ソフィーの世界

哲学者からの不思議な手紙

あれこれと思いをめぐらせながら読んでいたら、あっというまに一週間経っていた。
自分の子が14歳になったら、プレゼントしたいと思った本。かくいう私もちょうど14歳ぐらいの時、哲学と出会ったのだった。 ちなみに、ソフィー・アムンセンは、誕生日をみると私と同い年。日にちも14日しか違わない。


この本を読んで、資本主義が崩壊する前に、新しい思想・哲学が樹立されなければならない…と思った。
内容としては、シュレティンガーの猫や不確定性原理が出てこないのはしかたないとしても、ウィトゲンシュタイン、それから複雑系、相対性理論なんかについても触れられていたらもっとよかったなぁと思った。
以下、付箋を貼ったところ
●子どもと哲学

ヒュームなら、赤ん坊はまだ習慣からくる予断の奴隷になっていない、と言うだろう。きみと赤ん坊の二人のうち、赤ん坊のほうが心が開かれている。赤ん坊は偉大な哲学者だ、というのはそこなんだよ。赤ん坊には先入観がない。そしてそれが、ねえソフィー、哲学者のいちばんいいところなんだ。
ヒュームは、けっして「である文」から「べきだ文」は結論できない、と言っている。
レゴには、デモクリトスが原子について述べたほとんどすべての性格がそなわっているので、うまいこといろんなものがつくれるのです。
雨はなぜ降るのかな、ソフィー? きみはたぶん、学校で習ったよね。雨が降るのは、水蒸気が雲になって冷やされて、こごって水滴になって、重力によって地上に落ちてくるからだ、と。アリストテレスは、そのとおり、とうなずいてくれるだろう。でも、きみがあげた原因は三つだけだったね、とつけ加えるよ。まず気温が下がった時、水蒸気(雲)がちょうどそこにあったから、というのが「質料因」、つまり素材があるという原因だ。つぎに蒸気が冷やされたから、というのが「作用因」、作用がおよんだという原因だ。そして最後に「形相因」、地上にザアザアと降りそそぐことが水の形相あるいは本性なのだから、雨は降る。つまり形相という原因だ。もしもきみが口ごもって、これ以上の原因をあげなかったら、アリストテレスは追い打ちをかけるよ。雨が降るのは、植物や動物が成長するのに雨水が必要だからだ、と。アリストテレスはこれを「目的因」と考えた。わかったかな?アリストテレスによって雨粒は突然、生き物並みに使命かもくろみのようなものを割り当てられてしまったんだ。

二歳の娘は、まさに哲学者だ。日々「どうして…なの?」の哲学的な問いに接するなか、その答えをどうすべきか、どの部分の「どうして」を答えるべきかについて悩んでいたところだったので、この部分の記述はとてもうれしかった。子どもがききたいのは、条件・仕組み・性質だけでなく、「目的」の場合だったあるんだ。というより、むしろ多くの子ども向けの絵本では、この「目的因」の方が強調されているような気がする。感受性と共感をはぐくむには、この部分を忘れないことも大切なのかも知れないと思った。
●その他キーワード

エピクロスは言っている。「わたしたちが存在するあいだ、死は存在しないし、死が存在するやいなやわたしたちはもう存在しないのだから」
バロックのあいことば(ラテン語で) :
カルペ・ディエム = 今を楽しめ
メメント・モリ = 死を忘れるな

メメント・モリしかしらなかった。それと同時に、そんなキーワードもあったとは。

カントは時間と空間を、人間の二つの「直観の形式」と呼んだ。この二つの形式はぼくたちの意識のなかに、アプリオリ(あらゆる経験より前)に存在する、と言っている。
カントによれば、行動が道徳的に正しいかどうかを決めるのは行動の結果ではなくて、心構えなのだ。

カントが国連の父だという話、知らなかった。そういえば学校の歴史の時間だか倫理の時間に読んだような気もしなくもないけど、はっきりしない。

19世紀なかばの哲学と科学のキーワードは、自然、環境、歴史、進化、成長だった。
・マルクス : 人間の意識は社会の物質的下部構造の産物だ
・ダーウィン : 人間は長い生物学的な進化の結果だ
・フロイト : 人間は本性のなかの動物的な衝動あるいは本能で行動することがある
ダーウィン : 重要なのは問うことで、答えをいそぐことはない。
黒い肌のほうが太陽の光からガードしてくれるからだ。白い肌の人びとが太陽の光を浴びすぎると、たとえば皮膚ガンなんかになりやすい。
大気に酸素がなかったから、地球をとりまいて保護するオゾン層もなかった。宇宙から降りそそぐ放射線をシャットアウトするものがなにもなかったというとだ。これも重要だ。なぜなら、宇宙船は最初のこみいった構造の分子ができる時に重要な役を演じたらしいからだ。

ひょっとして、オゾン層が破壊されていることと、この急激な変化とは関係があるのではないか…などという推測が浮かんだ。
●東西

ヒュームがやった人間の心の分析と不変の自我の否定を、とっくの昔、二千五百年も前に地球の裏側でやった人がいるんだよ。ブッダだ。この二人のことばは、気味が悪いほどそっくりだ。
東方の二大宗教、ヒンドゥー教と仏教は、インド – ヨーロッパに起源をもっている。それはギリシア哲学にも言えることなのだから、かたやヒンドゥー教と仏教、かたやギリシア哲学と並べてみると、なんとまあよく似ていることか、と思うことはたくさんある。
セム : インド – ヨーロッパとはまるでちがう言語をもった、まるでちがう文化圏
セム族はもともとアラビア半島に現れたんだが、セム族の文化圏も世界に大きく広がった。二千年以上ものあいだ、ユダヤ人は先祖伝来の地から遠く離れたところに暮らしていた。そのためセム族の歴史と、キリスト教をふくむセム族の宗教は、そのふるさとからとんでもなく遠くまでおよんでいった。西方の三つの宗教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、セムの背景をもっている。イスラム教の聖典コーランと、ユダヤ教やキリスト教の旧約聖書は、似通ったセム語で書かれている。セムの人びとは、驚いたことに、すでに早い時期からたった一人の神を信仰していた。これが「一神教」だ。さらにセムに共通するのは「直線的な歴史観」だ。
インド – ヨーロッパの人びとにとっては、見ることが重要な意味をもっていた、ということは先にふれたとおりだ。ところが驚いたことに、セムの人びとにとっては、それと同じほど重要な役割を「聞くこと」が果たしている。ユダヤ教の信仰告白が「聞け、イスラエルの民よ」で始まるのは偶然ではない。旧約聖書を見ると、人びとが主のことばを「聞いた」り、ユダヤの預言者たちが預言を「かくしてエホヴァは語られた」という決まり文句ではじめたりしている。キリスト教でも神のことばを「聞く」ことに重点が置かれている。

セムって、ゾクチェンの三部にもある。これと同じような音だけれど、これは偶然なのか?とふと思った。
●哲学と歴史

ゲーテ :
三千年を解くすべをもたない者は
闇のなか、未熟なままに
その日その日を生きる
ヘーゲルが独自の哲学をもっていたかというと、これがちょっと首をかしげてしまうんだ。ふつうヘーゲルの哲学と言われているのは、おもに歴史の流れを理解するための方法のことだ。
ヘーゲルは、世界精神は自分自身をますます深く知る方向に向かっている、と言っている。海が近づくにつれて川幅は広くなる。ヘーゲルによれば、歴史は世界精神がだんだんと自分に目覚めていく一つの物語だ。

●信仰と哲学

キルケゴールは、もしも神が客観的にとらえることができるものなら、信じることはない、しかし客観的にはとらえられないからこそ、神は信じなければならないのだ、と考えた。(不条理ゆえにわれ信ず)

●仕事

マルクスは、働き方は意識に影響し、意識も働き方に影響する、と考えた。頭と手は相互関係にある、と言っていい。

●潜在意識

フロイトは、ぼくたちの日常生活はこういう無意識のふるまいにあふれている、と考えた。特定のだれかの名前を度忘れす、話しながら服の端をいじくる、何気なく部屋にあるものを配置換えする。言おうとしたことがすらすら出てこない、一件さり気ない言い間違いや書き間違いをする。フロイトはそういう間違いを、むじゃきとも偶然とも思わなかった。どんなにぼくたちが、ただの間違いで他意はないんだと言い張ってもね。間違いは徴候だ、「しくじり(失錯行為)」は極秘の何かをばらしていることがある、とフロイトは考えたんだ

若いころ「現象は嘘をつかない」という言葉で、よく先輩に指導されたものだ。

フロイトは、翌朝思い出す夢とその本当の意味は分けて考えなくてはならない、と言っている。夢そのもの、つまりぼくたちが夢にみた映画やビデオのようなものは顕在的夢内容だ。けれども夢には、意識に隠されている深い意味もある。フロイトはこれを潜在的夢思考と名づけた。夢とそこに出てくる小道具は、ほとんどがつい最近の過去から取ってこられている。前日の体験ということもよくある。けれども夢が本当は語っているこの隠された思考は、たとえばごく幼い時とかの、ずっとさかのぼった過去から出てきている。

巷にあふれる「夢占い」はこの辺のことを全く理解していない。

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