ダライ・ラマ ゾクチェン入門

チベット密教究極の教え ”DZOGCHEN”
チベット密教最高奥義「ゾクチェン」の教えを平易なことばで徹底解説。

ゾクチェンにとても興味がある私。
ゲールク派であるはずのダライラマが書いたものがあると知って、さっそく手にとってみた。
どうしだろう、と。


●この本を読んで思ったこと
・ダライラマは、ゲルク派という印象があったけど、いやいや実はリメーの実践者なのだと感じた。
・チベット仏教はには、根本乗(小乗、上座部)の教えや実践も継承しているということ。
●印象に残ったところ、学んだところ

ゾクチェンの教えでは、水晶は、リクパと空将の統合を説明するために隠喩として用いられます。ある教えの系統では、クジャクの羽がこの水晶の上に置かれることもあります。その場合、水晶は「テクチュー」と呼ばれる実践を象徴し、クジャクの羽は「トゥゲル」と呼ばれる実践を象徴します。

何か確実なものを探そうとして、「たぶんこのほうがいいだろう、いやあっちのほうがいいかもしれない」などと、次から次へと教えを貪り、至る所を彷徨い歩くようでは、結局どこにも到達することができません。だからまず一つの教えに従うことを堅く心に誓って、その教えに基づいて進んでいくということが大切です。

これは、あらゆる道にあてはまる。
ビジネスの勉強も同じだ。

解脱の方法を知るのではなく
ただ、瞑想の方法だけを知る—
これでは、神々の瞑想と、どう違うのか?

西洋の潜在意識を活用するタイプの成功哲学や自己啓発と密教や東洋の瞑想の決定的な違いは、まさにここにある。それをすっきり著した部分。

インドでは哲学上の見解の相違から、有部、経量部、瑜伽行派、中観派という四つの大きな宗派が生まれましたが、チベットにおける四大宗派はいずれも中観派の学説を支持しており、哲学的見解に関する根本的な相違は見られません。

ロンチェンパは、中観帰謬論証派の哲学を弁証法哲学の最高のものと位置づけ・・・

弁証法、ヘーゲルだけではないのだ。

その言葉を正しく解釈する方法はそのテキスト自体の中にしかないということなのです。

リメーの姿勢をもっていることをよくあらわしている部分だと思う。

・・・阿羅漢の状態に達することができます。しかしそれは、迷乱によって私たちの中に残された知識の障害、すなわち「所知障」を排除する力をもっていません。マイトレーヤの「宝生論」によれば、こうした知識の障害は、菩提心や慈悲といった方便の要素を伴った空性の直接理解によって克服できるとしています。

タントラをスートラから区別する特徴には多くのものがありますが、智慧と方便の分かちがたい統合は、タントラの重要な特徴の一つです。

新訳派のタントラによれば、無上瑜伽タントラは、父タントラ、母タントラ、不二タントラに区別されます。これらの区別は、それぞれのタントラがどんな主題を強調しているかによって決められます。

父タントラにおいては微細なエネルギーの瑜伽によって、母タントラにおいてはティクレの瑜伽によって、捉えられるとされます。

今まで混乱していたこれらの違いが、すっきり整理されてとてもよくわかった。

瑜伽行者ミラレパは、晩年はずいぶんと長い間、山庵にこもって孤独な隠棲修行をしていましたから、そのときは彼の師であったマルパから助言をもらうことができませんでした。ですから、彼は自分自身で自らの体験や実践の進み具合を評価しなければなりませんでした。この質問は、仏教の包括的なアプローチ、つまり仏教の教理と実践を広い視野から見ることができる目を養うためには、最初の段階では、仏教の全体像についての研究と学習に一定期間十時しなければならないという問題を提起します。それは、正しい設計図を描き、将来の目標に向けて現実的なプランを練るのと似ています。

メンターと離れて生きる今の自分がまさにこの状態なのだろうと思う。
自分のことを評価するためには、やみくもに実践に入るよりも、まずはベーシックな知識が大切。
お勉強も間違ってはいないのだ。

一般にゾクチェンでは、真の実践者になるためには、ゾクチェンの実践に集中的に取り組むよりも前に、出合うべきいくつかの必要条件があります。これらの必要条件には、無上瑜伽タントラに説かれる諸尊の灌頂を完全に授与されていることや、ゾクチェンの共通の加行、特別な加行の両方をすでに実践していることなどが含まれます。

ゾクチェンでは、「ングンド」と呼ばれる準備行がとても重視されています。ゾクチェンにおける準備行、すなわち共通の「ングンド」には、帰依、菩提発心、金剛薩埵の瞑想、読誦、マンダラの供養、転移(ポワ)、グル・ヨーガなどがあります。加行の全容については、パトゥル・リンポチェが著した「クンサンラマの教え」の中に、きわめて系統だった詳細な説明があります。

基本が大切だという話。
そしてその基本は何をすべきかも明確に説かれている。

慈悲という言葉を、私たちはしばしば、単なる同情心であると勘違いしています。慈悲というのは、もっと大きなものです。それは単なる親愛の感情ではなく、ある種の責任感を伴うものです。

寛容や忍耐はしばしば、弱さの印と見なされることがあります。しかし実際には、理性と信念を貫いている人ほど簡単に怒ることはなく、むしろ理性を欠いていて、自分に自信がない人ほど簡単に怒りの犠牲になってしまうものです。

怒らないことを、怒れないことと勘違いする人がいるけれど、そんな人のいうことを聞く必要はないのだ。

タイトルとURLをコピーしました