叡智の鏡 チベット密教・ゾクチェン入門

ナムカイ・ノルブ・リンポチェの本は全て読む。
それが私のポリシーです。
ゾクチェンについて触れられた書籍は他にも多少はあるようですが、私の知る限り、国内ではナムカイノルブさんの書かれたものが、最高のテキストだと思います。


10年ほど前に、「ゾクチェンの教え」という本を読んだ時、心が震えました。
その後に読んだ「虹と水晶」「夢の修行」、先日読んだ「チベット密教の瞑想法」とあわせ、この本も私のバイブルです。何度も読み返すことになるでしょう。
●気になったところから

たとえば、わたしが何か見せたとしよう。見れば、どんな形や色をしているかがわかる。
そのあとで、忘れてしまえと言っても、できない相談だ。
どんなものだったか、考えを変えなさいと言われても、できない。
なぜか?直接の体験だからだ。自己の真の本質を発見するのも、それとよく似ている。

知的な学習とゾクチェンの違いについて説かれた部分。
これは、自分のビジネスにおける学習と実践の関係にもあてはまる話だ。

道、教え、師匠、いずれについても、考えて決めることなど、ありえない。
これが自分の道だ、教えだ、師匠だ。そういう決定の仕方には、嘘がある。
本物のゾクチェンの師匠に出会う。それは考えて、教え、師匠、血脈を決めることとはちがう。
師匠は、自己の本質を見出しなさいといって、方法を与える。
その方法を実際に使ってみることによって、本質を発見するようにつとめる。
それだけだ。一つを見いだせば、すべてを見いだしたことになる。

武道を学ぶ、マーケティングを学ぶ、ビジネスを学ぶ、IT技術を学ぶ、
どんな「道」でもそれは全て同じなのだと改めて感じる。
とくにゾクチェンは、ややアカデミックな色の強い上座部とは異なるようだ。

十歳くらいになるまで、子供たちは、自分をコントロールすることができない。
この年齢くらいまでは、子供を、ただ自由に放ったらかしにしておくのは、あまりよいこととは言えない。
子供をコントロールし、助ける方便が必要だ。
最初から、社会のなかには、どんな制限や限界があるのか、説明する必要がある。
限界のなかに押しこめることを教育と考えるのはよくない。
しかし、社会はそうやって機能しているのである。
それが、わたしたちの生きている条件なのである。

このあと、殺してはいけないということをどう教えるかの例が説かれているが、
それもまた、とてもすばらしい。

シグンゾク・ガェルポは、釈尊よりも五千年ほど前にあらわれた変化身の導師であり、
したがってロンデは、非常に古い起源をもつ教えなのである。

ニュートン以前にも万有引力は存在してたし、
アインシュタインが証明しなくても、相対性理論はあったし、
ということと同じことなのだ。
仏教は宗教ではない。むしろ、哲学や自然科学に近い。
釈尊以前にも真理は存在している。
そもそも釈尊は「仏教徒になれ」などということは話していないのだ。

実際のところ、もっとも重要なのは、過去世からの絆によって結ばれている師匠である。
師匠に会うだけで、また教えを聴くことによって、
あるいはただ名前を聞くだけで、信仰や喜びの感情が湧き起こり、
自己の成長に導くようであるなら、あるいは世界の見方に変化が生じたなら、
その師匠と前世から関係があったということを意味する。
そういう師匠に出会ったら、弟子になるかどうか決めるために、吟味する必要は大してない。

私にとっての師匠は誰なのだろうか。
また、最後の章では、バルド・トゥードルについての使い方について細かく書かれている。
つい最近、祖母がこの世を去り、まだ49日経っていない。
バルド・トゥードルそのものの日本語訳はいくつかあるが、
この使い方について書かれたものはなかったので迷うところがあったが、
この本には、とても助けられた。

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