シュタイナー教育 おもちゃと遊び

二度と戻ってこない、子どもと触れ合う時間。
子どもとの遊びについて、考え直させられた。
今日からすぐに取り入れたいことが、たくさん。

●原則

・体が育っていく七歳までの時期は、体と深く結びついた意志が育っていく時でもあります。それに対し七歳から十四歳までは感情の教育の時期、そして十四歳から二十一歳までは思考の教育の時期になります。
・小さいときからテレビやビデオ、コンピューターゲームなどのヴァーチャルな世界ばかりに親しんでいると、それは文字通り仮想の、リアルでない体験しかできないわけで、子どもはそこからの感覚印象の中で物事の質にであうことはできません。そこでの無機的な体験は、子どもの質を人間的でなく無機的なものにしてしまいます。
・七歳までの子どものがまだ眠っているような意識や、夢を見ているような意識をもっていて、大人や七歳以降の子どもと違うということは、その分無意識なる意志が活発に体と結びついていて、活動しているということなのです。この時期の子どもに論理的な思考を要求したり、過度の感情表現を求めることは、体づくりをしている子どもの無意識なる意志の力を奪って、明るい意識に連れていって、感情や思考という違う力に変容させてしまいます。
・子どもに対する大人の言葉も大きな問題です。現代人の私たち大人は、情報伝達の手段として、無意識にたくさんの言葉を話しています。子どもにたいしてもほとんどの大人が、多くしゃべりすぎています。幼児にとって論理的な説明は必要ありません。言葉で抽象的にいわれると、子どもは無意識に一生懸命その言葉に向かい合い、言葉で返そうとします。しかしそのとき、子どもの遊んでいた手は止まり、それまでの活動はストップしてしまいます。そしてそれは子どもの意識を覚醒させてしまいます。

テレビやゲームなどの情報機器は意識して制限しているのだけど、
言葉の洪水 は意識していなかったような気がする。
これからでも遅くない。少しずつ「体験」を重視する方向に切り歌謡と思った。


●空間

・子どもは部屋の隅や押入れのようなもぐりこめる場所がとても好きです。ついたてはそういった子どもの入り込む空間をつくるのに役立ちます。
・どんなに狭くても、子どもが自由に遊ぶことのできる空間があるとよいでしょう。私が以前住んでいた家では押入れのふすまを取って、押入れの下の段を子どもの遊ぶコーナーにして、上の段は押入れとして使い、上半分の長さのカーテンをつけました。子どもたちは喜んでそこにもぐりこんで遊びました。「おおい」があるところが好きなのです。
・シュタイナー幼稚園では、昔話を聞く時間が毎日ありますが、これもこの「聞く」行為を育てるために大きな意味があります。カーテンを閉めて、ろうそくに火をともしてお話をしますが、それはそこに静けさのある空間をつくるのに役立ちます。音や色の静けさがない空間で、静かにお話を聞くように子度にうながしてもうまくいきません。外の静けさが子どもにとっては内側の静けさにつながります。
・キャラクターや模様がプリントされている壁紙の部屋にいると、目はそれらの模様を無意識に追いかけ絶えず動くことになります。目が絶えず動いている状態で、そこにいる人が落ち着いていられるわけはありません。強すぎる印象を与える色や模様は幼児にとって「おおい」にはなりません。
・管の中を微粒子が飛び交っている蛍光灯は、子どもを落ち着かせません。それに比べ自然光や白熱球による間接照明は落ち着きを与えてくれます。
・子ども園では一年で一本だけある針が一周する一年の時計があります。十二時のところが夏至で黄色、六時のところが冬至で濃い青です。九時が春分で緑色、三時が秋分で赤です。それぞれの間はその中間色になり、全体で色環になります。ひとりひとりの子どもの誕生日のところにはその子どものしるしが貼ってあり、そこに針がくるとその子どもの誕生日です。
・子どものよいものは環境にもよいものです。

自分も子どもの頃、押入れが好きだった。
狭い家だけど、なんとかして、子どもの押入れ、つくってあげたいな。
あと、一年時計と、本を読むときに暗くするというのは、取り入れたい。


●自然のもの

・拾ってきたどんぐりは、羊毛の綿で磨くと、ぴかぴかに輝きます。
・クヌギ、コナラなどの雑木林にあるドングリには、多くの場合、中に虫がいます。マテバシイの実は、中に虫が入っていることがほとんどなく、割れにくく、扱いやすいものです。
・石は、一晩塩水につけておくときれいになるといわれています。
・こま回しができるようになることを通して、子どもの運動能力や手先の器用さ、そして均衡感覚が養われていきます。
・木をナイフで削る仕事を私は子どもの前でします。もちろん刃物ですから扱いには十分注意をし、刃が動く先に切ってはいけないものがこないようにします。子どもたちは私が木を削っていると、その木が一体何になるのか好奇心いっぱいで見ています。
・子ども園では子どもの前では電動工具は使いません。

今度、子どもとドングリや石広いに行ってみようと思った。
それから、自分でも子ども心にかえって、
色々と工作、してみようと思った。


●人形

・あみぐるみ 細部まで本物そっくりだと、子どもたちの想像力の働く余地がなくなってしまいます。
・子どもに人形を与えようとするとき、その人形は、子どもが自らの想像力を使って働きかけることができるような素朴なものであることがとても大切です。素朴であればあるほど、子どもが想像力を働かせる余地があるのです。
・周囲からの感覚印象をすべてよいものとして自らの内に受け入れ、それによって身体諸器官を形成しつつある幼い子どもたちのために、お人形をつくる素材も吟味して、ぜひ天然のものを使いたいものです。
・坊主人形のように素朴な姿をした人形を子どもに与えようとするならば、まず大人自身が、真実にその人形に愛情をもって接するということがとても大切です。そのような大人の姿を子どもは模倣し、人形との関係を築くことができるのです。
・店で売られているような目鼻立ちのくっきりした人形は、大人にとっては好ましいものに映るかもしれません。しかし、あまりにもでき上がりすぎた人形は、子どもが想像力を働かせてそこに表情を見出そうとする力を発揮させてくれません。これらの人形は、何かこちらが決まった操作をすれば、決まった反応をします。子どもたちは最初のうちこそ、そのような操作を喜んですることでしょうが、やがてあきてしまいます。なぜなら、人形がそのつど決まった反応をするだけで、いつしか子どもは繰り返される反応の傍観者となっているからです。
・大人が「あらこんなに青い子どもはいないんじゃない?」とか「桃色でつくったら?」というふうに子どものすることを正す必要はないのです。どのような色を選ぶかはまったく子どもにまかされてよいのです。
・人形劇における人形や舞台装置は、完成されすぎたものではなく、子どもが想像力によってその表情を補ったり、場面を生き生きとイメージできるようなものであることが、大切なのです。
・私たちは、子どもを喜ばせよう、あるいは楽しませようと考えて人形や舞台をデフォルメしたり、おもしろおかしい動きを人形にさせる必要はありません。「子どもっぽいあり方」と「真に子どもが望んでいるあり方」とはまったく違うものです。大人が子どもに媚びるような態度と、そこに真実なものを表現しようと努力する態度とでは、どれほど子どもに与える印象や影響に違いのあるものか、いうまでもないことです。

娘がもっている、放置される人形、大切される人形をみると、
ここに書かれていることが実感としてよくわかる。
想像力をつかう素朴な小人、親に頼んでつくってもらおうかな。


●音

・幼児期の子どもは、スピーカーから音が流れてきたとき、それに向かい合って意味を与え、何かを内側から補うことはまだできません。幼児は流れてきた音楽の感覚印象の中に、その音楽をしている人間がいないことの不自然さに、最初は無意識にがっかりし、欺かれたかのように感じているのです。「人間が音楽をする」という当たり前のことを体験によって学んでいくことを、子どもたちは必要としているのです。
・小学校の一、二年生くらいまでは、まだ外の世界と中の世界の境界線が引かれているわけではありません。外の世界に向かい合う内的な世界である自分という意識は広がっていきますが、まだ外の世界と自分が一体化している赤ちゃんのようなあり方も残っているのです。…この子どもの発達が、キンダーハープの形と、音階に反映されているのです。
・九歳までの子どもは、それよりも大きな五度のインターバルの中に生きていて、音楽も短調長調以前の調性をもたないようなものがふさわしいという観点が出てきます。これが「五度の気分」の歌で、シュタイナーは具体的に、レ、ミ、ソ、ラ、シそしてオクターブ上のレ、ミという七音がその雰囲気につながることを示唆しました。この七音の中心の音は、ラで、この音は赤ちゃんの最初の泣き声の高さだといわれています。
・早期音楽教育を受けたほとんどの人は、音楽家にはなりません。その人たちにもそれが必要であったのでしょうか。幼児はその存在そのものが音楽のようなあり方をしています。生活全体が五度の気分に包まれているような中で、音楽のように動くことができたらなんとすばらしいことでしょう。音楽家が本当に大切にしていることは、この時期にこのようにして身についていくのです。
・アルバート・ベーゼさんは、どのライアーを選べばいいかわからないという大人の場合、いちばん好きな形のライアーを選べばその音色もほとんどの人は気に入る、と話していました。

ペンタトニックな音階の楽器や音楽、いいなと思いながらなかなか動けてなかった。
キンダーハーブ、手にしてみようかなと思う。
さっそく探してみたら、買えない値段でもない。


●描く・つくる

・何を描きなさい、何をつくりなさいということを大人がいわないということです。
・世の中にあふれかえっているキャラクター商品や、漫画、ぬり絵といった線の強いもの、そして線の中がべた塗りになっているものの影響が強いと、子どもの中から出てくる幼児ならではの絵は影を潜めてしまい、特に女の子は、いわゆる女の子の絵しか描かないようになってしまいます。外からの固定したイメージが感覚印象として入ってくると、どうしてもそれに捕らわれてしまい、無心に描いたり形づくったりするプロセスの中に身をおけなくなってしまうのです。
・私たちのまわりの世界の中のどこに線があるでしょうか。たとえば机の上にあるコップの絵を描くとすると、ほとんどの人が線でその輪郭を描くでしょう。しかしコップのどこに線があるでしょうか。コップには実は面しかありません。面と面が出会ったところを私たちは線と感じているのですが、実際はまわりの世界には、面としての色の違いや濃淡があるのです。本当の線や点は抽象的な概念であり、実際の現実の世界には存在していません。
・白と黒は、光と闇であって、将来学校でモノクロで光と闇を表現して描くときまで使いません。黒を与えるとすぐに輪郭を描き、輪郭を描いた後に塗りつぶすという描き方が増えてしまいます。
・「お母さん、猫を描いて」子どもはよく大人に描いてくれと頼んできます。そのときに、線で漫画のような絵を描くのではなく、ブロッククレヨンの特徴をいかした、面を使って紙の上をゆったりと手が動きながらだんだんと形が生まれていくような描き方ができるとよいでしょう。
・粘土 自分の体をつくることに使われるべき形成力を粘土を形づくることに使ってしまうことはよくないという指摘もあるようです。

線で絵を描くという描き方、現代のほとんどの子どもがそうしている気がする。
でも確かに、子どもは最初、そういう書き方をしない。
これを読んで、自分がなぜ絵に苦手意識があるのか、わかった。
シュトックマー社のブロック形の蜜蝋くれよんを買って、
今度、自分も子どもと一緒に絵を描こうと思う。

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