子どもと悪

盗み・うそ・秘密・性… 悪とは?
現代教育を受けてきた人たちは、何でもすぐに、
教科書から「正解」を求めるのと同じように、
行動指針や善悪の判断基準は、人から与えられるものと思っている。
何かに書いてあるものだと思っている。
検索すればわかるのだと思っている。
そんな人が、いわゆる「悪」に接した時、ばっさりと切り捨ててしまうのだろう。
インスタントな「正解」「保証」「マニュアル」を求めるんじゃなくて、
自分の責任で、自分の頭でちゃんと考えるべき。
そんなときに、この人の深い思索は、とても学びになる。
本に答えを求めるのではなくて、
本をきっかけに自分で考える。
でも、そういう柔軟な思考ができる人は、
もともと「悪」と決めつけて否定することもないかな。

●悪と見える形をとって芽ばえてきたもの

・もう少し開き直って言うと、大人の考える悪ということを子どもがしたとき、その悪は大人の常識を超える高貴さを潜在させていることがあるのを忘れてはならないと思う。
・日本の親や教師は、教えたり、指導したりすることにせっかちで、子どものなかから自ら育ってくるものを待つことができない。思い切った表現をすると、子どもの心のなかから悪と見える形をとって芽生えてきたものが、どのように変容するのか、その経過を見る前にすぐにその芽をむしりとってしまう大人の「善意」が強すぎるのである。
・「悪い子」のイメージがアメリカと日本では異なってくる。そして、日本では「攻撃的」ということに対する許容度が極端に低いことを自覚すべきである。日本では「素直」という英語には訳すことのできない「よい子」を示す言葉があるが、このような子はアメリカでは下手をすると「アグレッション」のなさすぎる悪い子の方に分類されるだろう。
・そろそろ日本人もアグレッションを悪と考える考え方を変えていかないと、国際社会のなかに生きていくことができない。
・どうしてこうまで大人は子どもに善意の押しつけをするのだろう。基本的には、子ども自身の成長の可能性に信頼を置いて待っておればいいのに、それができない。なぜ、子どもを信頼できないのか。それは自分自身を信頼できないからである。

そもそも「これは悪」「これは善」という観念や判断それ自体が、オトナの思い込み。
自分の子どもの中にある “常識を超える高貴さ” を信じられるかどうか。

●子どもの感情

・「元気で明るいよい子」好きの大人は、子どもが怒ったり悲しんだりするのを忌避する傾向が強い。「泣いてはいけません」、「そんなに怒るものではありません」と注意して、子どもはいつも明るくしていなくてはならない。このような人は一年中「よい天気」が続いて一度も雨が降らなかったら、どんなことになるのか考えてみたことがあるのだろうか。子どもの成長のためには、泣くことも怒ることも大切だ。人間のもついろいろな感情を体験してこそ、豊かな人間になっていけるのだ。
・思い出のマーニー より引用 アンナは何もペグ夫妻にまで怒ることないじゃないか、などという人はアンナの怒りの深さ、その意味を理解できない人の言うことだ。まず感謝すべき人に向けて怒りがほとばしるのは、アンナのこれまでの抑えてきた感情が、どれほど度をこえたものであったか、彼女をどれほど理不尽なものがおさえつけてきたかを示している。「そんなに八つ当たりをしてはいけない」、「こんな子どもは、やっぱり感情のコントロールができない」などと言って、ここで「悪」の烙印を押してしまうと、アンナはもう「ふつうの顔」さえできない子どもになってしまったかも知れない。しかし、実際は、この怒りを契機として、アンナの感情が動きはじめる。

泣くことやキーキー言うことを「悪いこと」とか「うるさい」ととらえる大人ばかり。
そもそも子どもの脳波がα派あるいはθ派優位であり、
それはつまり潜在意識が優位であるということであり、
潜在意識の特性として「中間がない」ということがわかっていれば、
子どもを責めることがどんなに無意味なことであるか、わかるはず。
みんな、自分の視点でしか考えていない。
この現状は、はっきりいって「人種差別」とか「虐待」に近い。
勉強不足も甚だしい。

●勝負とルール

・勝負にこだわらなかったり、負けてもあまり気にしない子どもがいる。これらの子どもは本来的に勝負にこだわっていない、というのはきわめて稀で、多くの場合、その子どもの持っている強さを十分に発揮していないのである。
・「ルールを破ってはいけない」というふうに、われわれはすぐに言うことはない。まず、その子がルールを破ってでも勝とうとする意欲を出してきたのをよしとする。と言っても、ルール破りをそのまま肯定するわけではない。まず大切なことは、そのルールの破り方がどのようなのかを見て、それについて意味を考えることが必要である。治療者に見つからぬようにこそこそとやっているのか、あるいは、「ボクは特別やで」などと勝手にルールを変更しているのか、治療者に挑戦するように、わざわざよくわかるようにルール破りをするのか。そのときに、その子の置かれている状況、ルールの破り方などから判断して、こちらの対応を見出していかねばならない。しかも、一瞬のうちに判断しなくてはならないのだから、大変である。
・こちらが安易な気持ちでいると、子どもがルール破りは許容されていると思いはじめたり、あまりにも何をやってもいいので限界がわからなくなって、無茶苦茶な行動を取りはじめるときがある。自由といっても、「これ以上は駄目」というしっかりした線がなくてはならない。しかし、その線は理論や規則で一義的に決められるものではなく、治療者の人間としてのあり方、治療者と子どもとの関係などによって、決められるべきものである。すなわち、治療者はその遊びのなかに自分の存在を賭けていないと駄目である。そうするときに、ルール破りに対して、どうするかという判断が的確に下せるのである。単に遊んでいるだけでは「療法」にならない。
・ルールがあるというのはいいことだと思う。ルールがあるために、人間と人間がぶつかる契機が生まれてくる。自由遊びと言っても、まったくの「自由」となると、下手をするとぬるま湯につかっているようで、何事も起こらないかも知れない。ただここで注意すべきは、ルールがあると、それを守らせればよいのだ、それによって善悪がはっきりと判断できる、などという簡単なことではなく、ルールをめぐって人間と人間がぶつかり合うチャンスが訪れてくる、ということである。ルールを盾にして人間が隠れるのではなく、ルールを手がかりとして、人間がそこにあらわにされるところが意義深い。

ルールがなければ、まずそれを破る意欲が出てこない。
ルールは守るためではなく、まず設定することには、意味がある。
それを子どもがどう乗り越えるのか。ということだ。

・子どもへの圧力の増大の原因として、競争社会ということをあげる人があるが、これは単純すぎる。競争社会と言えば、欧米の方が日本よりはるかに厳しいと言えるだろう。小学校でも落第や飛び級のあるところも多い。欧米では子どもの個性、自主性を早くから重んじているので、子どものペースで勉強するように考えており、小学校のときの成績に、日本人ほどのこだわりをもっていない。これに対して、われわれ日本人は個性ということがわかりにくいので、自分の子どもが「何番」であるかという序列にやたらにこだわる。

●対策

・対策を立てる側は、世のため人のために善を行なっているのだろうが、立てられる側はあまり愉快なものではない。このことをまず知っておくべきだろう。対策を立てられる側が、「対策」という言葉を聞いて、何となく嫌な感じがするのは、端的に言うと自分が「もの扱い」されているからであろう。一人の個性ある人間として見られるのではなく、十把ひとからげに、「老人というもの」として見られている。老人というものは、このように扱うとよろしいという手引ができる。そして、その手引にさえ従っておけばうまくいくはずだと考える。つまり、対策を立てる側と立てられる側との間に、はっきりとした断絶がある。これでは、対策を立てられる方はたまらない。
・スクールカウンセラーは教師でないので話がしやすい。そのような子が言ったという「聞いてくれるだけでいいのに、(教師に言うと)すぐ「対策」をたてようとするから相談できない」という言葉は、これまでに論じてきた「対策」論に、よい示唆を与えてくれるものである。

最近の心理学ブームは、どうも子どもを「大人の都合のいいように操作しよう」
という意図が見え隠れしていて、気分がわるい。
そういうのを、心理学の「悪用」という。
そのようにテクニックに走ってしまった人は、
後で取り返しのつかないしっぺ返しを食らうだろう。

●自立と悪の関係

・自立の意志は人間の心のなかから沸きあがってくる。ヘッセも言うように、それまで安泰な生活を支えてくれた支柱を、何がなんでも破壊したい、という形でそれは顕れてくる。そして、それは時に生死を賭ける事にさえなる。ここで、安泰な生活を「善」とすれば、それを破るものは「悪」ということになり、この図式に従って言えば、自立は何らかの悪によってはじまるとさえ言える。
・プロメテウスの神話は盗みの話のルーツと言ってもよく、そこには自立することの難しさと恐ろしさ、そしてそれは「盗み」によってなされることがよく示されている。「火」というのは「あかり」であり、闇のなかを照らすものであり、しばしば人間の「意識」の象徴として用いられる。個人が自分を「個」として何ものにも従属しないと「意識」すること、それは自立である。しかし、このことは、その個人を自分に従属させたいと思っている者にとっては「悪」と見なされるし、なかなか許してもらえない。そこで、「盗み」という手段が生まれてくる。プロメテウスという「英雄」の姿は、ヨーロッパの文化のなかで大きい位置を占めている。プロメテウスは後に和解するにしても、一度はゼウスと敵対し、火を盗みとる必要があるのだ。
・自分が成長してくるときに、プロメテウス型だったのかイザナミ型であったか、あるいは、子育てのときにどうしたかを思い起こしてほしい。おそらく完全なプロメテウス型は少ないであろう。プロメテウスとイザナミとの入り混じった状態が多いのではなかろうか。
・摂取するという意味での「とる」は、盗むという意味でも用いられる。生存する、あるいは、子どもの場合は成長するためには、何かを「とる」必要がある。そのように考えると、子どもが盗むのは、その子どもの成長にとって、何か「必要不可欠」のものを得ようとしている、と考えられる。
・子どもに対しては、盗みは絶対にいけないと教えていくことが大切だが、それと同時に、その子の成長にとって必要なものを、大人がよく考えてみなくてはならない。
・幼年時代は親との一心同体的な関係が、子どもの支えとなっている。しかし、子どもがそこから自立していくためには、その支えを壊す必要があり、そこに秘密の意義が生じてくる。とは言っても、これは相当な危険を伴なうものである。
・人間が自立するということは、自分が何にどの程度依存しているかをはっきりと認識し、それを踏まえて自分のできる限りにおいて自立的に生きることである。
・日本は一体感の強調による個人の破壊から脱却しなくてはならない。しかし、アメリカと同じ轍は踏みたくない。

私の子どもたちは、どのようにして私から自立していくのだろう。
どのようにして、私が定めたルールを踏み越えていくのだろう。
どのような「悪」の形で、自己主張してくるのだろう。
それは、ちょっと怖くもあり、また少し楽しみでも、ある。

●悪に関する体験学習

・最近子どもの数が少なくなったため、男のきょうだいがなく育ってきた女性は、男の子というのがどれほど「乱暴な」ことをするかを知らない、ということにも関連してくる。母親は子どもを「よい子」にしようとし過ぎて、あまりにも野性味のない子にしてしまう傾向が強い。平和愛好者になるためには、子どものときに殺したり殺されたりの遊びをしたり、虫を殺したりするようなことが必要である。このようなことを通じてこそ平和とはどういうことか、殺すとはどういうことか、などを実感することができる。それを通じて経験的に学ぶことが必要なのである。それを、この母親のように攻撃的なことを一切抜きにして育てようとすると、かえって逆効果を生むことさえある。
・思春期に至るまでに、「悪に関する体験学習が少なすぎる」ということがある。これは少し思い切った表現だが、たとえば、いじめにしても小さいときから、きょうだいの間や、子ども同志で少しずつ経験すると、それが悪いことを身をもって知るし、その限度というものがわかってくる。ところが、現代は子どもの数も少ないし、大人の監視の目がとどきすぎて、いわゆる「よい子」として育てられてくる子が多い。これらの「よい子」は、日本においては自分の生きたいように生きているのではなく、規格にはめこまれていることが多い。そのような型にはめられた子が、思春期になって、内から突きあげてくる不可解な力に直面し、親や教師のコントロールに対して、急激に反発するとき、その限度がまったくわからなくなってしまう。

幼稚園など、親の目の届かないところに行くことは、この意味でも大切かも知れない。
いつも親がいつもついてまわっていたら、子どもが「悪の学習」をする機会がない。
それでは、とてもうすっぺらい、うそっぽい、偽善の子どもができあがるだろう。
見て知ってしまったら叱ることが必要だが、
見えてしまった時でも、時には口を出さずに見守る必要があることもある。
これが、とても難しい、微妙なところ。

●本気でぶつかれ

・子どもの心を「理解する」というのを甘くとって、しつけをしない家庭は反省が必要である。このような家の子がみすみすすぐ見つかるような盗みをすることがある。これなどは、親の「しつけ」を引き出そうとしているのではないかと感じられる。この子たちは無意識的に「しつけ」の必要を感じ、それを欲しがっているのだ。
・家族ゲーム 暴力家庭教師に共感を感じる人が多いのはどうしてだろう。それは体罰そのものがよいというのではなく、子どもに対して向かっていくその姿勢に文字どおり「体を張って」という感じがする、そのことではないだろうか。子どもの一番知りたいのは、自分の父や母が本気で自分のことを愛してくれているのか、ということである。その点、この家庭教師はやり方はともかく、本気で向かってくる。それだけで、この子の成績は上がってくるのだ。
・「教師がサラリーマン化したのと同じように、生徒も「生徒」という「職業」にサラリーマン化」してしまったのだと。これは重要な指摘である。
・子どもに対する怒りや、悲しみなどを自然に出すのをやめて、表面的には平和な家庭をつくり、そこで子どもを「よい子」にしようとするのは、子どもをプラスチックの製品にするようなものだ。
・「子供がうっかりウソをついた場合、すぐ叱ることは有害である。そうかと言って信じた顔をするのもよくない。また興ざめた心持を示すのもどうかと思う。やはり自分の自然の感情のままに、存分に笑うのがよいかと考えられる。そうすると彼等は次第に人を楽しませる愉快を感じて、末々明るい元気のよい、また想像力の豊かな文章家になるかも知れぬからである」(柳田国男)
・現代的母親のなかには、悪の相対化とか、子どもの理解、などを盾にとって、子どものウソを見逃してしまう人がいるが、これは困ったことである。ケジメのついていない人間は骨抜きになって、自分の力で立っていけない。しかし、嘘は絶対許さない、というのと、嘘なしに生きていけない人間としての共感を両立させることは難しい。

本気でぶつかるというのは、本音でぶつかるということであり、
子どもが自分と異なる考え方や価値観を持つことを受け容れることであり、
子どもの可能性を信頼することであり、敬意を払うことであると思う。
設定したルール、親である自分が信じる信念に基づいて真剣にルールを定め、
しかし同時に、それを本気で乗り越えようとする子どもを、受け容れる。
この、言葉に説明しにくい、一見矛盾ともとれるあり方が、マネジメントのキモだ。

●無意識のメッセージ しつけを求める子ども

・子どもは盗みまでして「ほんとうは、何が欲しかったのでしょうね」などと問いかけてみたりする。子どもの欲しかったのは、母親のやさしさである。
・私はときに、新聞に報道される事件を見て、その背後にどのような物語が隠されているのだろうと考える。
・すぐバレるような盗みをしたときには、それは子どもから親や教師などに対する何らかのメッセージである、と考えてみると思い当ることがある。その盗んだ品物、誰から盗んだかという相手、などいろいろな状況によって判断すると、子どもの訴えたいことがわかるときもある。

ルールを設定しないということは、
親であることを放棄しているということだ。
子どもの責任をとることを放棄しているということだ。
目の前の子どもと真正面から向きあうことから逃げているということだ。
子どもに対してアサーティブであるということが、
まずもっとも大切なことなのだ。
子どもに気をつかって自分の気持ちを伝えられないような親にだけは、
なりたくない。

●壁として悪に立ちはだかる 歯止め

・大人がしっかりと、ここからは許さないとして子どもの前に壁として立つとき、それは子どもに対する守りともなっている。思春期の子どもたちは、すでに述べたように、荒れはじめると自分で自分を制止できない状況になる。思春期の子どもたちが、自分の「悪」が大人によって止められたとき、「ほっとした」と語ることもある。
・大人が強い壁として立つことは、何があたってきても退かない強さであって、それが動いて他を圧迫することではない。このことを誤解しないでほしい。

私には、このような意味での強い壁は、なかった。
父親が生きていたら違っていた人生となっていた、というのは納得できる想定だ。
親や教師、友人が強い壁にならない場合に、
最後に壁となるのは、社会であり、法律となってしまう。
法律や社会(世論)という壁にまで行ってしまうのは、とても強いことだ。

●根源悪 にもかかわらず

・根源悪は厳しく拒否しなくてはならない。にもかかわらずそれを犯した人間と関係を回復すること、そこに愛ということがはたらくのではなかろうか。悪と関係なく、よいことずくめの人と関係をもつのは当たり前で、愛とは何とか言う必要はない。「にもかかわらず」というときに愛のはたらきがある。
・大人は子どもに根源悪の恐ろしさを知らせ、それと戦うことを教えねばならない。時によっては厳しい叱責も必要であろう。しかし、そのことと子どもとの関係を断つこと、つまり、悪人としての子どもを排除してしまうこととは、別のことなのである。

幸いにも私にはこの「にもかかわらず」人間関係をもってくれる人が、
何人か、いた。このことに、とても感謝している。

●学校・幼稚園で集団になじめないのは悪いことか?

・教育熱心な先生はどう言うだろう。「読書もいいが、友人関係はもっと大切だ」とか「孤独はいけない」とか言うのではなかろうか。個性は悪の形をもって顕現してくる。
・幼稚園に行くと、必ず集団のなかに入れないでいる子がいる。このような子は、ともすると「悪い」子と見なされがちである。先生も、そのような子どもを集団内に入れこむために大いに努力をする。ところで、お会いした十名の人たちの子ども時代は、集団になじめなかった人が多いのに気づく。皆が画一的に行動するのについて行けない感じを受けたためだと思う。創造の道は一般的傾向とは、異なるものである。
・「学校教育」というものは、一般に知っておくべきことを教えるのが目的なのだから、創造的な他人とあまりかかわりがないのは当然かも知れない。

社会性を身につけるために幼稚園に という考え方と、
悪影響しかない人間関係にむりになじませるのは無意味であり虐待だ という考え方。
河合隼雄氏からこの言葉をきいたのは、ちょっと驚きであるとともに安心した。

●盗みとは

・大地の私有を白人が認めているとき、白人が自分の土地と思っているところの穀物をインディアンが「盗んだ」と断定しても、インディアンにとっては、すべての人間の共有する大地の恵みの分け前をいただいたのに過ぎない、というような場合がある。幼い子どもの場合は、これに近いことがある。欲しいから、ただ単純に何かを自分のものにしたと子どもは思っていても、それは大人からみると悪になる。
・筆者の子どもの頃は、田舎に育ったということもあって、そのような「盗み」をしたものだ。他人の畠の農作物や、柿などをちょっととって食べる。もちろん、見つかるときつく叱られるし、それが悪であると知っている。これは店の品物を盗むのとは異なる、と何となく子ども心に感じていた。はっきりと意識していなくとも、「大地の恵み」の共有性のようなことを感じていたのかも知れない。大人も特別な人でない限り、怒りはしても、それほど「悪人」扱いはしなかった。こんなふうにして、自然のなかで – 自然に見守られながら – 悪の体験ができたのは幸せだったと思う。

そう考えると、今の子どもたちの万引きも、
自然の恵みがない分、割り引いて考えなくてはいけないのかも知れないなと思った。
叱る必要はあるにしても、とてつもなく悪いこと というレッテルを貼ったり、
そんな子をもった親が悩みすぎるというのは、度が過ぎる評価なのかも知れない。

●ウソとジョーク

・明治以後、日本人がこぞって武家の生き方を真似しようとしたので、ウソの価値が急に認められなくなったことを指摘している。
・西洋ではウソは徹底的に排除される。それは悪である。柳田もこの点をよく認識していて、、日本では平気で「ウソばっかり」とか「ウソおっしゃいよ」とか言うが、それをそのまま英語に直訳したら大変なことになると指摘している。
・欧米で「うそつき」などと言うと、なぐられても仕方がないほどである。その代り、彼らはジョークが好きである。そして、ジョークとウソとは明確に異なることになっている。その点、日本人は区別をあいまいにして、「ウソ」と言う。
・日本が西洋文化を取り入れたとき、それに熱心な家は、日本の伝統から離れて「ウソは絶対に悪である」という思想は輸入したが、ジョークの技術はまったく輸入しなかった。

この話はとても興味深い。
事実と異なることを言って騙すのがウソであるなら、
場の空気や現実認識の仕方を変化させる意味のものがジョークなのかも知れない。

●秘密をもつことの重要性

・ここに述べたような秘密とは異なり、子ども自身が自分の劣等な部分や忌避すべき部分と考えて、何らかの秘密を隠しもっていると、その子どもと他の子どもたちとの間に説明不能な心理的距離が生じてくる。そのような秘密は、むしろ誰かが分かちもってくれることによって心が軽くなることが多い。しかし、そのためには両者の間に深い共感的な人間関係が成立していなくてはならない。
・多くの子どもたちは、それなりの宝物をもっている。ところが、子どもらしい不用意さで、それらが時に大人の目に触れることがある。そのときに大人の判断で、それらを馬鹿くさいと笑いものにしたり、時には棄ててしまったりするようなことがないように注意したい。それは、その子どもにとって、自分の存在と同等と言ってよいほどの重みをもつからである。
・子どもが成長してきても、一切秘密を持つことを許容できない親も問題である。子どもの内的世界を尊重することができない。これは子どもに対する不信感というよりは、自分自身に対する不安がその要因になっている。自分に自信がないので、子どもが自立して離れていくのが怖いのである。これは親と子の関係のみではなく、指導する者と指導される者との関係においても言えることである。大人は自分のアイデンティティをしっかりと持っていないと、子どもが秘密を持つことに耐えられない。子どもを自分の世界に留めておくことによって、安心を図ろうとするからである。

子どもに、他の子どもに秘密をもたせるようなことはしないよう、気をつけよう。
と同時に、子どもが、親である私たちに対して、子ども同士で分かち合う秘密をもつことは、むしろ奨励してもいいんだなと思う。
確かに、秘密を受け容れることは、自立を許容することにつながる。
ボーイフレンドやガールフレンドのことを詮索する親には、なりたくない。

●性教育

・秘密をめぐる大人と子どものかけひきをナンセンスと考え、子どもたちに早くから「事実」を教える性教育…これは、私にとってはせっかちすぎると思われる。自分にとっての真実を探し出そうとして、性の物語を自分なりに追究していくプロセスは、大人になるためのよい訓練であるし、せっかくのそのような訓練の機会を、大人が奪ってしまうのは残念な気もするが、どうであろうか。
・性の「真実」が単に生物学的な事実によって語られるならば、性は「体」のことであって、そこに悪などという倫理的判断が入り込む余地がなくなってくる。アッケラカンとしてくるのも当然である。極端に言えば、マッサージをしてお金を貰うのと、どこが違うのかということになる。実際に、「援助交際」によってお金を受け取るときの、少女たちの感覚は、それに近いように思われる。

性を、秘密の探求ととらえるこの考え方も、興味深い。
確かに、性教育とは性器教育であるはずがない。
このあたり、子どもが思春期になる前に、自分はどうあるべきか、
思索してみる必要がありそうだ。
セクシャリティの自己統合という意味では、かねてから考えていたテーマでもある。

●いじめ

・転校生がいじめの対象になることが多いのは、洋の東西を問わず同様らしい。
・いじめは「悪」と大人は言う。しかし、それを「チクル」ことは子ども社会においては「悪」である。いじめられている子どもは、このふたつの「悪」である。のはざまで苦しむが、カウンセラーが何となく「部外者」と感じられるのと、「守秘義務」のことを知っていて、カウンセラーには打ち明ける。

●現代の家族のあり方

・現代は大家族のマイナス面を意識して核家族の形態が多くなったが、それをやり抜くには、親は昔の親よりも困難な仕事をしなくてはならぬという自覚が必要である。
・家族間の関係の円滑さのために、お金が使われて心が使われない、という状況が生み出されてきた。たとえば、子どもと話し合ったり、共に居たりする時間がないので、それをうめ合わせる気持がはたらいて、食べものや玩具などを不必要に多く与えたり、高価なものを与えたりする。このような育て方は、外から見ていると「過保護」に見えるが、ほんとうのところは、子どもは何も「保護」されてなどいない。甘やかしすぎなどと言われたりもするが、ほんとうの「甘え」も「保護」もなく、ただものに埋まっているだけである。このような希薄な人間関係に育ってきた子どもが、いじめる側になってもいじめられる側になっても、そこから抜け出す緒となるべき「心のつながり」を持っていない。いじめる側になっても、心のつながりのある限り、どこかで止める気持がはたらくはずである。いじめられる側になっても、耐えられなくなったときに助けを求めていく心のつながりがどこかにあるはずである。

確かにこれ、よくわかる。
自分が(自分のエゴ・自由な選択として)核家族のスタイルを選んだなら、
政府に子育て環境の改善を求める前に、まずは核家族をやめるという選択を、
考えなおしてみる必要があるかも知れない。

●その他

・最近は鼻汁をたらしている子を見ることは、ほとんどなくなった。しかし、そのために子どものアレルギー疾患が増えているのではないかという医学の説は、そのまま心のことに応用されるのではないか。日本のいじめが極端に陰湿化することの要因のひとつが、このようなところにあると思われる。
・中、高校生にカウンセリングをするとき、「好きなことは何ですか」ときくことが多い。なかには「暴走」とか「パチンコ」とか言って、ニヤッとしたり、ざまみろと言う顔をする高校生もいる。そんなときでも、それをほんとうに好きなのか、好きだとしたらどんなところがいいのかを真剣にたずね、その答えに耳を傾ける。すると、そのかいわから、あんがいその子どもの個性的な生き方が導かれてくる。何かを好きと感じるということは偉大なことである。

最後の、このカウンセリングの真剣なやりとりは、非常に勉強にになる。
子どもに対して敬意を評するとはこういうことなのだと、思う。

タイトルとURLをコピーしました