Q&Aこころの子育て

誕生から思春期までの48章

河合隼雄さんが子育てについて語ったもの。
さすがに、深い。
ハッピーアドバイスだとか平井信義さんもすばらしいけど、
それよりも、もっと人生全体を俯瞰しているというか。達観というか。
とにかく何度も読み返したい一冊。

●自己実現

・「自己実現」という言葉はいますごく流行っていて、いろんなところで使われていますね。しかしぼくに言わせれば、あれは自己実現でもなんでもありません。ぼくはそれは「自我実現」か「利己実現」だと言っているんです。
・こころの全体として、自分が死ぬことも含めて完全に納得すること、それが「自己実現」なのだ、とユングは言っています。いくら強大な自我を確立しても、人間は死ぬんです。
・「自己実現」は、意識の中心である「自我」の実現ですから、社会的にだれが見ても評価されることをやっている。ところが「自己実現」の方は、無意識というわけのわからない要素も含めてのことですから、一般的に評価されることとは違う、場合によると途方もないことが起こってくる可能性がある。
・自己実現というものは、つねに自我の崩壊とスレスレのところにあるんです。自我が築いたものの延長だったら、それは自我実現でしかない。それとはまったく違うことが起こってきて、自我を破壊するような力がどこかで働く。自我が一度死んで生まれ変わるような「死と再生」というテーマが、必ずそこには働きます。だから大変なんです。自我が再生できない可能性もあるから。
・その人が「この道は自分のこころに照らして正しい」と思うのは、主観的にはどこかあっている。しかしそれを下手に実現したら、世の中から非難を浴びて、社会的に再起不能に陥るかもしれない。そのときどうするか。場合によったら、思う通りに行ったら犯罪者になってしまうような問題を抱えるかもしれない。そういう中で「いかにそれを実現するか」という難しい問題が出てくるんです。実現するといっても、何もその通り実行するとは限らない。不倫だったら、たとえばほんとに不倫するのを何とか思いとどまって、不倫小説を書くという選択もあるわけですね。「象徴的実現」という言葉があるぐらいですから。

例示されている不倫云々ということとは関係ないのだけど、
この「象徴的実現」というものにとても強い興味を覚えた。
わたしがずっと考えていたことに関する、とても重要なヒント。

●子育てとは

・よく「子育てと自己実現は両立するか」なんて言われますが、ぼくは子育てほどおもしろい「自己実現」はないと思います。「子育ては自己実現だ」というのは、子育てはこころも身体も、つまり人間全体を使わないとできないからです。
・「あいつが悪い」「こいつが悪い」と言って逃げてしまいがちです。でもそのときに「起こってきたことは自分のことだ」とはっきり受けとめることが、自己実現の第一歩です。子育てをしていると、「自分」というのは、自分が知っているよりもはるかに不可解で、認めたくないような要素がたくさんあることがわかってくる。それを自分のこととして受け容れるのは恐ろしいし、苦しい。しかしそういうこれまでこころの中に潜んでいた要素をちゃんと見つめて、それを使いものになるようにするのが、「自己実現」です。できることならやめたいというくらいのものが「自己実現」なんです。
・自己実現には犠牲がつきものです。「ひとつのこをする」ということは、「あることをしない」ということですから。たとえば、子どもとつきあう時間を大事にしようとすれば、自分のやりたいことをする時間を、ある程度捨てなければならない。そのとき自分が何を犠牲にしているか、できる限り意識するのは、ものすごい大事だと思います。そしてそれこそが自己実げんなんだとわかっていることです。でないとわけのわからないイライラがたまってくるんです。
・犠牲というと何かマイナスの感じがしますが、その意味をほんとに理解するときは、そこに深い喜びが生じます。意味がわからずに嫌々するときは、不必要に疲れたり、腹が立ったりするものです。「育児のために自分の仕事が犠牲になる」と父親も母親もカン゛変え、犠牲の押しつけあいをしていると、腹が立つばかりですが、その意味がわかると、そこに楽しみや喜びを見出せるものです。
・「自己実現」はそれができたから一生それでいける、というものではありません。ユングはいつも「自己実現の過程」と言っていました。「個性化」とも言っています。結果ではなくプロセスだということです。人は「その人になる」という過程を一生ずっと歩み続けていくんです。
・人間は自然を壊しておきながら、しかも自然に還らなきゃいけない。自然に還るいい方法のひとつが、子育てをすることなんです。子どもは自然だから、その動きに応えていったらちゃんと「自然」ができるはずなんです。だけど、そのときにおとなは子どものことを見ないで、ついつい頭で考えてしまうんですね。頭でっかちになってくると、子どもとつきあう時間は損みたいに思ってしまう。子育てに時間をかけることは、すごく大きな犠牲を払っていることなんだ、と考えるようになるんです。でも、子どもの時間に沿っていくことは、ほんとうは、おとな自身が癒されていくことなんです。

本文ももちろんとても深みのある内容だったが、あとがきもすごい。
ほんとうにそう思う。子育てほどおろしろい自己実現・人生探求・仕事は、
ほかにまったく見当たらない。
自分の目の前にいる子ども その子どもが与えてくれている示唆に気づいていないが、
外のもの(外の仕事)に意識を向けているような気がする。
この意味で、私は、育児と仕事の両立という言い方は、きらいだ。
そういってしまったら、育児は仕事ではないみたいだ。
こんなに貴重で、崇高で、興味深く、ワクワクする仕事、ほかにないじゃないか。

●親子の本気の対話

・「一番高いの買うてこい」式にやってると、子どもはこころが躍らないんですよ。そうなれば、やっぱりシンナーを吸う方が、よっぽどこころが躍る。四人ぐらいで一緒にシンナーを吸ったら一体感もあるしね。そういう一体感は、ほんとは家の中で体験するはずなんです。
・人を育てるときも、何も正しいことを言えばいいわけじゃないんです。親子でも、冷たい目で見られて正しいことばかり言われたら、絶対たまらないですよ。子どもには、正しいことをパッパッと言ってたらいい、と思うのは、親がちょっとあせりすぎなのと、指導・助言する立場の方がラクだからなんですね。それだとエネルギーが要らない。逆に子どもの方から出てくるものを待つのは、すごくエネルギーが必要です。でもちょっと待つ間に子どもは、きっとおもしろいことをします。
・日本でも昔だったら、柏餅ひとつ食べるにしても「五月五日は柏餅、ほな、お父さんとカシワの葉を取りに行こうか」と山へ行って、一緒に取ってきた葉っぱで包んで食べた。そしたらそれだけでも楽しいでしょう。いまは近所に山がないと言うなら、たとえば「よし、ちょっと一緒に歩いて買いにいこう」ってお父さんと手つないで行ったら、柏餅がものすごいうまい。実際は、歩いてきたから腹がへってうまいんだけどね。そういう工夫が、ちょっとずつ必要なんですよ。お父さんと歩いて行ったことで人間関係も深まるし、うまい柏餅に感激するわけでしょ。それは、その家の祭りにもなる。
・盗みはあくまで悪いことだから絶対に禁止しなければならないけれど、個性は、こんなふうにたびたび悪の形をとって現れてくることがあるんです。おとなが「悪」とみなしていることを敢えてすることで「おとなの言う通りに生きているのではないぞ」と表現している。そういうことも、ちょっとわかっておくといいですね。
・怒鳴り合いは対決になっていない。命がかかってないです。「対決」というのは、相手の言うことを聞かなきゃならないからね。つまり自分との対決を含んでなかったら、ほんとの対決じゃありません。親子でもそうですね。ほんとの対決は、ベースに自分自身との対決があるんです。
・子どもを育てるときも同じで、どうもみんな理屈を知って、理屈によってやろうとしすぎていますね。なんか頭でっかちになっていて、感情が出てきても、ここでこう言ったらいけないんじゃないかなどと頭で考えて、感情を抑えて、本に書いてあったような方法で子育てしようとしている。そうじゃなくて、手放しで「わー、おもろい」とか「こんちくしょう!」とか、子育てはそれでいいんです。ほんとはそれで大丈夫なんですよ。
・子どもにしたら、親と話すのはおもしろいんです。子どもの動きに乗るのがわりと自然にできてる人は、子どもが来たときはちゃんと「ふんふん」と聞いていて、あとは適当にしている。横から見ていると、「なんや、あのお母さん、勝手なことしてはる」と思うけど、肝心なところを外していないんです。ところが親が主導権をとった場合は「対話しなければならない」などと、どうしても頭でやっているから、子どもとはズレてくるんです。

娘との遊び方について、ちょうどいろいろと考えていたところ。
車を使わない、文明の利器を使わない、お金を使わない、マニュアルに頼らない…
自分も、そんな遊び方について、もうちょっと考えてみたいなと思う。

●父性

・父性原理というのはどういうものかというと、基本は「切る」「区別する」という役割です。すごく極端に言うと「しっかりせんやつはわが子でも殺す」というぐらい厳しいものです。その反対に「どんなに悪うてもうちの子や」というのが母性原理です。「受け入れる」「守る」ということが基本です。
・お母さんがお父さん化すると、お父さんがお母さん化するんです。
・日本の男は、会社で言うべきときに言わないように辛抱して辛抱している。それなのに、家では反対に、言うべきときに言え、と言っても、切り換えるのは難しいねえ。
・そのとき怒らなかったのは、親父のえらいところですね。ぼくら3人とも、もううんと反省して後悔しているわけでしょ。親父は「これからは気イつけなさい」と言ってそれ以上言わない。ものすごい威厳があった。ああいうときに怒るか怒らないか、それはカンですね。どっちがいいかわからない。怒った方がいいときもある。そういうカンというのは、子どもと接する機会を多くして、子どもをよく見ているとだんだん身についてきますよ。子どもは、意味もないのに泣いたり笑ったりしないんですよ。
・しかも個人主義の考え方が入ってきて、それまでのような「家」は否定されたけど、その代わり会社が「家」になってしまった。ところが「家」というのは、家族全員が「家」のためだけに働くことを強いるものなんです。そうすると働いてるお父さんにしたら、会社が「家」だから、自分の家庭をそっちのけにして、会社のために働かないといけないことになった。だから家庭からお父さんがいなくなってしまった。

あとで出てくる「壁」の話にも通じる内容。
ただしここは、河合氏と自分の考えは少し違う。
父親が女性化していることたけが原因ではなくて、
母親の沸点が下がっていること(母親が男性かしていること)も、
原因の一つとしては、存在しているはず。
どちらが先か、といっても仕方ないんだけど、
優しいといわれている父親だって、一線を超えたら叱る場合もある。
その一線に達する前に、(見守り許容している間に)、
ストレスのたまった、母親の方が耐え切れずに爆発してしまう。
すると、男性としてはバランスをとって、守る側にまわらざるを得ない。
そんな家庭だって、たくさんあるはず。
理不尽に雷をおとせばいいというものではない。

●母性

・心理学では、このころにお母さんを通じて、この世界への基本的信頼感というのが作られる、と考えられています。つまり「大丈夫なんだ」という安定感ですね。お腹が減って泣けば、食べる物をもらえるし、困ったときにはだれか来てくれるんだ、という安定感。いつも自分が助けてもらっているということは、大きいと思います。何べんでも「不安→大丈夫、不安→大丈夫」と、ずっと繰り返し経験するわけでしょう。基本的に「安心していていい」ということを了解するのは、すごく大事なことです。ときどき親の手が届かなくて不安を少し体験するのはいいんだけれども、絶対に助けてもらえないという体験は困ります。「親に守られてる」と感じることはすごく大事で、それはほとんど絶対的と言ってもいいくらいの「守り」でしょうね。もちろん、それは実母とは限らなくて、親代わりがいればいいんです。でも、それは男には、なかなか難しい。
・不安なときに助けてもらう経験が多すぎるから困る、ということはないと思います。いつも助けてもらっていても、育っていく間には、いずれ助けてもらえない体験もしますからね。助けるタイミングがあんまり外れてしまって、結局どうも自分は助けてもらえない、と子どもが思ってしまう方が怖いですね。母子一体感を考えると、育児休業制度は大事なもんやと思います。女の人が育児休業を取って子育てしてくれることは、男にとってすごく感謝すべきことです。それを「女の人は休むから困る」と男が言うのは大間違いですね。子どもがそこで十分に一体感を味わうことができなかったら、男もあとで苦労することになるんです。男ができないことをしてもらってるんですから。
・男はみんな、おれがいなければ会社は潰れるなんて思ってるけど、あれも錯覚です。でも、母親は、子どもにとって「世界」そのものなんです。すごいですよ。
・高校生がなんでそんなに早くセックスするかと言ったら、母性が十分に満たされていないからです。母性に満足できていない人が早くに性的関係を持つのは、これはもうセオリーと言ってもいいでしょうね。援助交際なんてその典型です。おとなになったら、抱いてくれるのは普通は異性しかいないから。でもほんとはお母さんに抱いてほしいわけだから、結婚をやり抜くような力は何もない。それでふたりは別れるんです。一緒にいる必然性がないですからね。
・依存のない自立は孤立というべきで、それでは関係が切れてしまっているんです。自立というのは、親と子の間に新しい関係を作ることです。家庭というのは、失敗に対してすぐに評価が下されない場なんです。普通は「失敗=バツ」ですが、家では「次はがんばるだろう」とか「おまえのことだから」とか言って、すぐに「失敗=バツ」にはならない。失敗しても、それが子どものマイナス評価につながらないのが家庭なんです。しかし失敗したという事実はお互いにはっきりわかっている必要があります。「失敗やない」とか「こんなの大したことない」と言うのはごまかしです。
・失敗しようかしまいが、その子がここに「存在」してることが、まずすごいことなんだ。そうやって家庭で認められていたら、大きくなって困難な場面にぶつかっても、自己嫌悪にならないんです。
・それさえ親が持っていたら、失敗したとき「こらー、失敗したな」と言っていいんですよ。学校の先生でも「こらー」とか言ってても、ちっとも嫌われない人、いるでしょう。変な評価が入ってないからです。失敗そのものに対して言ってるんであって、人間評価につながらない。下手な人は「傷つけたらいかん」と思って言わないんだけど、こころの中で思っているから、かえって伝わってしまうんです。
・幼児期に母子一体感を十分に経験しなかった場合、うまくいくときは異性との関係の中で一体感を取り戻すことがあります。恋愛関係の中に親子関係が入ってくるわけです。ただ、そういうことを求めている男の人とつきあった場合、女の人がだんだん耐えられなくなることがあります。
・悲劇的なのは、お母ちゃん役をしてくれる女性と結婚して、母子一体感が十分に癒されたら、男性がその女性と別れてしまって、ずっと若い、魅力的な女の人と結婚する男の人がいるんです。
・女の子が母子一体感を求めてる場合は、お母さん代わりになれるような、易しい母性を感じさせるような男性を選びます。または、次から次へといろんな男の人とつきあうこともあります。肉体的な一体感はどこか母性に似てるんです。
・恋愛のときは、いろんなことを取り戻そうとするから、不可解なことがいっぱい起こります。なんかしらんけどすごく好きになって、その人といるだけでうれしいなんてなるのは、そこにはいろんな要素が入ってるからでね。

孤立をした子どもたちが、思春期に、早すぎる性体験に向かう。
これは、欧米をみてもよくわかる。
欧米がこうなっているのは、キリスト教への信頼が、
もはや有効ではないことも、その一因になっているのだろう。
いずれにしても、自分の子たちがこうなってしまわないように、
私にできることを、していこう。

●子どもは機械ではない 思い通りにはならない

・機械は上手に動かせば、必ず思い通りにできる。だからマニュアルを知ることが大事なんです。けれど、ひとりの生きた人間を育てるのは機械を扱うのとは違うから、いろいろ難しいのが当たり前でしょう?子どもというのは思い通りにいかないもんだ、と初めから知っていたら、「うちの子も好きにやってるわ」って思ってそれで終わりなんです。みんな理屈ではそうだとわかってるんだけれど、便利で正確な機械というのが周りにたくさんあるから、思い通りにいかないと、どうしてもおかしいとか間違ってるんじゃないかと思ってしまう。
・ぼくなんか時代遅れと言ってもいいかもしれないけれど、思い通りにならないことこそほんとにおもしろいことだと思ってるんです。というよりも、ほんとは、思うようにならないことほどすごいことはないんですよ。それこそが人生、そこでこそその人の個性が生きるわけですから。
・だいたい子どもというものは、「親の目が届かないところ」で育っていくんです。自分自身のことを考えてみてもそうでしょ。もし子どもが自分のやったことを全部親に報告したら、親はびっくりしてもう外に出せないくらいなものでしょう。子どもは親の知らないところで少しずつ怖い目にあって「ああもうここでやめておこう」という体験を重ねていくんです。ちょっとずつ小出しに危ないことをどこかでやりながら、だんだんおとなになっていく。親の目の届かないところで子どもが育っていることに対する信頼感を、親が持てるかどうかというのは大きいですね。
・親自身が安心していれば、「まあ子どもはそんなものやし、ちょっとぐらい何かするだろう」と思っていられる。それでも何回かは、ほんとにびっくりするようなことをするでしょう。そういうときは、びっくりしてあわててたらいいんですよ。それ以外は安心してたらいい。
・早期教育をさせたいなら、子どもをよく見ていることです。それがその子にふさわしくないときは、子どもがだんだん無表情になったりして、変になってきます。それに気がつかない親はダメですね。
・赤ちゃんでも、授乳時間を決めないと育てないなんてことはないわけでね、泣いたら乳の増すし、泣かなかったら放っておく、と自然にやっていればいいんです。授乳時間を決めているサルなんて、絶対いないですよ。

思い通りにならないからこそおもしろい、と言えるためには、
やはり心の余裕とか、自分に対する自信のようなもの、が必要なんだろうなと思う。
職場で思い通りにならない、経済的にも思い通りにならない、
そのストレスが、「おもしろい」と思える余裕を奪ってしまう。
人生を波乗りのように、楽しみたいものだ。
そして子育ても。

●抑圧しない

・よくあるのは、お母さん自身は必死になって「お母さん」だけでなく、個人としても生きようとしているのに、そういうお母さんが、自分の子どもは「よい子」という没個性的なパターンに入れようとしている。不思議ですね。子どもだってお母さんと同じで、個性的に生きたいはずでしょう。
・イライラして叱ってばかりいます。どうしてでしょうか。
→親が不安になっているか、ちょっと期待が高すぎるからです。こういうときは「何かしなければ」じゃなくて、「子どもと一緒の時間をもうちょっと持とう」とか「子どもがすることをもう少し見ていよう」と考えてみるといいんです。
・「これくらいじゃないと、普通とは言えない」とか言って、高いところを見ている。

確かにこれはありそう。
働く女性は、ちょっと気をつけてみてもよいかも。

●カウンセリング

・いっぺん「死んだ方がましや」とまで口にして、それをそのままじっくり聞いてもらわないと、人間って反転しないんですね。これは子どもも同じです。泣いたり怒ったりしている子どもには、すぐに「泣くんじゃないの」とか「怒るのやめなさい」とか言ってしまわずに、「そうやね」と受け容れてやるんです。そうしたら子どもは、その気持ちから抜けていけるんです。
・泣いていることに意味があることを忘れて、泣かせたらいけない、と思うと、話がズレてきます。
・こういうとき、どうしても「そんなんしたらダメやないか」と、外側に立って物を言いたくなる。そうではなくて「パチンコってそんなにおもろいんやろうか」って言ったら、スッと相手の気持ちの中に入るでしょ。「なるほど、へえー」なんて聞いてると向こうも、それだけでわかってくれるならもう少し話してもいい、自分の中の話をしてもいい、ってことになります。すごいときには「こんなこと言うはずではなかった」というような話が出てきます。
・わからないのに、わかったように「うん、わかるわかる、お父さんが憎いやろね」なんてカウンセラーが聞いてたら、子どもは「お父さんを殺します、今日やります」というところまで行ってしまう。それは「父親を殺す」ということでしか表現できないところへ、カウンセラーが追い込んでいるんです。「わかるわかる」と口では言ってるけど、ほんとはわかっていないことが子どもに伝わってるから、子どもはもっと激しい表現をしてくるんです。それを距離にたとえて言うと、遠いところにいる人に言おうと思ったら、怒鳴るよりしょうがないですね。近くにいる人だったら小さい声で言えるけど、遠かったらワーッと大声を出さなければならない。それと同じことで、物わかりの悪いやつには「親父を殺す」とまで言わないとわかってもらえない。
・子どもの話を聞くときに、共感するのが大事だとわかっていても、たとえばぼくらにしても、「パチンコが好きや」と聞いた途端にパチンコのおもしろさがわかることはまずないです。だから、相手のこころの側へ沿っていって、話を聞いていくんです。
・ぼくは「怒鳴るあなたが悪い」とも「わからないぼくが悪い」とも言いません。だから関係は絶対切れないわけです。「そのうち、ぼくにもわかるかも知れないけど、もうちょっとふたりでがんばっていきましょう」と言っていると、むちゃくちゃ怒ってた人でも、また来るんです。そんなふうに、カウンセラーと相談に来る人の関係は、なんども切れたりつながったりしながら続いていく。それによって、相談来る人は、強くなっていくんです。

ここに、共感とか、能動的な聞き方の重要ポイントが書かれていた。
わからないことはわからないという。きいてみる。
結局これは、人に対する敬意や興味の問題だ。
そして操作主義を離れた誠意の問題だ。

●ありのままの姿を示す

・子どもの自由意志を尊重するために、お父さんとお母さんはじっと辛抱する民主主義なんて、聞いたことありませんよ。
・よく自分の弱みや欠点、失敗なんかを、子どもに絶対に見せない親がいるでしょう。そうすると、子どもの方も、弱みは見せてはいけないものだ、と思うようになります。そうすると、いじめられたりしたときに、親に言えないようなことになる。だから親が弱みとか失敗を、そのまま見せることも大事なことだと思います。
・子どもを認めるということが、それだけではすまなくて、同時に自分の欠点を認めることだということがわりとある。だからなかなか子どものやることが認められないんです。
・ぼくなんかも、面接で難しい人と会ってるとき、しんどいからやっぱり息抜くことがあるんです。それは相手にパッとわかる。「先生、いま息抜いたやろ」。そしたら、「抜いた」と認める。「なんでや」「なんでって、あんたの相手しとって息抜かへんかったら死ぬ。人間ってのはそういうもんや」とぼくは言います。そういうときに下手な人は「すまんかったー」と言ってしまう。でも、抜いたら抜いたで、なにも謝る必要はないんです。
・ウソを言って逃げると、それはもう絶対相手にわかるんです。「ほんとのことを言ったら、嫌に思われないか、傷つくんじゃないか」と思うあまり、妙に迂回した物の言い方をすることがよくあるんだけど、非言語的にはどこかでしっかり伝わってしまう。やっぱり自分で生きてないとね。子どもの言ってることがわからないときも同じで、「そこまではわからん」とか、「それはついていけない」と言っていいんです。

気を使いすぎたり、気がねをする人が、多い。
カウンセラー自身がアサーティブであること、それが重要ということか。
確かに、魅力的な教師というのは、みんなこういう人だった。
人間くささ という言葉におきかえてもいい。
神格化される必要もないし、それを目指す必要もない。

●そっと見守る

・ボーッとするのは、ただボーッとして何もしないから大事なんです。機械だって、休みなしにずっと動かしていたらたまったものじゃないでしょう?
・人間というのは、自分の世界に下手に踏み込まれるのを、ものすごく嫌うものです。悩みを抱えているときなんか、特にそうですね。ところがそれを親が子どもによくやってしまうんです。子どものことを思うあまりに、その世界に踏み込んでしまう。ほんとは静かに泣かせておけばいいのに、「なんで泣いてんの?」とか「早く言いなさい」とか、かまってしまう。しまいには「泣くな!」とか「やかましいっ」と怒ったりする。それよりも、泣きたいだけ泣いてもらって、「あとでこっちにおいで、一緒にごはん食べよう」っていう方が゛すっといい。
・絆は強めるよりも深めることが大事やと思います。「絆を深める」とぼくが言うときは、絆の糸を長くして、ずっと深めていくのが理想なんです。お互いの関係の深いところを、なるべく遠く、それこそ「無限遠点」にまで持っていく。その点を介してつながっていれば、相手がどこか遠くへ行ったって大丈夫。一番深いところでつながっているわけですから。その糸を、短くして強めている人は、相手をコントロールしているだけです。ところが、どんどんどんどん深めていくと、相手はすごく自由になっていくんだけれど、ちゃんとつながっている。

ごはん食べよう というひと言 とても深い愛情を感じる。
そしてそれがいちばん、子どもには嬉しいことなんだ。
確かこれは、ハッピーアドバイスでも書かれていたような気がする。

●夫婦関係

・夫婦の間でやるべきケンカを、親子でやっている場合があるんです。ほんとだったら、夫婦の間で、「おまえのこ、おかしいやないか」と言いたいんだけど、ちょっと言いにくいものだから結果として子どもに言うことになる。自分の子どもだと言いやすいからね。そういうことはあり得るわけです。
・ぼくは、夫婦というのは、川の中に立っている二本の杭みたいなものだと言うんです。そして夫婦の関係というのは、杭と杭の間に張る網なんです。相手として近くの杭を選んだ人は、網は張りやすいけれど魚の収穫は少ない。遠くの杭を選んだ人は、網を張るのに苦労しますが、張ってしまうとし収穫は大きい。そのとき似た者同士で近くの杭との間で網を張るか、違うところ、対立するところに魅力を感じて遠い杭との間に張ろうとするかは、その人の運命としか言いようがないです。

投影をしている人は、多い。
自分はあまりないつもりだけど、妻がイライラしているときに、
私に対するそれの投影になってしまっていないか、
一度、注意して考えてみる必要がありそうだ。

●壁になる

・大学で学部長をしていたころ、寮の門限を夜10時にしたら、学生がみんなで「なぜ10時にした!」って押しかけてきたことがあります。「理由はありません。私が決定した、というだけであります」。ぼくが規則の前に出るわけです。こういうときに、何か理由を言ったら絶対負けるんです。「安全のために10時」、そしたら「なら11時でもええんとちゃうか」、こう言われるわけです。論理で負ける。それと、10時の門限に、理由はいっぱい言えるんですが、それを全部言ってしまったら、学生が怒れなくなる。「理由は一切ない。ぼくが決定したいうだけが、強いて言えば理由であります」。そうしたら学生は「バカヤローッ」って言えるでしょ。そこがいいところなんですよ。ところが、だいたいは先生が正しいことを全部言ってしまう。そうしたら、学生が何をするかといったらねもう殴るしかない。暴力しか使いようがない。全部正しいことを言われてるわけだから。そういうときに正しいことを言ってその陰に隠れてしまわないで、カワイという人間が出ていく。そしてこっちも「じゃかましーっ」とか言ったら、感情がワーッと盛り上がって、お互いぶつかりあうことで解決に向かっていくんです。それも人生の楽しみみたいなものでしょ。
・でも、殴るとか、やってはならないことに関しては、ぼくは絶対に許しません。「親父にも殴られたことないのに殴られてたまるか。やってみろ。訴える?そんなことせえへんで。殺す」。そう言ってました。それぐらいの覚悟がないとできません。それは学生にも伝わるんです。
・「壁」というのは動かないんですよ。子どもを叩いたりはしないんてす。ここから先は絶対にダメだ、といって立っているだけです。子どもはこっちがそういう「壁」だとわかったら、すごく安心するんです。

すげーかっこいい!と思った。
確かに、頑固ジジィと呼ばれながら愛されている教師って、どこにでもいた。
壁になるって、簡単なことじゃないけど、父性原理とはこういうものなのかも。
父親が目指すべきところ。

●オトナになるとは

・思春期というのは、パワーがすごく強くなるでしょう。それくらいじゃないと、思春期を越えていけないんです。みんなちょっとずつ、どっかで死にたがってるようなところがある。子どもからおとなへの生まれ変わりの時期だから、背後で「死と再生」というのが動いているんですね。
・迷いを持ちこたえる力は大事です。ぼくはそれを「葛藤保持力」と言ってるんです。みんなそれが苦しくて嫌だからね葛藤することをせずに、すぐどちらかにしてしまうんです。「悪いのは私ではない」とか「母親が悪い」とか、決めてしまえば簡単でしょう。それを決めてしまわずに、「母親が悪いかもしれない、悪くないかもしれない。どっちだろう」とずっと考えていく。すっごいエネルギーのいる仕事です。相談に来た人が、矛盾したことを言ったときに、それをぐっと持ち続けられるかどうかが重要なんです。
・このごろの学校では、矛盾しないことばかり教えすぎるわでしょう。葛藤保持力の少ない子どもほど賢いんだみたいになっていますね。質問したら迷わないですぐ答えを言えるのができる子、みたいにしてるでしょう。しかも正解がひとつしかないような問題ばかりだから、葛藤がないんですよ。世の中、ひとつのことに答えがいろいろあるからおもろいんです。
・いろいろな葛藤を持ちながら、ぐっと耐えてそれを持ち続ける。それが「おとな」なのだ、というのがぼくの定義なんですよ。

ホリエモンが書いていた、意味のわからない「平等」主義の話と同じ。
現実は、矛盾にあふれている。
理想どおりには、いかない。
なのに、その現実から目を多い、キレイごとばかりを教えようとする。
そんな欺瞞、偽善は子どもちには遅かれ早かれ見ぬかれてしまうのだ。

●いじめ

・だいたいいじめで親にとって一番辛いのは、子どもがいじめられていることを親になかなか打ち明けてくれないことです。だから話してくれたときには、「よく言ってくれた」と、まず子どもの言うことをよく聞いて、どういうことなのか、事態を明らかにしないといけない。その上で判断することが大事なんです。子どもからまだ話を半分聞いただけなのに、「わかった」とか言ってよそに怒りに行く人もいるんです。話半分で行くから逆に反撃されたりして、ますます状況をおかしくしてしまう。とにかく子どもの話をじっくり聞くのが先決です。
・日本では、自主的、自立的に育てられた子どもがいじめの対象になりやすいので、そういう相談もたくさん受けます。そういう家では、子どもにどんどん意見を言わせていたりすることが多いので、子どもは学校でも自分の意見を言って、それがみんなと違ったりすると、それだけで「あいつは生意気だ」ということになるわけです。日本では、ちょっとでも異質なものに対しては、いじめが出てきますからね。そういう場合は親の育て方が悪いんじゃなくて、日本の文化との闘いになっているわけですね。

日本は、確かにそう。
サラリーマン家庭の子たちじゃなければ、会うのかな。
うちの子も、外国人の親であるとか、起業家の親を持つ子の方が、
気が会うのかも知れない。

●欧米と日本の違い

・個人主義というのは、西洋で背景にキリスト教があって生まれたものなんです。神様が見ていてくれるから、個人といってもひとりぼっちではないんです。見ていてくれる神様を支えにして初めて個人が成り立っている。ところが日本人は背後に神様がいることを考えないで、うわっつらだけで真似しようとしたんです。真似をするのはうまいからある程度はやってるんだけど、見ていてくれる神様の支えがないので、日本の個人主義はすごく弱いし、そのことの自覚もなさすぎるんです。しかも個人主義を取り入れるときに、日本がずっとやってきたみんなで支えあうというやり方は否定しているので、どこからの支えもない。そのしわ寄せが、いまいっぱい出てきているわけで、子育ての不安もそういう中で生じてきたんです。
・日本的なつきあいは、始めたら切れないんです。欧米流のつきあいは、個人と個人だから、アメリカ人がいちばん典型的だけれど、だれとでも平気ですぐ話をするでしょう。その代わりいつでも切れる。次に会ったときに変なことを頼まれたら「ノー」と切ったってかまわない。日本ではうっかり口をきいて関係ができると、あとから借金を頼みに来られても「いや、まあ…」とか、断るのがすごく難しくなる。だから、初めからなるべくつきあわないでおこうという気になるんです。
・日本は西洋にならって「個人」ということを取り入れようとしているので、欧米のことがいろいろと参考になりますが、向こうでは個室を与えたあとでも、何歳になるまでは鍵を渡さないとか、何歳までは母親はノックなしで子どもの部屋に入れるとか、細かく決めてるところが多いですよ。普通は鍵なんかもらえません。そういう言えなりのしきたりや儀式は、とても大事です。「もうおまえは大学生になったんやから、お年玉ないぞ」とか、サンタクロースは何歳までの子にプレゼントを持ってくる、とか。そういうその言えのしきたりというもので、区切りがつけられていくんです。それで一歩一歩育っていって「おとなになった」という感じがわかる。それがいまの日本には、ちょっとなさすぎるというか、いままであった社会のしきたりが意味を持たなくなっているから、家族ごとにそれを考えて作っていく必要がある。

グローバル化する現代、日本国内も、どんどんその洗礼をうけつつある。
親がまずこのカラクリに気づかないと、子どもたちが犠牲になる。

●今と昔の違い

・大家族では子どもの親は「若夫婦」として、家の若い労働力として家を支えるのがまず大事で、赤ちゃんはおじいちゃん、おばあちゃんとか、ほかの人たちが育ててくれていた。そしてその周りに近所の人たちとかがいて、さらに社会全体、そしてそれを取り巻く自然も加わって、子どもを育てていた。そういうパターンでつい最近まできてたから、親がいきなり父親役、母親役をするようには鍛えられてこなかったわけです。
・根源的な深い悩みというのは、人類始まって以来あったんですよ。ただ、気がつかなかっただけです。わかりやすい例で言えば、戦争中にノイローゼや拒食症になる人はほとんどいません。食えないんだから。「食べるものがない」とか「殺されるかもしれない」というときに、「人はなぜ生きるか」なんて考えてられないんです。いわば、適当な浅い悩みがあることで、深い悩みからわれわれは保護されていたと言ってもいいです。
・深い悩みそのものは昔からあって、そういうとを考えられる天才的な人が考えてくれていた。現代は、かつて天才的な人が直面した宗教的問題とか哲学的命題に、われわれ普通の人間が直面させられているんです。

今の悩みはぜいたくな悩みだとか、昔はそんなこと言ってる暇かなかったとか
色々なことをいう人がいるけれど、これは進歩なのであって、
より高度な悩みに向かっているということ。
だから、決して悪いことではないのだと思う。
天才の悩みを悩まなければいけない現代だからこそ、
人類が進化の時にきているのだと、思う。

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