ごたごた絵本箱

B.絵本

gotagota
ごたごた絵本箱

彼女の感覚って、私のそれととても似ていると思う。好き。
そんな、感性がとても合う彼女の絵本紹介は、とても信頼できる。
実際のところ、私も知っている何冊かの本の評価は、
いいなと思うものも、いやだなと思うものも、
その両方ともに、一緒だった。


●子どもに必要なもの – 平和な日常という安心

・来る日も来る日も同じことを繰り返すうちに、次に自分自身の身に起こることを安心して受け入れられるようになって行くのだから、子どもにまず必要なのは「事件の起こる日」でなく「淡々とした普通の日」なのだと思う。

子どもを喜ばせようと、遊園地やらキャラクターショウやら、
イベント盛りだくさんにすればいいと思っている人は多いかも知れない。
でも、子どもに必要なのはこういうこと。
毎日同じ公園で、同じ遊びが繰り広げられる、そんな毎日。
●親としてのMindset

・トールキンは長男のジョンが三歳の時から二十年以上にわたって、毎年クリスマスに子どもたち宛てに手紙を書いた。
・独身時代に働いた経験のある女の人が結婚して家庭に入ると、働きもせずに夫に養われている我が身がもどかしく、情けない思いにとらわれるのではないだろうか。お金に換算できる労働以外は価値がないのだ、という思い込み、あるいは思い込まされをそのまま家庭に持ち込むと、専業主婦でゴメンナサイッという気分になってしまう。お金で測れない細やかな情の通わせ合いの要であろうとする仕事は、他の誰とも取って代わることはできないのだが。
・「どうして失くしたのよ。もう買わないからねっ」などと、頭ごなしにやられていたらこの繊細さは育たない。好きな物でも失くす時は失くす
・昔より便利なはずの私達は、昔より子どもに譲る機会を増やしただろうか、私の場合、貧しさは言い逃れにすぎない。
・子どもは決して天使ではなく、大人を試しながらじわじわと野放図な振る舞いの範囲を広げる一面も持っている。感情を交えずに平然と公平に叱ることは、子どもに必要なことかも知れない。しかし、親が子どもといられる時間など短いものだ。私と同じ十八歳で家を出るとするなら、六歳の子と一緒に住める時間はもう三分の一もすぎてしまった。できることな一日一日いとおしんで穏やかに暮らしたい。
・昔の人は、七歳までの子どもは、この世にとどまろうか生まれる前にいたむこう岸に帰ろうか決めかねている時で、大人があまり熱心にしつけてこの世を押しつけすぎるとむこう側に帰ってしまうと考えていたそうだ。
・お世話やいて飾り立ててたっふり与えて大事にするやり方でなくて、子どもが自然界とコンタクトとりたがるのをじゃましないように守らなくちゃ、この子だってカケオチしちゃう。だめだよ。当分はここがあんたのほんとのおうちだからね。
・子どものおねだりに、「ほれほれ」と何でも与えてしまうのは甘過ぎる、そんなに甘やかすと自立心のないわがままになってしまう、と眉をひそめる人もいるが、私はそうとばかりは言えないと思う。「ほれほれ」が、その場しのぎの安易な解決策に過ぎない場合、口封じに用いられたアメが将来的に子どもを損なうこともあろうが、つい「だめだめ」「あとでね」と言ってしまいそうなところを、とりあえず「よしよし」と言うには、よへどこちらの度量も大きくなければならない。子どもが求めて来たその時に精一杯応えてやることで、ぼくは大事な子なんだなと感じるだろう。その自信を土台として子どもはのびて行くと思う。
・至福の今が二度と取り戻せぬ過去と知る時が私にも来るのだろう。こうやって小さな子どもを3人抱え込んでのんびり暮らしている今のことを、大人になったこの子たちが覚えているとは思わないけれど、私は絶対に忘れないと思う。

このあたりを読むと、
ほんとうにほんとうに、この人の感性って、いいなと思う。
書いてあること全て、私も、本当にそう思う。
●個性

・子どもの性格を見るのにも、二人目までは比べることしか知らなかった。男と女、静と動、明と暗、といった二極の両端に一人ずつ置いて、二人の差を際立たせることで性格を把握したつもりになっていた。三人目が生まれてみると、そう簡単に○✕式で振り分けられるものでなく、明るさひとつにもあかつきあり、日の出あり、照りつける陽あり、柔らかい日ざしあり、たそがれあり、月明りありでどれもそれぞれにいいものだと思えるようになった。三人目にしてやっと子育ての醍醐味がわかったから、さあこれから本格的に始めましょう、と思うぐらい。

確かに、私も、
二人目が生まれてから、たった二人のサンプルだけで一般化を試みていた。
冷静に考えたらおかしな話だ。
気をつけよう。
●絵本よりもさらによいのは「お話」と「童謡」

・つくば市内の幼稚園長をなさっているH先生に初めてお目にかかった時、保育者として一番欲しいのは「おはなしをたくさん知っいる人」だとおっしゃっていた。
・私も、子どもが生まれるからと何冊もの育児書を熱心に読破し予習したきまじめお母さんの一人だが、今思えば、ああやっ子どもがかかりうべき病気の多さにびっくりしいるよりも、こもりうだも習っておいた方がよかったなあと思う。生まれからは、心配ばかりつのる育児書は読まずに、母がプレゼントしてくれた『こどものうた』という楽符集をいつも枕元に置いていた。これは新米お母さんが持っていい本だと思う。
・何でもそうでしょうが、絵本もたくん持つ必要はありません。大好きなものを少しだけ持って、繰り返し眺めるのが一番よいと思います。

そうなんだよな。。
何も絵本にこだわる必要はないんだ。
私が子どもに絵本を読むのは、字の勉強のためではないんだから。
お勉強目的の人は、別かもしれないけど。
●子どもが自分で絵本を読むこと

・二十歳になれば誰でもできる程度の読み書きを、一、二年早く教えても、得るものより失うものの方が大きいだろう、そう思って子どもの方から「これ何て読むの?」「”ね”はどう書くの?」と尋ねて来た時だけ答えてきた。そのような消極的対応でも結構子どもは自分で学習し、拾い読みする。
・「教えてないのにすごいでしょ」と母に言うと、いつもは孫のことを手放しでほめるのに、「あんまりほめないようにね」と慎重だ。ほめられればうれしいから子どももつい頑張って拾い読みするが、意味まではわからない。字を音に移し変えれば大人は喜ぶんだな、となれば、絵本の香気は失せてしまう。あるいはその段階を通り越して、意味もわかり、すらすら読める子は、絵本の字だけ読んで「わかった」と言うのだそうだ。絵なしでもわかるというのは多分本当だろうが、絵を楽しむ前にわかっちゃうのは寂しいでしょ、と母は言う。
・確かに大人がおはなしを読んだり語ったりしてやるのと、自分で読みなさい、と監督だけするのとでは、きれいに盛りつけられたごちそうを味わうのと、栄養剤で必要なものを摂取するのとの違いぐらいはあるだろう。子どもが字を覚えたから大人はもう読んでやらない、というのも早急に過ぎる。

私も、子どもが字を読めるようになった今も、
ほぼ毎日、膝の上で読んでいる。
でも、ほめることの危険性をもう少し考えなきゃいけない。コレを読んで思った。
親の期待、エゴが子どもの純粋な感覚を濁らせてしまう。
●すすめられない絵本

・一人遊びの子どもの頭の中も案外このようにあどけないものなのだろうが、一人で満ち足りていて、他を寄せつけぬ威厳をしっかり持っている。それなのにわざわざそこに舌足らずの幼児語をかぶせて大人側から解説するような絵本がもはやされているのが気になるところだ。(ノンタンシリーズ)
・ものごとを「おもしろい」と「つまらない」で片付けるノンタンの行動が導く先は、こうこうすればこんなひどいめにあうんですよ、やめましょうというしつけである。さらに、世の中の人は「いじわるくもさん」とか、「ちびっこカメさん」といった人格レッテル付き人物で占められいるので、あなたはぜひとも「よい子」レッテルの人になりましょう、と念を押され、うなずかされておしまいとなる。つまんないわよね。
・こういう怖がらせ絵本は親には便利だが、子どもにとっては暴力だと思う。要するにおどしによるしつけ絵本(ねないこだれだ)

これらの絵本に対する感覚、私と全く同じ!! 本当に同感。
私は、せなけいこシリーズは全部避けている。
●子どもの感性を大切にしたい

・一歳の赤ん坊は何もわからないような赤ん坊顔をしているけれど、きっと彼は我々大人よりうんと敏感に、季節の移ろいを肌にしみこませてこの一年を過ごしたに違いない。
・洋服や泥んこや草の汁をつけ帰ってくるのを「汚した」とだけ考えると頭に来るが、いろんなものに「染まって来た」と思えばまた肩の力も抜ける。

親に、子ども心があるかどうかって、
とっても大切なんだと思う。
むやみに子どもの遊びに大人が介入しないという考え方もあるけれど、
子どもの世界を壊さずに、子どもと(子どものままで)思いっきり遊べるなら、
それはよいのではないか、と思う。
少なくとも、誘われたらいつでも遊べる感性はもっていたい。
●おもちゃと遊び

・数だけはたくさんあるので、これでは一つの人形に注ぐ愛情が薄まってしまう気がして、ずいぶんこっそり処分した。
・きょうだいでも友達でも夫婦でも自分の遊びを持っている者が常に強い。面白いと思えるもので心が満たされている時、その人は活気にあふれて魅力的になり「ねえ、何してるの」と面白さを分かち持とうと訪われる人となる。
・子どもが物を欲しがる時にホイホイ与えるのは甘やかしだ、子どもをだめにしてしまう、といわれるけれど、子どもが何だか親に頼ってみたく、それを「物が欲しい」としか表現できないような時もある。そうした気持ちを察せずに、むやみに、だめだめ、がまんがまん、と禁止するばかり゛は、甘やかし以上に子どもを損なうだろう。本当にその子の欲しがる物、必要な物は、喜んで与える用意があることを知らせおいやりたい。そして、食べ物も羊毛も麻も綿の花も、お店で売っているいろんな物も、直接間接に子どもを守るためにあるんだよと言ってやりたい。
・子どもも、ままごとでそんな魔法のおけいこをしているのだろうか。男の子も女の子も「見ないでね」と言いながら、熱心に何やらごちそうを作っては持っきてくれる。そうしてお皿を何度もつもりで空にする私のことを、息を呑んで見逃すまいと見つめいる。このつもりのごちそうには、どう受け入れられるかをじっと見届けずにはいられないほどの好意が込められているのだろう。私も緊張して、その好意にふさわしい言葉を探す。
・この子たちの、「わたしは青なの」「青をあげたい」という気持ちは、私にもわかる。青いみずうみ、青い夕暮れ、青いシリウス、みんな欲しいのだがそれらは所有できない。だから青いサファイアか何かでがまんするのだ。子どもが光を閉じ込めた石にひかれる気持ちは、大人のように、それが高価だからとか自慢できるからというのではない。

モノを与えることの制限に対するアンチテーゼ 初めてみた。
何だか今までモヤモヤしていた部分について言ってくれて、すっきりした感じ。
●感情を抑えるのではなく受けとめる

・子どもがこうして我を忘れて怒ったり泣いたりしている時、彼は今心の中で「かいじゅうおどり」を踊っているんだろうなと思う。マックスの心の中ではかいじゅうおどりを躍るために長い旅をしてきた大事な時間が流れている。その時間を待てずに、「あー怒らない、平気平気。もひとつ風船もらってあげるよ」「こっちのお手伝いが残ってるよ」などと怒りをそらし慰めたつもりになってしまう自分が恥ずかしい。
・息子が転んで泣かずに起き上がると、「さすが男の子。強いね」という励まし方をされて困ることがある。男の子だって痛い時は痛い。男だからと我慢を強いるのはかわいそうだ。
・泣き顔は心の傷口みたいに血を流しているのだから、近々と踏み込まれたら痛みを増す。肩までしか触れずに、そうっとハンカチを差し出す細やかさを、子どもはどこで知るのだろう。泣くにはそれだけの理由があるのに涙を見るといらいらしてしまうような悪母さんの日、この絵本のことを思い出して何だか悲しくなる。

タイトルに書いたけど、
そう。感情は抑えるのではなくて受けとめることが大切。
泣かせないのではなくて、泣きたい気持ちをそっとしておくことだって、大切。
このあたりって、難しいけどとっても大切。
泣くだけじゃくて怒るときにこれを受け入れられるかが、器の大きさ。
●寝かしつけ

・彼は本当にのどが乾いたというよりもまだ寝たくない、遊んでいたいのだ。そして、それ以上に彼も気付いていない理由 – 夜全体への恐怖、眠りそのものへの不安というものもあるのだろう。子どもはそれを表現する術を知らないので、何のかのと手近な理由を見つけて頑張って眠るまいとしているようだ。
・私はたまたまカトリック信者゛、子どもの頃はまじめだったから毎晩お祈りし眠った。お祈りはまずその日のことを思い返し、楽しかったことにありがとうと言い、自分が悪かったことにごめんなさいを言うものだった。ことに「思い返すこと」は一日の出来事を自分の中に収まりよく落ち着かせ、心の波立ちを鎮めて安らかな眠りに入って行くために意味あることだったと思う。
・いっとき、「ひらいたひらいた」を歌ってやるとよく眠った。モーツァルトやシューベルトのこもりうたのように美しい旋律だが必ずドて終わる曲と違って、五音階でレで始まってレで終わるこの歌は次の音に対していつも開かれた感じがする。言葉の方も花が開いたりつぼんだり開いたりし、寄せては返す波のようにいくつもつながり、日が暮れて夜が明けてまた暮れるという連想もたやすく、この夜と眠りがどこにつながっいるのかという子どもの無言の問いへの答えともなるものだ。
・眠りがちゃんと朝につながっていることをまだ知らぬ子どもにとって、眠い自分を抱えているのは泣きたくなるほど不安なことなのかも知れない。大人がどこにつながっているかわからぬ死を恐れるのと同様に。私は時々唐突に、死ぬのって怖いだろうなあ、と思うことがある。

寝る という 一日の終わりが、
人生の終わりのような感覚でいるということは、
言い方をかえると、一日を(人生を)全力で生きている証ともいえそう。
子どもって、やっぱりすごい。
●暗示

・目の奥のオバケのもとを取り出すしぐさをしてそれを紙の小箱に閉じ込め、セロテープでかんじがらめに目ばりしてからぐしゃっと握りつぶし、ゴミ袋に入れて、ゴミ置き場まで捨てに行くという儀式をしたそうだ。実際この方法で「おねしょのもとを取っちゃったから大丈夫だよ」と暗示にかけてうまくいった例がいくつかあるという。
・娘は次の朝「きのうオバケ捨てたのに、やっぱり夢に出てきたんだよ」とべそをかきながら起きて来た。それでも母は「失敗したかな? 悪かったね」とは決して言わない。「あらら、きのうちゃんと捨てたのに、また新しいの拾って来ちゃったの? 困ったね。じゃあ、よし。今度はチュチュチュチュねずみに頼んであげるからちょっといらっしゃい」と命令口調゛連れて行き、また厳粛にオバケ退治をやり始めた。
・母が「ぶたちゃんは悪いオオカミがもう二度と悪いことができないように、グツグツ煮て食べてしまいました」「悪いオオカミはぶたのおなかに入って、いなくなってしまいました」と言うと、娘は、はぁーっとためいきをつき、「だからもうオオカミはいません」と自分で続きを受けて語り、大いに納得したようだった。悪者のおさまり場所をきちんと悪者らしいところに決めたこのおはなしを幾夜か聞くと、娘の夢の中にもオバケがふらふら現れたりしなくなった。子どもといっても、気をさらせればすむことばかりではないのだと実感した。

暗示が効かなかった時の対応が、すごい。
言い方を帰れば、親である自分が暗示(が効くこと)を信じていないと、
子どもも信じてくれなくなる、ということになる。
●兄弟姉妹

・ある日あなたのご主人が、若くて魅力的てなぜかうんと手のかかる新しい奥さんを連れ帰り、「君のことは前と変わらず愛しているよ。でもこの人のことも愛しているんだ。仲良くして面倒見てやってくれ」と言ったらあなたはひどく怒り、不安になりませんか。小さいきょうだいを迎えたお兄ちゃんお姉ちゃんはそれと同じ気持ちを抱いているのです…。米国の心理学者がいつかテレビでこう言っていた。「新生児=新しい奥さん説」なんて何だかおかしくて笑ってしまったけれど、考えるほどに何とうまいたとえだろう、上の子はうんと傷つくのだろうなと思う。

このあたり、本当にとてもいいたとえ。
この話は、とてもわかりやすい。
末っ子三男である私には、長子の気持ちがわからないから、
いつもこのたとえを思い出して気をつけるようにしている。
●成長

・大人をからかったり小さな嘘をついたり秘密を持ったりすることで、子どもは大人の傘の下から抜けだして、対等なかかわりを持ち得る自分を見つける。その時初めて、「家中で一番小さくてかわいい子」でなくなった自分を受け入れる。この先私も子どもの嘘や秘密と付き合って行くことになるだろう。無い知恵絞ってその複雑さに対応して行かねばならない。

そろそろ上の娘もこの時期にきたのかなぁ。
どんどん成長していく現実。
うれしいような、さみしいような。
●食事とマナー

・緊張のあまり、子どもに余計な手出しをしたり、先回りして注意したりし、悪いですねえ、決して我が子の無作法に無関心なわけじゃないんですよ、ということを示そうとする。大人のつまらない見栄なのだが。
・あまり早くから、我慢強く礼儀正しい小さな大人であることを強いたら、子どもでいられる時間を短くししまう。少しずつお行儀を教えて行きたいとは思っているが、本来子どもは自分本位で汚くてうるさいものだということも認めて待っていてやりたいとも思う。それよりも今は、食べものが生きものだったことを告げる方がよいのではないだろうか。
・私たちも狩りをして食べた。殺してむしってもいで食べているのだからせめて投げ散らさずに食べよう、ということを見栄のためのお行儀つくろいと混同してはいけないのだった。

ひと目を来にしてしまう私には、とても耳のイタイ話。
親の見栄、私にもある。だから、外食の時に厳しくなってしまう自分がいる。
親としては、子への対応はいつも一定でありたい。
迷惑をかけていいわけじゃないけど、
謝る覚悟さえもっていれば、もっと楽しめるなかも知れない。
●その他

・子を持って初めて誕生日が何の記念日だったかが身にしみてわかる。小さい時からずっと誕生日だといっては親に祝ってもらって来たけれど、本当は産んでくれた人に贈り物でもしなくちゃいけない日だったんだ。うっかりしてたなー、と思う。
・新しく親しくなれた人にまず尋ねたいのは「どんな本読みますか?」だけれど、その次の次ぐらいが「晩ごはん何にしますか」という質問。何しろおなべというものは、あっと驚くおいしいお料理ほれグスリ入りというようなものが出てきそうだから、好きな人のはのぞきたくなる。
・料理が卑しい仕事だなん思いたい人には思わせといてあげましょ。火と水と時間を素材の上で思いのままに司る女神の仕事なのにね。

火と水と時間を…女神の仕事
ってとっても美しい表現だなぁ。

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