なぜ、我々はマネジメントの道を歩むのか

人間の出会いが生み出す「最高のアート」
マネジャーが巡り会う「奇跡」とは何か
この道を四半世紀歩み続けた著者が辿り着いた思想

数年前に、この本の出版記念講演をきいたときの感動は、忘れられません。
そして今、改めてこの本を手にとり、また別の感動が、ありました。
今の私には、マネジメントをテーマとしたこの本が
「なぜ、我々は 親になるのか」
という意味に感じられました。
深く心に染み込んできました。


全体として、親としての心構えに置き換えて読んだ。
●親として注意すべきこと

・ひそやかな「権力志向」や「操作主義」。
 その存在に、気づくことができたのです。
・上司に対して裏と表を使い分けるマネジャー。
 部下に対する操作主義を感じさせるマネジャー。
 聞いた話を、すぐに誰かに話す、口の軽いマネジャー。
 そうしたマネジャーが、部下から信頼されないのは、当然でしょう。
・しかし、「真実」には、「客観的な真実」と「主観的な真実」がある。
 「客観的な真実」とは、誰もが認める「事実」のこと。
 「主観的な真実」とは、その人にとって、世界がどのように見えているかということ。
 そして、我々か犯す過ちは、「客観的な真実」で、「主観的な真実」を裁くこと。
・上司、部下を知るに三年かかる。
 部下、上司を知るに三日で足りる。
・人を「成長させる」ことはできないからです。
 「成長」という言葉は、自動詞なのです。
 自発的に本人が「成長したい」と思わないかぎり、成長することはない。
 それは、他動詞ではない。
 誰かが、誰かを「成長させる」ことはできないのです。
 だから、私は、「成長を支える」という言葉を使うのです。
 「成長させる」という言葉を使わないのです。
・リーダー
 それは、「組織を率いる人間」のことではない。
 それは、「山を登り続ける人間」のことです。
 それは、「人間成長という山の頂に向かって登り続ける人物」のことです。

子どもに見えている世界は何か。客観的真実で裁こうとしていないか。
親としてのパワーで子どもに強制しようとしていないか。
子どもを操作しようとしていないか。
親としてのリーダーシップとはパワーやテクニックで強制や操作をすることではない。
大切なのは、子どもからの信頼、つまり後姿だ。
●親として見習うべきこと

・これらのマネジャーの方々が共通に持っていた、素晴らしいもの。
 それは、部下に対する「心の姿勢」でした。
 それは、何か。
 部下を、一人の人間として遇する。
 その「心の姿勢」です。
・それは、決して「部下に厳しいことを言わない」という意味ではない。
 それは、決して「部下を叱らない」という意味ではない。
 「一人の人間として遇する」ということは、そのような意味ではありません。
 では、いかなる意味か。
 一人の人間としての成長の可能性を認め、その成長を支える。
 その意味です。

結局のところ、シュタイナーでも親業でもNLPでも、
たどりつくところは、同じだ。
●邂逅

・なぜ、この部下に、これほど長く、自分の人生の時間を使うのか。
 なぜ、この部下に、これほど深く、自分の心のエネルギーを使うのか。
 それは「深い縁」なのだ。
 そのことに気がつく。
・毎日、我々は、多くの人と「出会い」、言葉を交わし、共に時間を過ごす。
 しかし、そこには、悲しい事実がある。
 我々は、「出会う」ことがあっても、「巡り会う」ことがない。
 「巡り会う」ことなく、分かれていく。

子どもが生まれてからというもの、
私は、職場での人間関係をほとんど作る気がせず、飲み会にも行く気がせず、
夜遊びと呼べるものにも意欲を失った。
そして、週末に子どもと公園に行くことが何より楽しくなった。
この変わりようには、自分でも驚きだ。
でもその理由が、よくわかる。
子どもと正対すること、子どもと格闘することが、
本来的に、好きなんだということらしい。
子どもは、あっという間に大きくなる。
出会いという意味では、成長スピードの早い子どもの場合、
その年齢、その瞬間、その感性を持つ子どもと接することができるのは、まさにさの一瞬。
一期一会なのだ。
その覚悟で、毎日、子どもと接したいと思うから、
残業なんか、している暇はないし、遊んでいる暇もない。
毎日が、巡り会いであり、奇跡の一瞬 なのだ。
●親であることによる成長

・人間としての成長
 「相手の気持ちが分かる」
 「場の空気が読める」
 「自分が見えている」
・未熟
 「相手の気持ちが分からない」
 「場の空気が読めない」
 「自分が見えていない」

これは、そのとおりだと思う。
●言霊

・例えば、どれほどバランスよく、様々なマネジメント論を語っても意味がない。
 アメリカの最新の経営書には、こんなことが書いてあると語っても意味がない。
 なぜなら、それでは、「言霊」が生まれないからです。
・では、いかにすれば「言霊」が生まれるか。
 自分の語ることを、深く信じていること。
 そのとき、「言霊」が生まれる。
・問われるものは、「体験」。
 自身の、ぎりぎりの「体験」の中で摑んだこと。
 現実との悪戦苦闘の中で摑んだこと。
 それが「深く信じている」という言葉の、本当の意味。

私が商品開発や、あるいはセールスにおいて躊躇していたのは、まさにこれだ。
自分がなぜ思いきりよく動けないのか、その理由がわかった。
そして、何をすればよいのかも、何となくわかってきた気がする。
私が悪戦苦闘した中で摑んだことは何か。
その中に、答えがある。
●謙虚さとセールスと自信の話。

・「下座の行」とは、誇り高き行。
 この出会いは、こちらが業者で、相手がお客様というご縁。
 だから、このご縁は、こちらが「下座の行」を務めさせていただくご縁。
 そうであるならば、「下座」に徹して仕えさせていただく。
 そのことを通じて、成長をさせていただく。
 その覚悟が、「下座の行」の本当の意味。
 そして、その覚悟があれば、卑屈になることもなければ、面従腹背になることもない。
 己の矜持を失うこともなければ、相手に対する敬意を失うこともない。
・ささやかの修行です。
 電話の修行。
 廊下の修行。

それが、世の中の「セールスマン」のイメージはあまりよくない。
卑屈であったり狡猾であったり。
新聞屋にしてもなんでも、実際にそういう人も多い。
でも、このように、矜持を失わない自信に満ちた営業というのが、
本来、自分が求める営業のスタイルだった。
これなら、やれる。
●その他

・弟子は、若き日に、師匠の聳え立つような力量と格闘をする。
 その力量に圧倒され、自分の個性を見失い、師匠の猿真似をしたら、それで終わり。
 ミニチュアのような弟子が生まれて、それで終わり。
 しかし、師匠の圧倒的な個性と格闘し、その格闘の中から自分の個性を磨き出していく。
 そうした修行を行い続ける弟子が、いつか、師匠を越えていく。
・「連続起業家」Serial Entrepreneur

ここのところ、
深く考えてみる必要がある。
自分の中で、とても新しい概念だ。

タイトルとURLをコピーしました