アサーション・トレーニング

さわやかな<自己表現>のために
どうして、うまく伝えられないんだろう?そんなもどかしさを抱えたすべての人に
Assertion training

前から気になってた一冊。
身近な人が人間関係に悩んでいるというとを知った。
ということで、今、読んでみた。
アサーティブネス
…人間関係で悩むすべての人が読むべき一冊。
こういうことを、
義務教育の道徳の授業で教えてくれればいいのに、と思う。
親業における「能動的聴き方」や「I Messeage」も
これと同じ話。


私がマスターしなければならない一つのスキルが、これだ。
そう、感じた。実践し、読み返して確認し、を
繰り返す必要がある。
●assertive

・相手の受け取る行為は相手のものであり、受け取るかどうかは相手が自由に決めることができます。私たちは相手の自由を支配することはできませんから、伝わるかどうかは分からないし、それを怖れても仕方がないのです。つまり、失敗することを怖れていては、コミュニケーションは成り立たず、したがって、精一杯、自分のできる限りで、自分の気持ちを表現することに、まず、エネルギーを注ぐことが先決なのです。そして、伝わらなかったら、さらに、コミュニケーションを続けるしかないのです。
・よく考えてみると、これら問題には言い方以前の問題が潜んでいそうです。つまり、自分の判断に自信がもてないことが大きく影響して、アサーションをするか否かで迷っているということです。非主張的な人は「断ることはよくない」「迷惑はかけてはならない」「相手の気分を害するようなことは言ってはならない」と、自分で決め込んでいます。逆に、攻撃的な人は「やっていいに決まっている」と、これもまた自分本位の思い込みで、相手を押さえます。どちらも、知らぬ間に、自他のアサーションの権利を侵しているのです。一方、アサーティブな人の言動を見ていると、判断か自分勝手ではないことが分かります。彼らは一つの確実な基準をもち、それを確信し、自信をもって行動しています。
「罪悪感や利己的な感じをもたずに依頼を断る権利」
「聴いてもらいたいとき、まじめに受け取ってもらいたいとき、それを要求する権利」
「つき合いを要求されても、一人になる権利」
「決断をするときに、非論理的である権利」
「他人と違う権利」
・A-B-C-D理論 問題や悩み(C)は、それを引き起こすような出来事(A)によって引き起こされると考えがちだが、実はAをどんな考え方で受け止めたか(B)の影響で、Cは引き起こされている
A(Active event)=ものごとを引き起こす出来事
B(Belief)=信念、思い込み
C(Consequence)=結果、問題、悩み、症状など
D(Dispute)=論破、論駁
・DESC法 DとEをしっかり区別すること。Dは、誰もが認めることができる、ある程度客観的な事実を、主観を交えずに述べる必要があります。
D(describe) : 描写する
E(Express,Explain,Empathize) : 表現する、説明する、共感する
S(Specify) : 提案をする
C(Choose) : 選択する
・怒りは適切に表現する
できれが怒りの程度がマイルドなときに表現すれば、それほど抑えようとする必要もないわけです。せめて中程度のときに「やめてほしい」ことをはっきり伝えれば、嫌なことがたびたび重なったり、怒りがたまったりするのを防ぎやすくなります。多くの場合、”NO”が言えずに、不満をためた結果、爆発的に怒りが出てしまい、攻撃的な激怒になったり、問答無用の絶交宣言になったりするのです。
マイルドな怒り : 不快だ 同意できない いやだ という気持ち
中程度の怒り : 腹立たしい イライラする 反対だ 煩わしい と言いたい気持ち
最も強度の怒り : 頭にくる 怒鳴る カッカする うるさい ぶん殴ってやりたい などの激怒の気持ち

男女関係においてアサーティブであること
親子関係においてアサーティブであること
この二つは、アサーションとは別のところから、自然に到達した結論だった。
しかし、はじめからこのアサーショントレーニングを学んでいたら、
もっと早かったかも知れない。そう感じる。
AとCを直結しないよう注意喚起するABCD理論も。
DとEを分離して考えなさいというDESC法も。
●non-assertive 非主張的

・恩着せがましい気持ちや、「人の気も知らないで」といった恨みがましい気持ちが残ります。もし本当に相手を配慮し、尊重して同意したり、譲ったりしたのであれば、自分の決断でそうしているので、気持ちはさわやかで、未練は残らないはずです。そもそも自己表現していないので、相手に分かってもらおうと期待することは欲張りなのですが、つい「黙って引いてあげたのに」とか、「相手を立てたのに分かってくれない」といった甘えや、「思いやりのない人だ」とか、「鈍感な人だ」といった相手への軽蔑の気持ちをもったりもします。
・感情を軽視し、感情表現を嫌う親に育てられた子どもは、自分の気持ちを抑えるため、自分の内面に鈍感になります。そして、親に受け入れられる言動だけを選んで身につけていくのです。
・非主張的な言動をしていると、自分のことを分かってもらえない欲求不満がたまります。たまった欲求不満は、相手への恨みになります。「こんなに譲っているのに鈍感な人だ」とか「思いやりがない」など、自分が自己表現していないことを棚に上げて相手を非難する気持ちがつのります。また、こんなに我慢したのだから、そのことを知らしめてやろうといわんばかりに、突然、相手の裏をかくようなことをするのです。そうなると、自分のことや言いたいことが先立って、相手や周囲の状況が見えなくなります。欲求不満がたまったことによるストレスと相手への怒りは、自分を正当化することに向けられ、爆発することになりかねません。
・権威に弱い人に限って、権威的な言動をするのをよく見かけますが、それはこのようなメカニズムによって起こっているのです。
・赤面恐怖の人や自分の言動に自信のない人は、「人間である権利」「失敗する権利」をうまく使えていない例でしょう。
・傷つけることもあり得ると覚悟することです。いくら気をつけていても、自分の知らないところで相手を傷つけてしまうこともあります。傷つけまいと必死になるよりも、傷つけてしまうことがあり得ることをいつも心にかけ、その後始末の方法を身につけることが大切です。
・違いは不仲の証でも脅威でもなく、率直なコミュニケーションの出発点であり、知らない世界・新たな発見に触れるチャンスです。違いを分かり合うことは、独り善がりかもしれない一つの「真実」にこだわるのではなく、複数の「仮説」に開かれることであり、現実的かつ親密な関係への入口でもあるのです。
・非主張的な人と攻撃的な人が陥りやすい落とし穴があります。それは、アサーティブな発言を攻撃的と受け取ってしまう場合です。…私は秘書に、「優しく歓迎してもらいたい」という期待をもっていたために、「いません」という返事がつっけんどんに聞こえたわけです。相手の返事は自分の期待通りに返ってこなかっただけであり、これで意気消沈したり、「不親切だ」などと腹を立てたりするとすれば、それは自分の甘え以外のなにものでもありません。

私は、やや非主張的な傾向があるように思う。
10代の頃についた先生のおかげで、
また、働いている外資系企業の環境でだいぶ改善されつつあるが、
それでもまだ、足りない。
そして、この鍵になるのは「自信」とか「自尊心」だと思っていた。
しかし、実は違っていた。
その鍵は、「失敗してもよい権利」だったのか…。
目からウロコがおちるような感覚だ。
●aggressive 攻撃的

・攻撃的とは、たんに暴力的に相手を責めたり、大声で怒鳴ったりするだけではなく、相手の気持ちや欲求を無視して、自分勝手な行動をとったり、巧妙に自分の欲求を相手に押しつけたり、相手を操作して自分の思い通りに動かそうとしたりすることをいいます。もちろん、不当な非難、侮辱、皮肉、八つ当たりなども含まれます。また、雑談や何気ない会話をしているときの「だめ押し」や「ひと言多い発言」なども、自分の優位を示すための攻撃的主張となることがあります。
・親とか権威者にはどんなことがあっても従うべきだと思っていると、自分が子どもの立場や地位のない立場にいるとき、従属的または非主張的になります。逆に、自分が親や権威者の立場にいるときは、攻撃的になる可能性が高いのです。
・アサーションを攻撃的な行動と誤解して区別できないでいる人、人に負けることが嫌いで、常に勝ち負けでものごとを判断しようとする人などは「全般的に攻撃的」になりがちです。
・予測された危険に対して自分の能力では対応できないと感じた場合、それは自分を脅かすものとなります。脅かされた場合、正直に「怖い」と言ってしまえば、相手はそれ以上の脅威を与えるのをやめてくれるかもしれません。しかし、正直に脅威を受け止めないと、その脅威を与えた相手に対して、それに上回る脅威を与えようとします。不快感にもとづく怒りは、表現しないと、欲求不満をつのらせ、たまったあげくには、攻撃に転じることになるのです。また、怒りは他の方法(八つ当たり)で処理される場合もあります。怒りを感じたとき、その場で表現しないで、他のものや他の人に怒りを向けるやり方です。
・もし相手の言動に脅威を感じたときは、その正体をはっきりさせることが大切です。実際に脅威の内容を検討してみると、危険が大きなことはほとんどなく、脅威のもとは、経験、価値観、意見、行動様式の違いであることが多いのです。「違い」が脅威になっているとすれば、それは同じでありたい気持ちが強すぎたり、同じでなければならないという思い込みのせいでしょう。
・怒りで対応するのではなく、脅威を感じていることをそのまま正直に言語化することです。もし、本当に怖いと感じたら、怒るのではなく「怖い」ということが大切です。多くの場合、怒りで相手を撃退しようとするよりも、自分は「困ったり」「怖れたり」「がっかり」していますと伝えた方が、相手は脅威を感じないので、あなたの状態に対応しようとしてくれるでしょう。
・自分に対して他者から怒りが向けられたとき、どうすればよいでしょうか。まず大切なことは、自分の怒りの場合と同様、「怒りは相手のもの」であることを確認することです。もし、相手の怒りが「自分のせい」だと受け取ったり、仕返しに自分も怒ったりするとすれば、それは他人の怒りを自分に伝染させて、意味のない攻防、消耗的なやりとりを始めることになります。他者の怒りはまず伝染させないことが重要です。次に大切なことは、相手の怒りの気持ちを否定しないことです。「そんなに怒ることはない」とか「怒るのはよくない」といった対応は相手を大切にしたことにはなりません。むしろ、相手の怒りを否定しようとせず、相手のものとして受け止め、その理由を理解し、それに対応する意志があることを示すことが大切です。また、相手の気持ちを受け止めると同時に、自分の気持ちを相手に伝えることも大切です。もし相手から怒りを向けられて緊張したり、防衛的になっていると、相手の気持ちを正確に受け止めることができないかもしれません。そんなときは、「怖い」とか、「動揺している」とか、「ちょっと待ってください」など、自分の防衛的な気持ちを表現することが必要です。

私は、もともとアサーティブだった。
しかし、アサーティブに主張すると、非主張的な相手は、攻撃と受け取り、傷ついた。
深く傷ついた。傷つき続けた。
そして、いつの間にか、傷つけることを怖れるという謝った判断をもつようになり、
自分自身がアサーティブにコミュニケートすることができなくなってしまった。
つまり、自分自身が非主張的になっていた。
しかし、その非主張的という抑圧は、鬱積し続け、
自己正当化の為に、自己破壊的な形で、爆発した。
攻撃的な人は、どこか別のところで、非主張的である。
ディマティーニのいうバランスと同じ話。
●その他

・多くの対人スキルは、子ども時代に見につけますので、子どもをとりまく親やおとなの言動が大きく影響します。ある種のスキルをもってない親や、社会的スキルの訓練には無関心な親に育てられた子どもは、対人スキルが学習されません。
・「自由にしなさい」とか、「人には頼らないで、自分でやりなさい」というメッセージ…その言い方は命令的です。つまり、「自由」や「自立」を命令していることになる
・「感情が豊かである」ことと「感情的になる(感情をぶつける)」ことが混同されている
・幼い子ども…おとなが「大丈夫?」とか「アー、痛かったね」と気持ちを言葉にして対応すると、子どもはほっとして泣き止んだり、甘えた泣き方に変わるかもしれません。逆に、「泣くんじゃない」とか「はい、立って」とか言われると、おそらく、もっと泣くでしょう。ただ、その泣き声の中には、不安や痛みが理解されなかったことに対する失望や悲しみが含まれている可能性があります。その失望や悲しみの涙が理解されないと、さらに声を荒立てて泣いて、憤慨や抗議(怒り)の泣き声に変わることもあるでしょう。
・感情を理解する道筋は、相手の感情の違いをしっかり受け止め、それを言語化して理解を相手に伝えていくことです。それがうまくできないと、悲しいのに怒ったり(男性に多い)、怒っているのに泣いたり(女性に多い)して、ますます相互理解が困難になっていきます。
・人々は人間関係とコミュニケーションなしには生きていけないこと、そして多くの困難や不都合は人間関係とコミュニケーションに起因していることを考えると、今後人間に残される課題は、機械やものが充たせないこと、つまり人間力でできることを洗練していくことでしょう。アサーションは、その手がかりの一つです。
・「いただきます」「ご馳走さま」「行ってらっしゃい」「お帰りなさい」という挨拶は英語にはありません。

親業において説いていることの本質は、このアサーションにあると思う。
子どもに対して攻撃的になったり、非主張的になったり、
またそれを交互に繰り返したりすることのないように戒めている。
自分自身がアサーティブであること。
そして、子どものアサーションの権利を認めること。
このことに尽きる。

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