革命か戦争か

オウムはグローバル資本主義への警鐘だった
「日本はますますオウム化する!」
最後の幹部が激白

読むに値する一冊。
とくに苫米地氏との対談に書かれている内容は、ものすごくハイレベル。
縁起とか空について深い理解をしている人がいたんだと、ため息が出た。

●投影と影(シャドウ)

・よくテレビで取り上げられる問題で、官公庁の役人による汚職や不正な金の使い道が取りざたされます。その話題で取り上げられた役人は、いかにもお金に汚いずる賢い人物であるような内容で報道されることがよくあります。それをみて視聴者は、「こういう酷い役人によってわれわれ善良な国民の生活が蝕まれているんだ」などという気持ちになります。しかしお金を欲しいと思っている人やできればよくしてお金を稼ぎたいと考えている人もいるでしょう。自分の欲望は棚に上げておいて、テレビで槍玉にあがっている役人にその欲望を投影したに過ぎません。投影することによって、自分は「善良な国民」であり、被害者の立場として役人を攻撃する正当性を得るわけです。
・オウム真理教は、日本社会に生まれたガン細胞のようなものです。しかし例えばガンは、ガン細胞だけを手術で摘出しても、完全に治癒しないことがあります。食生活や日々のストレスなど、生活習慣を根本から変えないと、またガンが再発することが多々あります。゜むしろガンを生活習慣を見直すシグナルとして容認し、生活全体を見直すことが求められたりもします。問題が生じている部分だけを取り除いて最適化することで、全体を最適化することができるのか、という問題です。

・集団の成員がすべて同一方向、それも陽の当たる場所に向かっているとき、その背後にある大きい影について誰も気づかないのは当然である。その集団が同一方向に「一丸となって」行動してゆくとき、ふと背後を振り向いて、自分たちの影の存在に気づいたものは、集団の圧力のもとに直ちに抹殺されるであろう。そのことほどその集団にとって危険なことはないからである。(河合隼雄 影の現象学)
・そのうちに、影は成員のなかの少数の人の意識に侵入し始める。集団の影を背負うことを余儀なくされる人は、どのような人か、強い人か弱い人かは容易に断定しがたい。ともかく、結果としてその人は、予言者、詩人、神経症、精神病、犯罪者になるか、あるいは一挙に影の反逆に成功して独裁者となるか、なんらかの異常性を強いられる。(河合隼雄 影の現象学)

・集団の影を背負わされ異常性を強いられた者が、影の反逆によって独裁者ともなりうるのです。これは、誰を思い浮かべるでしょうか? 歴史上の人物ならば、ヒトラーが該当するかもしれません。予言者、神経症、精神病、犯罪者、独裁者….。私はこれに該当する人物に数年間尽くしてきました。そうです、麻原彰晃です。では何の影を背負っていたのでしょうか? これは物質的快楽追求の資本主義であると考えています。冒頭で書いたように、オウムは資本主義そのものがもはや限界であることを指し示す、その現れではないでしょうか。

オウムの存在、麻原彰晃の存在は、まさに、資本主義が生み出した現代に生きる人々のエゴのダークサイド。
ガン細胞を切除するようなその場しのぎのやり方をしていても、ガンは転移し、何の解決も生まない。

●苫米地氏との対談より

・縁起の思想ってまさにアプリオリ性の否定であって、その考え方は現代科学の世界では当たり前なの。ただ50年前まではそうじゃなく、まず大前提としての公理系、つまりカントのいうところのアプリオリな系があって、その上に演繹法によって論理的に作り上げられたシステムがあると考えられていたんだよ。いわゆる構造主義だよね。このような考え方を、1931年にゲーデルが不完全性定理によってぶちこわし、87年にはチャイティンが不完全性定理が数学全般にわたっていることを証明し、さらに91年にはグリムという人が不完全性定理を使って「神は存在しない」ことを証明したんだ。これが有名なグリムの定理だね。で、話が回り道しちゃったけど、西洋世界はここに至ってやっと仏教の縁起の思想に近づくことができたわけ。縁起の思想って、部分と全体の双方向性のゲシュタルトで世界が成り立っていると考えるでしょ。仏教的世界には、絶対的なアプリオリな系は存在しないの。そして今では、その世界観は現代科学によっても証明されているんだよね。最先端の数学や哲学、心理学から見ると、釈迦の教えこそが当たり前で、そのほかの宗教はすべてカルトといってもいいんだよ。
・縁起の思想は、広い意味で言えば宗教じゃないのよ。宗教というより、物事の考え方というか。そもそも拝む相手がいないじゃん。だから、朝起きて、歯を磨いて、ご飯を食べて、仕事をして、夜寝るまでの一日のすべての行動が修行であっても構わないの。で、そうした修行だったら、在家でもできるよね。そもそもの話、「在家のままでいいですよ」とうのが釈迦の教えの現代的な解釈であって、出家教団を作る必要なんてないんだよね。釈迦の教えは「宗教」じゃなく、「思想」だからね。

・オウムに関する一連の事件の詳細が明らかになったとき、オウムの教義とか、宗教組織としてのあり方とか、カルト宗教の問題として批判する人もいたけど、俺は違うと思ったんだよ。オウムの最大の問題点は、山を下りてテロを働いたってことなの。「山を下りる」というのは、要するに俗世間とかかわりを持とうとしたことね。で、山を下りてテロを働いたことと、オウムという宗教組織の問題は、まったく別の話だよ。そもそも宗教の論理は、この世の論理とは相容れないものなんだよね。ところが世界の大きな宗教はすべて、この世の論理と相容れているでしょ。政権政党まで出てくるし。「オウムは反社会的だった」とかいうけど、宗教が反社会的なのは当たり前。むしろ現実社会に適応している”社会的な”宗教のほうがおかしいと思うよ。
・山の中でずっと修行してりゃ、よかったんだ。真面目に宗教をやろうと思ったら、東京でやれるはずはないのよ。なのに、霞ヶ関に興味を持ったりして、その段階でちょっとおかしくなっていたと思うね。サリン事件をはじめとする一連の事件は、宗教の論理とこの世の論理がぶつかった結果のひとつであり、それはオウムに限ったことではなく、どんな宗教にもテロに走る可能性はあると思うんだ。
・山を下りて、俗世間とかかわろうとしたのがまずかった。山を下りるべきじゃなかったんだよ。で、これは俺が個人的に思っていることなんだけど、俗世間とかかわる中で、オウムは何者かに利用されたんじゃないかなって。ロシアルートか北朝鮮ルートかわからないけど、明らかな犯罪組織ルートと手を結び、ただのカルト集団に変わってしまい、サリンをばら撒いたテロ活動を起こしたりしてしまった。

・金本位制度が崩れて、お札を無限に刷るようになってから、資本主義が資本家による搾取に変わったんだよ。お札を無限に刷れる前は、有限資源である資本を提供するのと、有限である労働時間の提供関係があった。だけど、お札が無限に刷れるようになった瞬間に、資本家にとって圧倒的に有利になる。片方は有限資源で、もう片方は無限資源だから。
・物理空間以外の喜びをIQの高い人は求められるのね。例えばニンテンドーDSにハマッてる子ってのは、IQが高いよ。もちろんDSのゲームによるけどね。お腹一杯ご飯食べるよりも、DSのゲームやりたいわけだから、それは情報空間の満足が物理空間の満足を越え始めているということだ。オウムに走った子もみんな人間性としてどうかと思ったほうがいいわけ。ニンテンドーDSにハマってしまう子の大人版なわけだ。物理的欲求に対する満足感が強いほど、サラリーマンになり官僚になるのよ。実際はそれが逆に思われているんだよ。一流企業や官僚になるほうが、肉体労働より抽象思考が高いように思われているけど、そうじゃないんだ。実際は逆なんだよ。本質的欲求は官僚になりたいやつのほうが、ゴリラに近いわけだ。物理的欲求の安心感をより求めたいわけだから。とこでそういうものではなくて宗教空間とか、あるいは例として、そうだね、学者、例えば言語学者になるとかだと、物理的欲求はまず満たされない。だって食えるかどうかわからないからね。でも、チョムスキー理論の空間に興味持つわけでしょ? というのはチョムスキー理論は宗教と差がないわけだから。だからチョムスキー理論に興味持つ子は、宗教にいく子と全く変わらないのよ。それは抽象空間の何らかの出来事に対する臨場感を覚えてしまった子たちなんです。そういう子は基本的にIQが高い。そういう子のほうが官僚になる子たちよりも、欲求とし抽象度としては高い。ただ、行った先がサリンばら撒くテロ集団だったことが不幸だったわけだけど。

・今はチェ・ゲバラが出る幕はないわけ。でも、破壊が必要なわけ。それで21世紀の破壊は、紀元前5世紀の破壊と同じで、情報空間の破壊なわけで、物理空間の破壊は、もう許されないわけだ。つまり価値観の破壊。資本主義を破壊するとき、銀行に行って爆弾を仕掛けちゃいけない。そうじゃなくて、準備預金制度をなくしなさい、という思想を広めるとかだね。例えば、カースト制度があるとき、そのベースとなる輪廻転生を破壊する。それはやっていいことなの。それは世界中の憲法に保障されているわけ。ところが物理空間の破壊に訴えた瞬間にアウトなわけ。これは時代によって違うわけ。チェ・ゲバラのときは、勝ってしまえばこっちのもんだったけど、それは社会的には古い。

こういうところまで、ちゃんと洞察できる人がいたんだ。
世の中、捨てたものじゃない。
この人、頭いいな….と思った。
さて、シャドウの現象化としてのオウム事件により、エゴと拮抗するエネルギーの解放があった。
このシグナルの対応の仕方を間違えると、これ以上の破綻が起こる。
どうすべきか。

●オウム化する日本

・ある集団のシステム内部では、理想を追求することが正義です。しかしそれによって対処できない現実の問題は、どうしても生まれてきます。その問題処理の責任を負う立場になると、ある程度柔軟な考えが生まれてきます。理想だけでは対処できないことが身をもってわかるからです。しかし、その問題対処から逃げられる立場、あるいは認識せずに済む立場にある限りは、理想追求こそが正義という一辺倒な見解から抜け出せない、抜け出す必要がないわけです。

●資本主義システムの耐用年数の限界

・豊かさという点に絞れば、結局日本人は贅沢に慣れすぎてしまったわけです。さらなる豊かさを求めようとすれば、誰かをリストラその他で追い落とすしかなくなっているのが現実です。
・国民全てが…一方で金融システムが維持不可能なほどの借金を、ゴミ溜めのように国家に押し付けているのです。資本主義で贅沢に慣れきってしまった一方、「利益は俺のもの、借金は他人(国家)のもの」という西洋的な個人主義に陥っている現代人です。結局その贅沢のツケは、全員の所に回ってくるとわかったとき、大混乱が起きるかもしれないと考えるのは杞憂でしょうか?
・贅沢に慣らされすぎた現代人は、その便利・快適・贅沢な生活を維持せんがために、自らも非情な市場の競争と椅子取りゲームに荷担し、追い出された貧困層からは目を背けているのが現状である。

●メタ認知 オウムとオウム批判を越える選択

・哲学者のニーチェは、著書『善悪の彼岸』の中で次のように述べています。「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬように心せよ」

久々に重み、読み応えのある一冊だった。
そして、苫米地さんに興味をもった。
もう何冊か手にとってみようと思う。

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