子どもは家庭でじゅうぶん育つ

不登校、ホムエデュケーションと出会う
わが家はホームエデュケーション!
子どものいのちを守り、学校的価値観から飛び出した、こころかろやかなメッセージ!!

日本でこれを理解できる人は、まだ少ないんだろう。
でもこれ、最先端なのだと思う。
もう10年もすれば、きっと、当たり前の選択肢のひとつに
なるんだろうな。

●ホームエデュケーションの本質・メリット

・「子どもと過ごすこんな楽しい時間をすっかり学校に渡してしまうのにしのびないので、わが家ではホームエデュケーシヨンを選びました」
・子どもが学校に行かなくなり、私もPTAを辞め、学校から指示・指導されず自由になって感じたのは、子どもを学校から取り戻したという思いです。家族みんなで育てている大切なわが家の子ども、という感じです。育てているようで実は、こちらが育てられているのですが、赤ちゃんの頃の、笑顔、泣き顔をみてはうれしいという感覚に近いです。
・現在、シューレを卒業して大学生活に専念しているが、毎日をあらためて振り返ってみると、シューレ時代と基本スタンスがそれほど変わっていないことに気づく。授業にしても興味あるものを選択することができるし、面白いと思ったことはとことん追求することができる。
・ホームエデュケーションのいいところは、とにかく時間が自由なので、どこかへ行こうという時もゆっくり考えられるし、突然の行事もできる。

大学というところがそうであるように、その仕組みを小学中学に導入して悪い理由は何もない。
上の子が小学校に入って、平日に遠出ができなくなった時に、強く思った。
不自由だな、と。
家族のために学校を休むと「ずる休み」とされてしまうなんて。

●学校システムの終焉・デメリット

・いろいろなことに疑問をもち、授業中「なぜ」とか「さっき先生はこう言ったけれど、でも」とか質問をよくする子がいました。それは、学ぶには素晴らしいことだと思いますが、予定通り授業を進めないと一年間分がこなせないと心配している教師にとっては、質問をよくする子どもは授業妨害とも感じ、「先生の質問に答えていればいいのです。あとはダメ」と押さえてしまいました。小学四年の子どもに、どれだけストレスがたまったか想像してください。その後、何にも言わなくなってしまいました。こうやってあげていくと、子どもの個性が学校のやり方に合わない、あるいはつぶされるという場合もあり、それならば家庭で、その子の個性を大事にしながら育てていくほうが本人にもよい結果をもたらすかもしれません。
・絵が好きで伸び伸びと描いていた小学二年の子が、通知表で「2」をつけられ、ほかの子と比べられ、絵は大嫌いになってしまいました。もし、その子なりの表現を周囲が喜んで見てくれ、思い切り描いていたら、どうだったでしょうか。
・学校はもともと近代の大量生産型産業社会にみあって作られた教育機関であり、集団制で、同じ時間に同一場所で、同一のことをやらせるシステムで、安上がりで効率よく次世代育成をやろうとしてきました。しかし、生産構造や消費ニーズの変化、IT社会の到来、少子化や学歴インフレによる受験戦争の緩和などから、教育もまた変わらざるを得ません。「一人ひとり」とか「個性重視」がうたわれ、しかし国が握っていた統率権は放さないので、中途半端な形で変化しているわけです。
・担任と散々やり合った私は、最後に啖呵をきった。「どうせ先生がこの子のことを考えるのは一年間だけです。私はこの子と一生付き合っていくんです。この子についての責任は私が取ります」

学習の四タイプも、NLPでいうところの感覚タイプも、何も学校は考慮されていない。
発達心理学や個性を無視した過去の時代のスタイルをいまだ踏襲しているような場所に
子どもを預けることに、とても大きな戸惑いを感じている。
もしこれが病気に関することだとしたらと思うとよくわかる。
誰が、床屋が外科医を兼ねていたような古代の医者に、自分の子の体の手術を依頼しただろうかと。
今の教師なんて、残念ながらその程度の能力しか、ない。
教員免許があれば子どもに教えることができるなんて、そんな乱暴な話は、あってはいけない。

●自尊心・自己重要感のために

・私にとって良かったことは、子どもの成長を他者と比べることや学校の成績といったものさしで見なくなったことかもしれない。この年令ならこれができなくちゃとか、何時いつまでにはこれをやらせなくてはといったことを考えなくなった。一年前にできなかったことが、今、できているということにある日気がついて感動する。子どもの育つ過程の一つひとつが、どんなにもどかしく見えても、それはその時期その子にとっては必要なことなのだと思うと、その時を大切にしたくなる。これは、自分で納得した時には必ず自分の力で前へ進んでいった息子を間近で見ることで学んだことだ。
・小一の学校を休みたての頃、友だちから書くように渡されたプロフィール帳の「自分の性格」のところに「泣き虫」と書いていた娘。ホームエデュケーションを始めてから「自分の性格」欄には「明るい」と書き、「自分のことが大好き」と書くようになった。

娘をみていると、学校に行けば行くほど、可能性をつぶされ、
潜在意識にネガティブな洗脳プログラムを入れられているような気がする。ため息しかでない。
このデプログラミングって、ほんと大変。
余計な苦労をしているような気がする。

●不登校に罪悪感を感じる必要はない

・ホームエデュケーションを選ぶ最大のメリットは、家にいて育つことを罪悪視、劣等視しないで、自分に自信と誇りをもって成長していくことだと思います。「多くの人がやっている『学校へ行くこと』ができなかったダメ人間」という認識と「自分に合った方法で、自分らしく育ってきて、家族にも愛され誇りを持っている」という認識とでは、自己確立は相当に異なっていくと私は考えます。
・日本の子どもたちは、学校へ行く道以外のことを知らされていません。病気であれば、学校を一時的に休むことは許されています。しかし、どこも悪くないのに学校へ行かないと「ずる休み」と言われるだけだし、自分でも罪悪感が伴い、いい気分で一日を過ごせません。あくまで「子どもは学校へ行くもの」という社会通念のなかで、行かないで家にいていい、フリースクールもあるなどということは考えられないし、知らないのです。そこで、楽になるには死ぬしかなくなるのです。
・子どもが学校に行ってはいるが、これでいいのかと悩んでいる親は、たくさんいます。
・学校は行きたければいつ行ってもいいし、危険を感じたり、自分に合わないと感じたら、学校に行かない自由もある、ということも伝えました。「学校に行かないという選択の自由」を私たちは持っているし、そのことを知っている! その素晴らしさを改めて思いました。たくさんの子どもたちは、そのことを知らされずにどんなに危険を感じても学校に行き続けているのだから、怖いだろうね、と息子と話しました。

学校を休むことを「ずる休み」とするこの風潮・文化は、カルト教団のそれと同じ。
つまり「脱会するものは地獄に落ちる」の論理と何もかわらない。

●社会性は学校通学に依存しない!

・ホームエデュケーションだと集団に属さないし、友人も少ないし、つきあいといえば家族くらいに見えますが、社会性は育つのでしょうか。…彼らは、会議をし、通信を発行し、イベントを企画・実行し、シンポジウムで話、料理や掃除をし、責任感も柔軟性もあるしっかりとした青年たちです。彼らに社会性がない、と思う人は誰もいないでしょう。ほかにも私は、この四半世紀の間、家で育ち、現在は社会人となっている多くの人たちを知っています。
・社会性の基礎は、家庭にあるのではないでしょうか。自己以外の他者への認識、その助けあいや愛情、喜びや悲しみ、あたたかさやいがみあい、倫理観や責任感、それ社会で生きていく土台となる人間関係や、身の処し方をよくも悪くも経験し、学ぶのは家庭です。もし、家族が信頼できれば、家族のむこうにある社会の人々も信頼できるし、家族が信頼できないつらい思いをしていれば、社会の人々に対しても不信感、恐怖感を持ち、それこそひきこもりになり得るでしょう。
・「わが家は家にいることにはなったけれど、親拒否で、部屋から出ず、食事もいっしょにしないで、昼夜逆転して顔も合わせていない」などと言う方もいますが、これはホームエデュケーションとは別に、不登校への劣等感・罪悪感・不安やそれまでの親子関係がからみ合って起きていることで、これは別に考える必要性があり、いっしょにしてはうまくとらえられません。
・よく不登校の子どもは、社会性が育たないかのようにいわれがちですが、こうして長い間じっくりと子どもとつき合っていると、そのような心配はだんだん無用だと思うようになります。初めのうちこそあらゆることに緊張してコチコチに固くなっているようですが、親のそばで安心して暮らしてゆくうちに、その子どもが持っている本来の良いものが輝き出してくるように思います。
・同じ年齢の集団にいてグループ分けされるような環境のなかでは、子どもたちはほかの子どもたちの存在から大きなプレッシャーを受けます。自分より少し成長している子どもや大人のような見習うべきモデルが身近に無いような状況では、子どもの間にいじめが起きてしまうのは仕方のないことです。いじめはホームエデュケーションでは起きないことです。

この「社会性のために」のリクツは、明らかに洗脳なのだろうと思う。
そう教え込み、思い込ませることで、親たちは何が何でも子どもを学校に通わせる。
根拠のない教えを妄信するカルト信者と同じだ。
早くこの、国家的な洗脳から抜け出さなければならない。

●ホームエデュケーションは適法

・義務教育の「義務」は、子どもの学ぶ権利を保障するおとなの側の義務の意味であって、子どもが学校へ行く義務ではありません。親の就学義務も、子どもの学ぶ権利を親として援助する義務であり、登校を強制することが子どもの心を傷つけるような場合に、むりやり学校へ行かせる義務ではありません。

ここ、知らなかった。
たぶん知らない人がほとんどだろうなぁ。。

●乗り越えるべき壁

・働く母にはお弁当作りは負担だが、そのうち自分でお昼ごはんも作れるようになるという。

私の子どものことを考えても、できることなら学校を退学させたいなと本気で思う。
退学というのは、高校ではなくて小学校のこと。

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