なぜ人は破壊的な感情を持つのか

「心と生命研究所」ダライラマと世界の名だたる学者たちの心と生命会議

ダニエルゴールマン : 「EQ – 心の知能指数」を書いた人
といった方がわかりやすいのかも知れない。
その彼とダライラマとの共著。


西洋と東洋の融合です。
その、もっとも新しく最先端の状況が、心と生命会議だといえるかも知れません。
その様子が事細かにあらわされています。
●気になった部分の自分用のメモ

・p70 アリストテレスの言葉エウダイモニアは、ながらく”幸福”と翻訳されていましたが、いまでは”繁栄”と訳すのが一般的です。これは植物の隠喩であり、植物は繁茂しているからといって幸福だと感じているわけではない、という考え方です。
・p71 西洋人の大半、とりわけ宗教的でない人びとは、功利主義派かカント学派のどちらかに色分けできるでしょう。
・p73 功利主義に反する人がよく引き合いに出すのが、一人を犠牲にすることで100人の命を救うことができるのなら、そうするのもやむをえない、という例です。カント学派は、そこにも制約をもうけ、たとえ自分の決断によって100人が死ぬことになったとしてしも、殺生はしないという信条は曲げるべきではない、と言うでしょう。
・p84 “わたし”とは連続体に与えた単なる名前であり、川を指さして、ガンジスとかミシシッピとか呼ぶのと同じ、それだけのことなのです。
・p172 鬱病の人は適切でない状況で悲しみを感じます。ひとつの推測は、そのような人の海馬は正しく機能していないということです。海馬はわたしたちに、状況にまつわる情報を提供し、感情的反応がその状況に適切となるように制御する助けをします。そうなると、感情障害の問題のひとつは、不適切な状況における感情表現であるということになります。ある人が感情障害を持つかどうかの判定は、その人の感情が状況に不適切かどうかということになります。そしてもし不適切ならば、おそらく海馬の機能不全のためだということです。
・p174 実はごく最近まで、人間はある数のニューロン(神経単位)を持って生まれ、その数は生涯変わらないというのが神経科学の定説だったのです。発達とともに変わるのは、細胞と細胞の関係だけであり、死んでいく細胞はあっても、新しい細胞は生まれないと信じられていました。この二年間で、わたしたちはそれが嘘であることを発見しました。今や、一生涯を通して、人間には新しいニューロンができていることが立証されています。
・p175 アインシュタインは思考に集中するとたくさんの視覚的イメージが浮かぶと述べていますが、これは”共感覚”と呼ばれるものです。共感覚とは、ある音を聞いてある色彩を感じるように、さまざまな種類の感覚が結合することです。このアインシュタインの脳で普通より大きかった部分(頭頂葉の角回)が、彼の思考能力のもとになったのではないかと推測されます。
・p223 親が子どもの否定的感情 – 怒りや悲しみ – に気づき、それに対処できるよう手助けすると、子どもは自然と自分の感情に対する生理的な決まりごとを作り出して、より肯定的な行動をとることが研究によって示されています。一方で、そのような感情を見せた子どもに対して、親が無視したりお仕置きしたり、はたまた怒ったりすると、ある種の感情が共有されないと気づいた子どもは、自分の殻に閉じこもってしまいます。そうすると、子どもは生理学的にも心理学的にもストレス過多に陥ります。第二は、子どもを危険にさらす因子のうちもっとも重大なもののひとつ、母親のふさぎ込みです。母親が悲しい気分を見せることが多かったり、無気力で落ち込んでいたりすると、その子どもは、かなり高い割合で攻撃性、不安、抑鬱を見せます。リチャード・デヴィッドソンの先の研究にでは、鬱状態の大人は左前頭葉の活性化がかなり低いことが判明しました。ジェラルディン・ドーソンの研究でも、ふさぎ込みの母親について、同じ結果が出ています。ドーソンの研究によると、ふさぎ込みがちな母親に育てられた赤ん坊は、一歳になるまでに同じパターンになるといいます。左前頭葉の活性化が低いのです。ですから幼年期であっても、鬱状態の母親がいれば、子どもは肯定的感情を見せず、脳が異常な活性化のパターンを見せることになります。ここでの決定的な問題は、幼年期の人間関係が後の社会的感情発達の道筋を定めてしまう点です。
・p236 子どもが怒ったり悲しんだりしたときに、見捨てません。罰を与えません。
・p244 菩薩の四八軽戒のひとつに、利他的な動機による力を必要とする状況においては、強力な対応に従事するという戒律があります。ですから、怒りに満ちたあわれみを持ち合わせれば、暴力もいたしかたないのです。理論上は、あわれみから行われる暴力は、許されることになります。
・p245 逆境や残虐な状況では、難題に遭遇したという大きな喜びを感じながら反応すべきだというのです。忍耐を養う機会に出会えたのですから。そういった機会はめったにあるものではない。他人に危害を加えなければ、自分にはなかなか危害が及ばないからです。
・p250 ユダヤ教とキリスト教で共通しているのは、変化は神の恵みから起こるという点です。科学では、薬を服用したり遺伝子療法を受けたりすると変化が起こるのです。(つまり内面から変わろうという発想にならない)
・p257 一人称の方法(体験)、二人称の方法(高度な訓練をうけた聞き手)、三人称の方法(科学が用いる客観的な計測)
・p269 仏教心理学や仏教認識論を学ぶだけでは、心の状態を表す専門用語の理解が足りず、体験を表現できるかという問題がある。→現代の認知神経科学とともに学ぶことが望ましい。
・p275 きわめて裕福な人とささやかな収入の人との間でも、日ごろの気分(前頭前野の活発さ)には実質上ほとんど違いがみられない。つまり高収入になったからといって、人生の満足度に差が出るわけではないことを意味する。

自分の中で整理・吟味すべき内容がたくさんあって、
メモがものすごい量になってしまった。
興味深い箇所がとても多く、いまだ消化しきれていない。。

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