シュタイナー教育のまなざし

子どもへの接し方育て方
親・教師必読 ゅ泰奈ー教育実践の現場からのヒント


●古い時代の多くのおとながわかっていない、幼児の特徴

・九歳より小さい子どもにとって、「反面教師」ということはありえません。まわりりので行われているものごとを、そのまま受け入れていくのがこの時期の子どもの姿です。ある行為をするとき、その理由を理解してからすることはありません。見たことを鵜呑みにしてそのまま行うのです。まわりで行われる行為に向かい合うことはまだできず、むしろその行為といったいになることによって、それをしていきます。子供が身につけるべき行為がある場合、それを身につけさせるいちばんよいアプローチは、子どもの前で当たり前にそれを実際に「行う」ことなのです。子どものすべきことでない行為を子どもの目の前で行うと、子どもはその行為を、愛するおとながやっているよい行為として受け入れ、真似をします。子どもが真似すべきでない行為を、子どもの前でやっておきながら、子どもがそれを真似して行ったときに、「そんなことをしちゃいけません」と怒ることは、幼児にとって不条理な、その存在を否定されるような行為なのです。
・いちばんよいのは子どもと一緒に買い物に出ないことでしょう。おとなひとりで行けばさっとと片づきますし、おかあさんも自分ひとりの時間がもてます。お母さんが自分ひとりの時間をもつことはとても大切なことです。買い物に行く前に子どもと契約を交わすことも、ひとつのよい方法です。これは、今増えている、賢いけれど落ち着かないタイプの子どもにもとても有効な接し方です。これから起こることを前もって伝え、それがそのとおりに起こることはその子どもを安定させるのです。
・街中で、いうことを聞かない子どもに対して、まわりの人に聞こえるように大きな声で怒っているお母さんをときどき目にします。その子どものその行為を矯正しようという思いよりも、「私は親として正しいことをしているのよ」ということを、そこにいた人たちに知らせようとしているかのような雰囲気を感じたこともありました。子どもは真似をする存在です。幼児としてバランスの取れた子どもですと、その場所にいる人たちの行動を自然に模倣しようとします。静かに待っている場所に行くとその場にいる人たちの行為、その場所の秩序を感じとり、そのように振る舞うことを自分から無意識にしていきます。
・意識的にあるものを出してきて使った場合は、それをもとどおりに戻すことは意識的にできます。しかし無意識に出してきて使ったものは、そのままにしてしまうことがおとなでも当たり前に起こるのです。片づけることをまずおとながはじめます。すると子どもは自分が出したものを片づけなくてはならないからでなく、おとなが片づけているのを真似して片づけることをはじめます。
・親は自分がつくり出したいろいろな「子ども像」をもつていて、子どもがそのようになってほしいと、意識的あるいは無意識的に思っています。そして自分の子どもが、その「子ども像」のようにならないことによってストレスが生じているのです。自分の夢を子どもにおいて実現させようとしたり、社会から親としての自分がどのように評価されるかということを基準に子どもに接したりすることも、一方的な「子ども像」の押しつけになってしまいます。

強制やコントロールを前提とした子育て論を
未だにを信じている人の考えは、全面的に無視していい。
●逆に、新時代だからこそ注意すべきこと

・コンピューターは子どもの生活空間でない部屋に移し
・幼児が何かを選ぶ場合は、「どれにするの?」という問いかけの言葉への返答としての「これにする」といっているだけなのではないでしょうか。つまり言葉のやりとりにおける、問いへの答えとしての表面的な意味しかそこにはなく、本来の「私がこれを選ぶ」という行為はまだそこにはありません。「これにする」と子どもがいえば、子どもがそれを選んだとおとなは解釈してしまいますが、実際には選んでいないことの方が多いようです。お母さんがその子どものことをしっかり考えて、本当に必要なものをしっかり選んで、「たろうくんのはこれよ。」とわたしてあげることが、幼児にはとてもよいことです。おとながしっかり選んでくれていることは子どもに安定を与え、そこには信頼が生まれます。選択肢を与えて選ばせる好意を早すぎる時期からさせることは、子どもを不安定にさせ、表面的に言葉で「これにする」と答えることによって、身分かな自分意識を目覚めさせていきます。そしてそれはいわゆる「わがまま」のもととなっていきます。動物の本能に近いような低いレベルの衝動を自分でコントロールできない状態になってしまうのです。
・ちょっとした夫婦間の問題が、子どもに大きなストレスを与えてしまうことも多々あります。自分たちはケンカでなくディスカッションをしているつもりであっても、その雰囲気がいつものお母さん、お父さんと違い、飛び交う言葉も力がこもったものになってくると、幼児はその雰囲気を感じとります。
・おとなの問題を話してよい時間と、子どもと一緒に親子で過ごす時間、この空間的時間的な「すみわけ」が意識的にできたら、それは子どもが子どもでいられるためのすばらしい「おおい」となります。
・いろいろなインフォメーションによって、何が子どもによいかということがわかってきます。そして、それをしようと思うのは自然なことです。しかし、あれもこれも子どものために「やらなければならない」と思った瞬間から、それが子どもと一緒にするのにどんなによい活動であっても、そこに何か違う要素が入り込んでいくのです。
・子どもの「遊び」は本来、自発的であり創造的です。その意味でコンピューターゲームは「遊び」ということができるでしょうか。それは受身的であり、すべては与えられた刺激への反応や反射です。または限られた選択肢の中での選択です。
・一日のうち何時間もテレビの前に座っていることは、子どもから遊ぶことを奪ってしまいます。多くの子ども向けの番組も、子どもの成長発達に関する認識をもった人がつくっているわけではないので、実は子ども向けではなく、子どもをターゲットとした経済活動と同じで、おとなが勝手に子ども向けとしてつくっているものでしかありません。
・テレビでコマーシャルが流れ、派手な色や形のキャラクター商品を目にすれば、子どもは当然それが欲しくなります。そして、ただその商品が欲しいというだけにはとどまらず、子どもに強い所有欲のような衝動をもたせてしまいます。その衝動に子どもの感情が覚醒させられてしまいます。覚醒させられた感情は、さらにコマーシャルなどの刺激に飛びつきやすくなってしまうのですが、それに伴って生じる衝動をコントロールすることはまだ幼児にはできません。このようにして本来の幼児ならではの、体や行為や直接の体験と結びついた感情は、幼児から奪われてしまいます。

そんなことよりも、メディアの影響に注意するほうが先。
●杞憂 → もっと安心して。

・「何かをしでかすのではないか」とはらはらしていたら、そのおとなの内面が子どもに伝わってしまうのです。
・七歳までの子どもにとって男か女かということは、まだそれほど大きな意味をもっていません。もちろん女の子と男の子の違いはあり、今日の対象や遊び方などに違いは見られます。しかし幼児の場合は、男の子女の子の性格よりも、子どもとしての、幼児期の人間の性格の方が大きいのです。
・それぞれの子どもにおいてその子なりの台風が来ても、それはちゃんと過ぎ去るものであることをおとなが知っていて、かつその台風がたくさんの災害を起こさないですむような配慮をしつつ受け入れてあげることができると、その台風に振り回されずにすむのではないでしょうか。
・幼稚園で何をしたかを根掘り葉掘り聞くお母さんがいます。幼児は共感によってすべてのことと結びついていて、その部分ははっきりとした意識に上ってきません。それに対して転んで痛かったこと、いやだったことなど、明るい覚醒した意識と共に体験されたことは思い出すことができますから、質問して意識的に答えさせると、そのような反感をもって体験されたことばかり話すことがあります。そのように聞くことはさらに子どもの意識を覚醒させてしまいます。子どもから話してきたことを聞いてあげることはもちろんかまいませんが、幼稚園での生活を意識化させるようなことはまだ必要ないのです。これは一種の親のかまいすぎで、子どもが巣立つことの妨げになります。親自身も自分の子どものころを思い出してみると、そのころの自分の活動や思いなどで、自分の親が知らないことがどれほど多いかがわかると思います。子どもが親と離れて自分の世界の中で体験していることを、そっとしておいてあげることは大切なのです。
・一種の模倣による言葉で、「そこに行って楽しかった」という言葉とその子どもの感情に同化してしまい、同じ気分になってそれをいっているのです。
・子どもが小さい場合、三歳以下あるいは幼児期の場合は、おとなのもつ悲しみを、ことさら言葉で伝える必要はありません。「亡くなって悲しいね」ということを話すよりも、その人と一緒にした楽しかったことなどについて話すことがいいのではないかと思います。幼児の自然にもっている感情に合わせて、その人が天の国に帰っていった、神様や仏様のところに出かけていった、あるいはお星さまになったというようなことを話してあげたらいいのだと思います。

もちろん無関心や放任はよくないけれど、
情報が多すぎるからか、不安をあおる情報が多いからか、
心配しすぎるのも、よくない。
●勘違い

・よく週末などに、一生懸命子どもに何かしてあげようとしているお父さんを見かけます。どこかに連れていつてあげること、何かを買ってあげることなど、いつもいない分の関係を挽回しようとしているかのように、何か特別なことをしようとしているお父さんの姿がそこにあります。もちろん子どもへの愛情あっての行為です。しかし、子どもの今の状態を見ないで、お父さん主体に何をするかを勝手に決めていたり、逆に子どもの表面的な欲求だけにしたがって、子どもに振り回されたりしていることもありそうです。ある意味で子どもに過剰なサービスをしているのです。そのときの子どもにとって、ふさわしいことをふさわしいだけすることが必要なのです。
・次から次への新しい強い刺激が飛び込んでくるような生活は、とても楽しいもののような気がしますが、子どもはそれによって覚醒させられ、表面的に喜んでいる様子と裏腹に、不安定な状態になり、その生活と共感をもって結びつくことができません。生活のリズムの中の繰り返しは、子どもの生きていく力を強めていきます。逆にいつも覚醒させられるようなリズムのない行き当たりばったりの生活は、子どもの生きる力を奪ってしまいます。
・早期地域をはじめとする子どもの意識を覚醒させるはたらきかけは、子どもが自分の体をつくっていくことに使っている、まだ眠っている、夢見ている意識を、明るい方へ引っ張りだしてしまうのです。その分、体の方ではたらく力は少なくなります。
・今のその子どもに本当に必要とされているおもちゃをしっかり吟味して多すぎないようにすることは、片づけが簡単になるばかりか、子どもの遊び自体をよいものにするためにも役立つでしょう。
・この時期の子ども(三歳前)には、まだ社会性と呼べるようなものは必要ないでしょう。理解させようとするはたらきかけは、必要以上に子どもを覚醒させてしまいます。
・「みんなと仲よくしなさい」とおとなは子どもによくいいます。これは無理です。すべての人と仲よくしているおとななど、どこにもいないのです。
・子どもに関わるおとなが、子どもの成長発達に関して無知であること、その認識が欠如していることが、多くの子どもから「子ども時代」を奪ってしまっているのです。親は「親心」から、子どもの手助けをしているわけですが、それは成長発達を先取りし、「早産」させるようなアプローチで、子どもが自分の意志で成長発達していくことを妨げているのです。

中途半端な「常識」は非常識。
へんな勘違いをもっている人が多すぎる。
焦らないこと。
●必要なこと

・幼児期の子どもが健やかに育っていくために主に必要なのは、私たちおとなの中の女性的な領域です。それは子どもが小さければ小さいほどそうです。お父さんが幼児に接するとき、自分の中の女性的な部分を意識できたらよいと思います。
・子どもの様子をよく見ていると、ある見えないひとつの線があることに気づきます。その線わ越えてしまうと、子どもは自力では元には戻れないという線です。たとえば、楽しく遊んでいるところから、だんだん興奮してはしゃぎだした場合、その線を越えてしまうと、その子どもは「我ここにおらず」といった、空騒ぎ状態になってしまいます。察知する力によって、子どもがよい状態でいるうちに、次にしたらよい行動を促がしてあげることができるのです。線を越えてから元に戻そうと思ってもそれはうまくいきません。その状態になってから言葉で何をいっても後の祭りです。
・座って待っていなければならない間も、静かにしていながらも何らかのことで遊べる用意もしておきます。たとえばハンカチに結び目をつくって鳥やうさぎをつくると、ひざの上で小さな人形劇がはじまります。また、あやとりは出かけるときの用事のおもちゃにうってつけです。
・毎日違う話ではなく、同じ話をしばらく続けることと、静かにゆっくり読むことが大切でしょう。毎日違う話ではこれから眠りにつく子どもの好奇心をかき立て、子どもの心を眠りの反対方向へ導いてしまいます。また、子どもの感情に訴えかけるような抑揚の強くついた、声色を使うような語り方ですと、やはり子どもを覚醒させてしまいます。できるだけゆっくり静かに、淡々と、そして心地よく言葉が響いていくような読み方をしてみてください。
・もうひとつ大切なのは布団に入る時間です。幼児は七時半、遅くとも八時には寝るのがよいと思います。
・まわりの世界に開かれていて、そこにあるものを「よいもの」として受け入れる幼児期の子どもにとって、今すべき「よい行為」を示してあげる言葉は、今どうすべきでないかを示す言葉よりも結びつきやすいものです。
「この布をきれいにたたんでいいよ」
「このお人形をベッドのところに連れて帰っていいよ」
「ゆっくり食べていいよ」
「○ちゃんのお口お休みしていいよ」
・すぐに怒ったり何かいうのをやめて、意識的にやめて、それを心から驚くこと、それができるためにはおとなは開かれた感性と意志の力、そして少しのユーモアのセンスを必要とします。
・幼児に対しては、「何がいけない」でなく「何がよい」かを示すのが基本です。
・三歳の子どもが三歳の子どもでしかできないやり方で生きることができたとき、質としての「子ども時代」を生きているということができます。時間的に子どもの時期を過ごすというのではなく、その時期ごとにその時期の子どもとしていられること、遊べること、学べること、生活できることが、「子ども時代」を過ごすことになるのではないでしょうか。
・三つ目は、子どもの行動をよく見ていて、何をしているか何が起こっているかを気づいても、すぐに話しかけたり行動しないという接し方です。たとえばサッカーの審判がこと細かにすべての小さなファウルに対して笛を吹いて試合を止めてしまったら、試合全体の流れは途切れ途切れになり、よい試合にはなりません。反則であったり反則のようにみえても、全体の試合のことを視野に入れて、意識的にそれを流すことによって、試合はよいものになり、それぞれの選手がのびのびとプレーできるのです。「よい審判は目立たないものだ」と聞いたことがありますが、そのようなよい審判は選手のすべてのプレーをそして試合全体をしっかり見ており、本当に必要なときにだけ笛を吹き、その状況にしっかりと対応します。

おとなが自然と調和して、
ストレスなく生きていれば、
直感を信じた判断はだいたい誤らない気がする。
●その他

・老人と幼児が似ているところのひとつは、両者共に時間がたくさんあるということです。いつまでに何かをしなければならないという制約がなく、ゆったりとした時間が幼児や老人には本来流れています。そして生活も毎日が異なる忙しいものではなく、淡々と繰り返されていくような生活が基本となります。

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