育てるものの目

○問い
二人目の親となって、忘れてしまっている重大な心構えはないか
夫婦で共有すべき大事なことはあるか

父親が、記録のノートにとっていたという。

・子どもの差し出すものを、大切に受け取ることである。つまららないものでも、その中に子どもの心が含まれているからである。また子どもの気持ちの流れにそって、ゆったりとつき合うことも、大切な点である。子どもの行動を先走って日間@得るより、いまのときをしっかり受け止めることも大切なことである。
・子どもたちのけんかは、理屈による解決だけでは、解決にならない。理屈では分かっているのだけれども、納得しきれない気持ちが残っている。この気持ちを立ち直るようにすることで、ほんとうに解決したことになるのだろうと思う。
・貸し借りがぶきることは、未来にわたっての予測があることと、取り去られてもなお、自己の世界に属するものとの実感があるときに、はじめて成り立つことである。幼い子どもの中では順番ということも、あまりうまくはいかないことである。
・未知な出来事や、物や人に出会うということについては、大人よりも子どもの方がその機会は多い。関心を持つが、そこには好意や、拒否や、恐れが入りまじっている。どうやって未知なものとつき合っていくか。相手が自分を受け入れてくれるかどうか、自分もまた相手を受け入れるかどうか。困惑する機会もまた、子どもの方が多い。
・先になって困らないようにと考えるより、私はそのとき子どもが必要としていることをするのが、育児の基本だと思う。
・幼い子どもが外へいくのを助け、安全に気を配って、ついて歩く日々は、そう長いことではない。楽しいときだったと思う。
・劇あそびでは、ルールや能力は関係がない。むしろ、日常の枠から離れてどれだけ自由に生きられるかが楽しさになっているように思う。このような自由さの基盤には、想像を自由にはばたかせても不安に感じないだけの、自分の存在に対する安定感があるのであろう。子どもたちが長い年月にわたって楽しんだ「ごっこあそび」は、成長していくものが、自由な想像の中で、自分自身を創造していくいとなみだったのだと思う。
・子どもは、手や足や体で感じ、考える。泥んこ遊びを楽しむ子どもは、自分自身の内なる泥んこ、すなわち混沌として形をなさないものを大切にしながら、自分自身を創造することができるのではないかと思う。
・私は自分が、とっさにお人形を直す方に向かったことを思った。だいじなお雛さまを傷つけたP子のことを叱らなかったし、P子と争って人形を守ろうとしたA子のことをほめることもしなかった。どうやったら直るか、手を動かし、その作業に子どもたちも加わるようにした。
・子どもが泣きわめくときには、「子どもがこんな生き方には耐えられないが、自分の力ではどうしてよいか分からないときの表現だ」ということをくり返し心に思いながら、そのときどきに、何とか親切に対するように心がけてきた。
・子どもが本当に心を寄せてきたときに手をつなぎ、必要なときに手助けをしていることである。必要としないときには手を引っ込め、もっと大きな神様の御手にゆだねて待つことを教えられたように思う。
・追いかけてくれることが子どもには嬉しいのだと思う。母親が追いかけるに値するほどの自分だと確信しているのである。無心にそう信じて、母親にうんこを見せ、おいかけられて、笑い転げる。何と幸せなことかと思う。
・子どもが求めていることの中で、中心となっているイメージは何なのかを、感じとる想像力やゆとりが大切であろう。
・子どもが避けようとする気持ちも受けとめ、一方では大人の持つ見通しも示す。これが寄り道の意味のように思う。
・父親があとで話していたのは、そのとき、子どもがごはんを食べるとか、食べないとかは、どちらでもよいと思っていたという。ただ、これ以上子どもの心をかたくなにしないように、と考えていた。そう考えて子どもとつき合ったとき、子どもは心を開いて、気持ちを変えて、食卓についたのである。
・幼い子どもとの一日一日は、楽しかったことも、苦しかったことも、霧のように消えてしまうようである。だからといって共に生きた大人が、空しさや、物足りなさを感ずることはないと思う。形をなさないことの中に、本当に大切なことがあるからである。
・今を一生懸命に生きることと、長い人生の中でどう展開するかを楽しむこと、この二つのことは、保育の中での大切なことと思う。
・子どもがいろいろな人に囲まれ、いろいろな人から愛されて育つことは、恵まれたことと思う。問題なのは、大人たちが互いに相手の存在を否定的に見ることではないかと思う。

私はクリスチャンではないけれど、
聖書を読んでいる人とか伝統的なタイプの信仰のあつい人に
おおらかな人がおおいような気がするな。

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