影の現象学

成功哲学を一面的にとらえるあまり、
シャドウに食われてしまうことのないように。
こういうことが一般知識として浸透すればいいのにと思う。
必ず読んでおきたい一冊。

●成長プロセスと影

・青年期になると、子供はまずその影を両親(特に同性の親)に投影することが多い。もちろん子供は投影のひきもどしに成功するかぎり、成人として成長することになるのであるが、影の発見が子供の自立への動きを促進する点に注目するならば、人間の成長のある段階には、必ず影の働きを必要とすると考えることもできる。
・永遠の少年たちは、自分の影を意識しないまま、その影を両親や社会に投影し、ひたすら正しく、幸福に生きているが、それにしても、われわれはいつかは自分の影の存在を自覚しなければならない。
・自己実現の要請は必然的に影の介入をもたらし、それは社会的な一般通念や規範と反するという意味で、悪といわれるものに近接する。そのときに、社会的通念に従って片方を抑圧しきるのでもなく、また、影の力を一方的に噴出せしめるものでもない。あくまでも両者を否定することなく、そこに調和のカイロスがいたるのを「待つ」のである。そして、そのときに開かれる「第三の道」は、確かにその人自身のものとして、その人の真の意味の個性を際立たせるのである。

心の成熟にとって、影の理解は欠かせない、避けて通れないということか。
個人的には、ごく幼い子どもは潜在意識そのもので生きている。
影と実体に分離されるのはちょうど、アイデンティティの確立の頃だと思う。
自我を認識するというのは、いってみれば、二元論の世界に入ることだから。

●影との付き合い方

・おのれの心に地獄を見出し得ぬ人は、自ら善人であることを確信し、悪人たちを罰するための地獄をこの世につくることになる。心の世界を拡張するということは、近代化学によって否定された魂の存在について、もう一度見直すことにもなるであろう。
・自我は影の存在を意識していないが、影によってなんらかの影響を受けている場合がある。こんなとき、われわれは思いがけない失敗をしたり、もの忘れをしたりすることが多い。これはわれわれが心の中の小さいトリックスターの餌食となっているときであるとも言うことができる。言ってはならないことをつい言ってしまったり、厳粛な場面で笑いがこみあげてきたりする。これを逆に言うと、われわれはあまりにも馬鹿げた失敗を繰り返すときには、どのような類の影が自我に働きかけようとしているのかについてよく考えてみることである。そこで、相手を明確にすることができれば、後にも述べるように、われわれはそれと関係がもてるのである。

自分自身の中のトリックスターの働きをみつけるのは、とてもおもしろい。
でもそれだけではなく、家族やチームでの出来事も、
影が何らかのバランスをとろうとして、顔を出しているとも、ある。
影を抑圧して見ないようにするのではなく、
注意深くみて、上手につきあっていく必要がある。

●影との対話

・影との対話は、われわれの内面においてもなされるが、それはしばしば影の投影を受けた実在の人との対話という形で行われる。われわれは周囲にいる人と対話し、ときには口論する。しかし、それが本来的な影との関係に近づくほど対話というよりは対決というほうがふさわしいものになるであろう。
・二人の人間の対話が真に建設的なものとなるためには、お互いが他に対して自分の影を露呈することがなければならない。しかし、これはきわめて難しく、成熟した「時」を待ってはじめて可能なことである。不用意に露呈された影に対して、相手が攻撃の剣をふるうならば、それは必殺のものとなるであろう。あるいは、それを背負う説いをもたずになされた影の露呈は、そのなかへのセンチメンタルな埋没をさそい、二人は暗黒の世界に沈むことになるであろう。

人間関係で衝突が起きるのは、たいていこの影の問題なのだ。
怒りは八つ当たり という話も、結局はこの影と同じ話だ。

●抑圧の開放

・いけにえの羊をつくり出したり、集団の外部に影を投げかけたりせずに、集団内で影の反逆を防ぐ方策として、人間は影の祭典というものをもっている。ユングも述べているように、ヨーロッパの中世において盛んとなった、「愚者の祭り」などその典型であろう。それは中世の秩序を支えているキリスト教の教義をまったく逆転せしめる祭りである。これによって影の鬱積によって生じる暴発を防ぐことができたと考えられる。わが国においても、このような影の浄化の祭典は多く存在し、盆踊りなどもそのような意味をもったであろうし、現在なお行われている。いろいろな「無礼講」がその意味を果たしていることは明瞭である。

社会においては、このような無礼講をもうけている。
私個人において、この愚者の祭りにあたる活動はどんなものがあるのか。
子どもや家族にとって、この愚者の祭りにあたるものはあるだろうか。
キツキツの抑圧生活にならないように、公認の何かを考えよう。
抑圧している何かを、そこで開放してあげるのが目的だ。
そのためにはまず、影のメッセージをよみとる必要がある。

●秘密

・秘密を守りぬくことは、まるで体内に異物を入れたままにしておくのと同様で、病気を引き起こすことになるのである。秘密とはもともとそれを明らかにすることがなんらかの意味で、個人なり集団なりの存在を脅かすような類のものであることが多い。そのために秘密を守ろうとする反面、それをもっている個人はその重みに耐えかねて、誰か他人に打ち明けたくなるのである。秘密は他人に話すことによってその重みが減少する。もちろん、それを聞いた人はそれなりの重みを引き受けることになるが。
・秘密をもつかもたぬかが問題ではなく、それをいかにしてもつかが問題であることが解る。単に隠し守ろうとするのか、あるいは安手の連帯を得るためのトークンとして活用するのか、それとも自我が正面から対決し、自我の中に組み込むべく努力しているのか。
・自我の確立ということと秘密の存在とは大きい関係をもつのである。発達に応じて秘密であったことが秘密でなくなり、また新しい秘密が生じたりする様相は興味のあることだが、ある個人にとって劇的な変化を生じねばならぬときに、今まで抱きかかえていた秘密を明らかにしなければならぬときがある。そのようなカイロスの到達は個人の意図を越えて生じ、その人の生涯に思いがけない衝撃を与える。

子どもには、オトナから隔離された秘密の世界が必要だという考えかがある。
これなども、まさにこのことに通じる話だ。
ところで、自分の今の成長段階における、「必要な秘密」とは何だろう。

●カウンセリング

・秘密を明らかにしようとするとき、あるいは明らかにせざるを得ないとき、その個人が新しい生き方を見出そうとしないときは大きい危険に陥ることになる。それだけの強さをもっていないときに、誰彼なく秘密を打ち明けることは危険である。このような観点からすると、秘密を明らかにするタイミングが非常に微妙なものであることが解る。
・ユングはその人の真の問題が何であるかを悟ったが、それに触れることはふたりの関係が破壊される恐れがあると重い、そのことに触れなかった。
・われわれは、ある人が自立してゆくとき、われわれに対して秘密をもつことを許容すべきときがあるのではなかろうか。両者の間に秘密が存在することは、両者の関係を悪くするものとは限らず、それ以後の関係を良くしてゆくためには、長い目でみるとき、秘密の存在はむしろ良い結果をもたらすことになろう。心理療法家の私としては、必要なときにはクライエントの秘密を尊重する態度が望ましいと思っている。
・忠告によってのみ人が変わるのなら、心理療法家などという職業は不要かもしれない。無意識に生じたトリックスターの働きによって、治療者とクライエントが笑いを共有するとき、そこに世界の突然の開示が体験される。これはカーニバルの祝祭空間に満ちている底抜けの笑いに通じるものである。

カウンセリングとは(子育てとは と置き換えてもよい)、
業務改善でやるような分析と執行ではないのだ。
見守ること。見守ること。見守ること。

●病理的なレベル

・影が普遍的なものに近くなり、はたらいている層が深くなるほど、自我の受ける影響は不可解なものとなる。幻覚となったり、妄想となったりする。そのインパクトの強さのため、われわれは外界と内界の識別とえ難しくなるのであろう。このような自我と影の関係は、昔話や神話の表現によると、正体不明の怪物によって国や町などが脅かされている状態ということになるだろう。
・ここで影の力が強くなり自我がそれに圧倒されるときは、完全な破滅があるだけである。ある個人がみすみす自分を死地に追いやるような無謀な行動をするとき、その背後に影の力がはたらいていることが多い。自殺や他殺の事件を巻き起こした人に会って話し合うとき、この感をいっそう強くさせられる。
・自我が影の力に対抗できないときは、それと関係をもとうとなどとせずに、ただひたすら逃げるという手が考えられる。逃げの一手である。ここで大切なことは何ものにも心を残さず、ひたすら逃げまくるということである。この際に主人公の投げ捨てたものがいろいろなものに変化して、追手の行動をはばむということが生じる。物おしみすることなくいっさいを投げ捨ててこそ命が助かるのである。
・影の存在に対して、それが自我を圧倒するほどの力になる前に拒否してしまうのがよい場合がある。
・名前を知った後で、われわれはその対象をよく知らねばならない。そのためには、われわれは相手をよく観察し、必要に応じて会話をかわさねばならない。
・われわれは夢の中でときに殺人を犯したり、他人の死を体験するが、その相手がわれわれの影の像であることは多い。そのときは、影は殺されて一度無意識界に沈み、新たな形態をとって、自我に受け容れやすいものとなって再登場してくるであろう。

現代のようにうつ病が増えている社会にあっては、
このあたりのことも、理解しておく必要があるかも知れない。
失恋や離別などは、起こりうる日常だ。
急激な悲しみ一時的なパニックや精神錯乱になる人は、案外、少なくないはずだから。

●自殺と再生

・自殺を企図する人や、自殺未遂の人に相対して、われわれ心理療法家としては、その人の身体的な死をあくまで防止しなければならないという仕事と、その人の再生につながるものとしての象徴的な死を成就させてやりたいという仕事の間のジレンマに追いこまれる。この人が内面的な死の代わりに自殺という実際的な手段をとっているという事実が、すでにこの人にとって内界と外界がいかに混同されているかを示している。それゆえにこそ、われわれも苦しい立場に追いこまれるのだが、このときに、自殺の防止という事実に心を奪われてしまって、内面的な死の成就ということを忘れ去ってしまうと、せっかくのその人の再生への願望までつぶしてしまうことになる。このことはもろん本人には明確に意識されないのではあるが、結果的には自殺を防止した人を恨んだり、また自殺企図を繰り返したりする現象としてあらわれてくるのである。
・本人の身体的な死をあくまでも防止しつつ、内面的な死の願望を尊重する態度で接していると、解決はその本人の無意識界からもたらされてくることが多い。
・死を恐れていないと思っていた人が、夢の中で死の恐怖を体験し慄然とする。実際、自殺をする人たちは、死の恐怖を感じない強さをもっているのではなく、自我の弱さのため死の恐怖を感じることができなくなっている場合が多いのではないかと思われる。
・要は、われわれが影の要請に対してどれほど真剣に取り込み、わがこととしてゆくかであって、そこに生じる事件の大きさは問題ではないというべきであろう。

内面的な死と再生の願望を成就させてあげるという発想は、目からウロコだ。
おもいつきもしなかった。
案外、自殺(人生をやめたい)ということではなくても、
転職(仕事をやめたい)とか 転校(学校にいきたくない)という問題も、
このあたりと同じ話なのかも知れない。

●組織における影

・影の力がだんだんと強くなり、それが集団の成員の無意識内で動きはじめると、その人々は意識的には集団のために努力を重ねながら、心の中で言いがたい不安を感じたり、仕事に対する熱意がなんとなく薄らいでゆくのを感じたりする。そのうちに、影は成員のなかの少数の人の意識に侵入し始める。集団の影を背負うことを余儀なくされる人は、どのような人か、強い人か弱い人かは容易に断定しがたい。ともかく、結果としてその人は、予言者、詩人、神経症、精神病、犯罪者になるか、あるいは一挙に影の反逆に成功して独裁者となるか、なんらかの異常性を強いられる。それは誰がなぜ選ばれたかなどという問題を押しつぶして、ただそこに抗しがたい力 – 運命としか呼びようのないもの – が働いていることを認めざるを得ない。運命という用語を避けたい人は、自然の力と言ってもいいだろう。
・ドイツにおけるナチスの台頭を、ユングはこのような見方で見ていた。
・もっとも、それより早く、まったくの個人として、アンチ・クリストの動きをとらえたものはいた。ディオニソスに向かって、肯定の叫びをあげたニーチェがその人である。しかし、ユングが指摘するごとく、「肯定を語り否定を生きた」ニーチェは一人で重荷を背負い狂気のなかに死ぬよりほかなかったのである。

●肩代わりと生贄

・影を抑圧して生きながら、影の反逆をまったく受けていないように見える人もある。しかし、よく見るとその周囲の人が、その影の肩代わりをさせられている場合が多い。たとえば、宗教家、教育者といわれる人で、他人から聖人、君子のように思われている人の子供が手のつけられない放蕩息子であったり、犯罪者であったりする場合が、それである。たとえ、親子関係に一般的な意味での問題がないとしても、親の「影のない」生き方自身に、子供の肩代わりの現象を呼び起こす力が存在しているのである。一般に信じられているように、親が悪いから子供が悪くなるという図式で了解されるような場合は、治療も簡単である。しかし、いわば親が良いために子供が悪くなっているとでも言うべきときは、治療はなかなか難しいのである。
・集団の影の肩代わり現象として、いわゆる、いけにえの羊(scapegoat)の問題が生じてくる。集団の影をすべていけにえの羊に押しつけてしまい、自分たちはあくまでも正しい人間として行動するのである。家族の中で、学校の中で、会社の中で、いけにえの羊はよく発生する。それは多数のものが、誰かの犠牲の上にたって安易に幸福を手に入れる方法であるからである。無意識な程度のひどい人は、そのうえ、このいけにえの羊の存在によって集団の幸福が乱されていると、本気に感じている。そしてその実は、その羊の存在によって自分たちの安価な幸福があがなわれていることには、まったく気づかないのである。
・ナチスの例に典型的に見られるように、為政者が自分たちに向けられる民衆の攻撃を避けようとして、外部のどこかに影の肩代わりをさせることがよくある。

現代では、オウム事件や、ホリエモン事件が、まさにこれだと思う。
オウム問題では、集団の影を背負った麻原という人が社会を震撼させた。
ホリエモン事件では、堀江という人が、組織の生贄にされた。
どちらも、これは私達の影なのだ。

●道化

・道化が「二つの世界」に通じる存在であることは、後年になって芝居の舞台に現れた道化たちが白・黒・赤などの斑の服装を着こんでいることに如実に示されている。蔵家は二つの世界をつなぐ存在である。それは白・黒いずれとも簡単に判別しがたい存在である。
・このことはまた、その王国の規範、思想などの対しても適用することができる。つまり、ひとつの王国の統一性は、それと矛盾する存在の切りはなしを前提として保たれている。それはしばしば事実を犠牲とした規範性の意地によって成し遂げられる。
・道化がしばしば行うトンボ返りなどのアクロバットは、このような空間の顛倒や破壊を象徴的に示すものである。道化の一言は、王を愚者につきおとし、愚者を王に仕立て上げるほどの威力をもっている。これによって人々は、固定した世界の「開け」を直覚し、新しい価値観の導入によって、そこに創造的な生命の流れを体験する。ここで、王の地位をさえ危うくするほどの、既存の安定感をつきくずす危険性は、道化のもたらす笑いによって、カウンターバランスされる。笑いは道化のもつ唯一の武器であり、もっとも強力なものである。笑いを失ったとき道化は命を失う。第一章において少し触れた「愚者の祭り」のもつ意義は、今まで述べてきた道化の役割と重ね合わすときまったく明らかである。
・王が規範と秩序を表わすとき、道化はその規範で律しきれぬ新たな真実をそこにもたらすものである。そのとき、王がその新しい真実を取り入れる力もなく、古い殻に固執するならば道化の命は危くなってくる。ここで、新しい真実をふりかざして王に迫り、王を倒して改革を行うならば、それは道化というよりは英雄というべきであろう。古い精度が魅力を失い、発展を妨害する枷として感じられ始めると、必ず英雄が出現して旧制度に反逆する。英雄は王との戦いに初めのうちは苦労するが、もしも古い王を倒すことに成功すると彼は「新しい王」となる。
・主人公を意図的、無意図的に助け、多くの笑いをまきちらした道化は結婚しないまで劇の終わりを迎えることが多い。どうして道化の結婚は起こり得ないのか。これについてまず考えられることは、道化の両性具有性である。道化は単純に男性的でもなければ女性的でもない。それはどちらでもあるし、どちらでもない存在である。道化はまったく荒々しく行動するかと思うと、まったくしとやかに振る舞うこともある。もっとも弱い者にも倒されるほどの弱さと、もっとも強い者に向かってゆくほどの勇気をもち合わせている。
・コメディの中で、若い主人公が苦労をしたり、困難と戦ったりしながら成長を遂げ、女性を獲得するという仕事をやりとげてゆくのに、道化は初めから終わりまで変わることがなく、そのまま゛てある。しかし、これこそは真の救済者の姿に近いのではなかろうか。自分の変化はまったく問題外なのである。それはそれでいいのであり、救われるべき若者たちの幸福こそが中心とされるのである。
・キリストも道化としてみることが可能である。

ドイツの影であったヒトラーが、もし道化であったなら、
次世代の王になったということなのだろうか。
道化と影とトリックスターの関係がわからなくなっしまった。
もう一度読みなおすべきか。

●個人的な影と普遍的な影

・われわれが論議していくときに、元型としての影、影のイメージ、それも個人的色彩の強いもの、普遍性の高いものなどを区別して述べねばならない。普遍的な影は人類に共通に受け容れがたいものとして拒否されている心的内容であるので、それは「悪」そのものに近接してゆくが、個人的な影は、ある個人にとって受け容れがたいことであっても、必ずしも「悪」とはかぎらないのである。
・Xに対して強い悪感情を抱いたとき、自分の個人的影を越えて、普遍的な影まで投影しがちになるということである。確かにXは個人的な影の投影を受けるに値する現実行動 – たとえば、少しケチであるなど – をしているのであろう。しかし、「金のためならなんでもする男」などというとき、それは現実を越えた普遍的な影の投影になっている。つまり、われわれは自分の影の問題を拒否するときに、それに普遍的な影をつけ加え、絶対的な悪という形にして合法的に拒否しようとするのである。このことのために、ある人からまるで悪人の標本であるかのごとく言われる人物に実際会ってみると、話に聞いていたほど悪人ではないと感じることが多いのである。各人はすべて影を背負っている。しかし、正真正銘の悪人というのはめったにいないものである。ひたすら悪人として攻撃していた人物が、それほどでもないことに気づいたとき、われわれは「投影のひきもどし」を行わねばならない。つまり、その人物に対して投げかけていた影を、自分のものとしてはっきりと自覚しなければならない。投影のひきもどしは勇気のいる仕事である。

●日本人特有の問題

・われわれは自分の影を他人に投影することが多いことを第一章において述べたが、日本人はその影を韓国人に投影することが多かった。そして、まったくいわれのない優越かんを感じたり、韓国の人を劣等であるという確信をもったりした。このことは欧米人にとって、その影が黒人の姿で夢に現れることが多い事実と対応している。
・日本人の場合は自我と影の共存を許容し、その「かげり」を楽しんでいるところがあると思われる。このような薄明の意識を貴重に保存している日本人に対して、今までの記述がどこまでどのような意味をもつかについては、われわれか今後考えつづけてゆかねばならぬ課題であろう。

●その他

・ユングは夢にでてくる異性像をアニマ、あるいはアニムスと名づけ、影と区別した。
・悪夢、影、小人、レジスタンスの虐殺場所やリヨン市の中でナチが拷問を行った地下室をそっと覗きにいったことなどが多く書きつけてある。今にして思えばその古い建物の地下室をこわごわ覗きこんだのは、私は人間の心の奥底を、影の部分を見たかったからだと思う。

私が異性心理について好奇心をもっているのは、
影と似た意味での、潜在意識の深いところへの探求なのだと思う。
そしてまたそれとは別に、私にも、影の部分を見たくて、
何年かに一度、出かける場所がある。

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