えず人に合わせているということですから、不自由な生き方をしているといわなければなりません。
・私たちのことをよくは思わない人がいるということは、私たちが自由に生きているということ、自分の生き方を貫いているということ、また、自分の方針に従って生きているということの証拠ですし、自由に生きるために支払わなければならない代償であると考えていいのです。
・会田雄二は、察しと思いやりの世界はうまくいくと最上の世界になるが、歯車が少し食い違うと収集がつかない憎悪とひがみの世界を作り上げてしまう、と指摘し、「察し」によるパントマイムに支えられる家庭生活の例をあげています。
・さらにいえば、そもそも相手を理解することは不可能である、とアドラーは考えているのです。だからこそ言葉を使うコミュニケーションが重要であることを強調するのです。わからないと思って付き合うほうが、人はわかり合えるものだと思って付き合うよりはるかに安全でしょう。わかり合うことはできないのですが、それを前提としてなお「他の人の目で見て、他の人の耳で聞き、他の人の心で感じる」という意味での「共感」の重要性を説くところがアドラーの真骨頂です。

衝突を恐れない。
でも人間には「言葉」というコミュニケーションツールがあることも忘れない。
やっぱり、アドラーという人は、空の理論と同じものを感じていたと思える。
●目的論

・ある人がたずねました。「人生の意味は何ですか?」アドラーは答えました。「一般的な人生の意味はない。人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」
・先生の解釈は子どもの集中力の欠如や怠惰が子どもを動かしている、ということなのですが、そうではなくて、子どもの行動を子どもと相手役、すなわち、先生との間のコミュニケーション行動として考えるわけです。
・このように行動を止めないのは、子どもが親や教師から注目を引き出そうとしているからであり、注目を引くことを目的として行動している子どもに注意をするというような注目の仕方をすれば当然その行動を止めるどころか続けることになります。注目を引くことがその行動の「目的」であるというような見方を「目的論」と言います。
・人は原因によって後ろから押されて生きているのではなく、目標を設定しそれを追求する、と考えるのです。

人生の意味は自分が与える・・・この一言が、
目的論の全てを言い切っていると思う。
●原因論・決定論の限界

・アドラー心理学の特色は、この母親との関係がたとえうまくいかなかったとしても、そのことが致命的であるというわけではなく、後に父親との、あるいは、それもうまくいかなくとも友人らとの関係がうまくいくならばそれでいい、と考えるということです。この点は、アドラー自身、母親との関係よりは、父親との関係が良好であったということに関係があるでしょう。
・原因をこのように過去や外的なことに求めてもそれらを変えることは事実上不可能なことなのです。問題行動を起こした子どもの親に、幼い頃に愛情を十分に受けていなかったからであるとか、育児の仕方が間違っていたというようなことを指摘したところで、たとえその通りだと仮にしてもタイムマシンがあるわけではないので過去に戻ることはできません。このような見方とは違って適切な対処の仕方が明確にわかるということが、行動の目的を見ていくことの大きなメリットです。目的は過去ではなく未来にあるからです。アドラーは私たちに関心があるのは過去ではなくて未来である、といっています。過去は変えることはできませんが、未来なら変えることはできますし、目的は人の中にあるので、たとえ過去や外的なことの何一つ変えることができなくてもいいのです。
・フランクルがこの著書の中で非常に明確に、「反」決定論に立っていることは興味深く思います。「後まで残る心的外傷という考えは、根拠薄弱である」とフランクルは名言していますが、しきりにトラウマ(精神的外傷)が問題にされる今日、アドラーの見解は改めて考察するに値します。
・心的外傷後ストレス障害(PTSD)のケース、あるいは、アダルトチルドレンのケースに共通しているのは、強い抑うつ、不安、不眠、悪夢、恐怖、無力感、戦慄などの症状、あるいは極端な活動性は、過去の精神的、身体的な苦痛や、家族からの拒否や虐待といった外界の理由によって「心が傷つけられて」いるために起こる、と考える点にあります。このように考えることは人がいかなる場面においても選択しうるという可能性を認めず、人は外界からの刺激に反応するものにすぎない、と考えることです。アドラーはトラウマは必ずしもトラウマである必要はない、と考えています。アドラーはいかなる経験もそれ自身では成功の、あるい失敗の原因ではなく経験からショックを受けることもない、私たちは経験によって決定されるのではなく経験に与えた意味によって自分を決めるのである、といっています。ですからある経験をトラウマであると見なせばその経験がトラウマになるというにすぎないのです。ある経験によって人が必ず同じ影響を受けるのであれば、そしてそれ以外のあり方を人がとりえないのであれば、今とは違うあり方へと導くことである教育、育児、治療はそもそも不可能であるといわざるを得ません。決定論がアドラーのいう劣等コンプレックスを帰結するのは明らかです。

対して原因論というのは、西洋医学に似ていると思った。
瞬間的・断面的・部分的に原因を切り出して、
病原をただただ「悪いもの」と判断して取り除こうとする(けど、過去のことだから取り除けない)
でも、病気というものは、
健康になるためのサインであり、警報であり、快方へ向かう一つの動きなのだ、という考え方がある。
アドラーのいう目的論はそれに通じるものがある。
●言い訳

・劣等コンプレックスの場合のように、Bができない理由としてあげられるAが必ず人を支配する力を持つのではなく、全体としての私が任意の時点においてBをできない理由としてAを使うことを選択するわけでてす。トラウマを人生の課題を回避するための口実にするのであり、このような口実を「人生の嘘」と呼んだのでした。
・全体としての「私」があることをする、と決めたり、また、しない、と決めたりするのですから、心のある部分はしたい、と思っているが、別の部分はしたくはないというような乖離はいっさいありえないのです。わかっているができないというとき、実は、できない(cannot)ではなく、したくない(will not)のです。
・普通であることを受け入れることができないと人は特別であろうとします。自分は特別で優秀でなければならない・・・。あるいは、自分は特別に悪くなければならないのだ、と・・・。私は勉強において優秀であろうとしました。他の面では自信はないが、勉強なら負けないぞ、と考えたのです。

私にもやはり、こういう未成熟な要素があった。
変わろう。
●勇気づけの誤用

・ここでありがとうといっておけば次回も適切な行動をしてくれるのではないか、と考えて言葉をかける場合です。このようないわば下心がある場合は勇気づけにはなりません。勇気づけは今の自分の気持ちをいうことであても、「次」はないのです。このような危険を回避するために、「存在」そのものに注目したいのです。何かをしたからではなく、ただ「存在」していることがすでに喜びであるということを伝えてみます。

●結末を体験させることは罰ではない

・手出し、口出しをするほうが簡単でしょう。それを敢えてしないのです。しかし、これは放任ではありません。もしも子どもの手に余ることであれば、あるいは結末を体験すると危険がある場合は、出て行かなくてはなりません。結末を体験してもらうのは、そのことによって自分に能力がある、人々は自分の味方である、と感じるように援助するためであって、逆に自分には能力がない、人々は自分の敵だと感じる可能性がある場合は、結末の体験に委ねることはできません。方法を誤ると結末を体験することが子どもにとって罰を受けるという結末になることがありますから、十分注意しなければならないということを強調しておきます。

操作主義を捨てられない親が、
アドラー心理学を自分のエゴで都合のよいように「テクニック」として
使おうとする傾向があるようだ。
とくに注意だろうな。
●その他

・ナチズムの台頭とともにユダヤ人の迫害を恐れたアドラーは、1926年から1927年の冬にかけてアメリカへの定期的な旅行を始め、次第に活動の拠点をアメリカに移しました。1935年にはアメリカに家族も合流しました。

アドラーの時代ほどではないけと、今の日本も少し似ているのかも知れない。
日本もきな臭い雰囲気になってきた。
海外への足場を作っておいたほうがいいのだろうか。

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