家庭で学ぶ不登校の子どもたち
子どもが学校に行きたい というので、それを否定する理由は何もないけれど、
親としては、本当は、我が家もホームスクーリングにしたいと思ってる。
それは仕方なくという消極的な選択なのではなく、
もっとよい教育を受けさせたいという積極的な意味の選択として。
シューレの他にもサドベリーの存在なども有名になってきているし、
20年を経て、そろそろ日本もホームスクリーングが一般化してくる頃だろうか。
■そもそも考え方が古い
かつては、「首に縄をつけてでも学校へ行かさないとズルズルと行かなくなり、てこでも動かせなくなる、まだ軽症のうちに出しなさい、そうでないとそのまま社会の脱落者になりますよ」という専門家の指導が強かった時代があります。そして、学校へ行けなくなっている子ども、そのことで苦しんでいる子どもに対して無理な登校強制をした結果、ますます子どもを追いつめ、事態を悪化させました。
いつの時代でも、その時代の支配的価値観があり、戦前は、皇国民思想のなかで戦争に反対することは非国民だったのですが、いまは、登校拒否が人間としてあってはならないことのようになんとなく多くの人が思っているのです。これは、1970年代の高学歴化とともに、家庭の学校化が進むなかで、しらずしらずのうちに拡がった意識です。
明治維新後の近代化で第二次産業である工業立国となりました。学校はその大量生産型近代工業社会にとって必要であり、そのためのカリキュラムに従い、同一場所に趣き、同一の作業内容を、同一時刻より、一定の速度で、生産目標に従ってこなす人間を大量につくり出していったのです。
学校はだれにでも合うところでは決してないのです。
権利をもっているということは、強制されるということではありません。権利をもっているということは、権利の主体が権利の行使について判断できる、ということです。つまり、行くことが権利であるなら、行かないことも権利として含まれるし、休息の権利も当然含まれます。「国連子どもの権利条約」を、日本政府は1994年に批准発効しているわけですが、そこにも、子供の最善の利益にたって判断することや、休息の権利がうたわれています。つまり、登校しないで家で過ごしていても、なんら法的に問題はありません。
自分の子の話をきいていてもそうだけど、「学校に行かないことは悪いことである」という洗脳はまだ根強い。
そういう風潮を作っているのは、体制・学校側ではなくて、むしろ家庭の側なのかもしれない。
もういいかげん、こんな古い、工場労働者の大量生産をしていたような時代の教育から
新しい、ナレッジワーカーを育てるフィンランドやデンマークのような新しい教育にシフトしなきゃいけないなと思う。
こんな古い教育を続けているから、日本は弱体化していく。
■学歴社会
学歴社会にあってはホームエデュケーションで育った人のほうが珍重される要素があるあることにも目を向けてみる価値があります。
一部の企業などはとっくに履歴書に学歴欄がない時代です。
彼らはより成熟しており、より高度な社会的スキルを身につけています。たぶん、それは彼らには真似すべき、そして学ぶべき大人がおり、他のすべての同じ年の子といっしょに、一日のうちの最良の時を費やさないからなのです。彼らは、多くの異なったタイプや年齢の人々と上手くつきあっていくことに慣れているのです。これは制度としての学校に通う子どもたちには閉ざされていることです。
ある一つの決まった傾向を見ることができます。彼らは主として、広範囲に社会に貢献できるような身体的にも精神的にも健康な人々なのです。
家族が社会の最小の単位なのだから、その中でまずのびのびと自分らしく暮らしていれば、家族が健康で楽しく過ごせて、何かあったとき互いに助け合える心持ちでいられるなら、人として十分しじゃないかしら。そこがしっかりしていれば社会に出る時期がいつであろうと大丈夫
まだ今のこの社会状況では、中学受験をする子のような場合は、内申書を気にするという問題も、あるのかもしれない。
そう考えると、担任が「あたり」か「はずれ」かに大きく影響をうける内申点なんてものを
評価に使っている時点で、もうそれは仕組みとしてダメな感じがする。
■体の変調というサインを見逃さない
登校拒否の初期症状として知られる腹痛、頭痛、吐き気、発熱などは、学校に心や体が拒否感を覚えているけれど登校しなくてはいけない、と思っているときに人によって出てきます。ふしぎなことに、休むことや行かないことを親が認めると、しだいにこの症状は消えます。消えたからといって、また登校させていると、また出てきます。
昔は医者自身が登校拒否のことがよくわからなかったから、大人の精神病と同一視されていたりしたのです。私たちは親の会のたくさんの経験から「医者にふりまわされないでね。そんなの、入院も薬も必要なく、親が理解すれば落ち着いてくるから」とアドバイスしあっていたものです。
将来の心配をするより、いまの苦しみが楽になることが先決問題でしょう。心や体は行けない、行きたくないが、頭(意識)は行かなくてはと考えているこの分裂をひとつのものにすること。体を頭にあわせようとすると葛藤してしまうわけですから、頭が体にあわせられれば矛盾がなくなります。学校へ行けないなら、行く気がしないなら、それでよい、学校は合わない、学校へ行くなというサインかな、と自分で自分の不登校を受け容れることができれば楽になっていきます。体はウソがつけないから、体が感じていることに意識も素直になればいいのですが、意識はやっかいなもので、常識や建前、利害やプライド、その他こうあるべきだということにしばられていますから、なかなか素直になれません。
病気にならないと休ませてもらえないという現実があるから、子どもは、それに沿った形で、無意識に抵抗する。
それもできなくなると、命を断ってしまうことすらあるというわけだ。
この状況なんかも、「病は、そうなった原因をみるのではなく、現れでた表面的な部分を切り取ればいい」とする
誤った古い考え方のあらわれだな。
■最先端の教育 = ホームエデュケーション
学校があわないからホームエデュケーションをやっているのではなく、学校より家のほうがいいからホームエデュケーションをやっているのです。
学校を相対的に捉える傾向は、子どもが学校に上がるまえからホームエデュケーションについて考えている親に強いといいます。
私たちがホームエデュケーションを主張するのは、学校を否定したいからではありません。ホームエデュケーションも、フリースクールやオルタナティヴスクール、学校、いろいろ多様にあって選択できるということを求めているのです。少数であれ、多数であれ、それが必要と思う人がいれば、その人の教育への権利として、選択権が保障されることがのぞましい、と私たちは考えています。
なんだかホームエデュケーションというと、
不登校者や、何らかの問題をかかえる人生の落伍者の逃げ場のように見られたり、
既存の体制に極端なまでに抵抗する原理主義者のように見られたりしがちだけど
決してそういうことではないのだ。
本当に子どもにとってよい教育を考えた時、それは学校に「行けない」のではなく「行かない」という選択が見えてくるし、
数世紀前の教育手法とか、最新の研究結果を知らず、発達心理学の理解も旧いものしか知らないような教師や教育委員会をみると、
そんなところに自分の子の教育をアウトソーシングするよりも、自身でやった方がいいのではないかという結論に落ち着く。
そういう時に選択するのが、ホームエデュケーションなわけで。
これは、実はここ数年でどんどん増えてくるトレンドだと思う。
まだ、この形が主流になりそうだということに気づいている人は少ないかもしれないけれど。