30歳男子、主夫宣言!
会社を辞め、勉強しながら家事・育児に奮闘するオトーサンが
専業主夫ならではの視点で世に問う、
「男の役割、女の役割」
「働くってどーいうこと?」
私も、主夫という選択を考えたことがある。
正確には、妻に働いてもらうのではなくて、
本田健さんがやったような、妻も自分も家にいて…という
セミリタイヤのライフスタイルだから、これとは少し違うけど。
マンガで構成されててとても読みやすい。
現代の社会体制、社会環境に対する批判的な視点も、
大いに共感した。
●この本の本質 : 最も共鳴したところ
・「俺は毎日子供をお風呂に入れてるぜー!」「休みの日には公園で遊んでやってるよー」なんて言って胸をはって、すっかり「育児している」気になっているオトサン達がほとんどなのではないだろうか。まあもちろん何もしないよりは、はるかに良いことなのだけれど、僕が主夫生活の中で社会からの疎外感になやまされたように、毎日毎日、朝から晩まで家事や育児に翻弄されている奥さんたちが、自分のダンナに求めているのはそんな断片的な事柄なのではなく、もっと精神的な部分での本質的なサポートではないだろうか。
たとえ忙しくて物理的に育児をする時間がないダンナさんでも、「夫婦でともに子育てをしていこうとする態度」や「子供の成長や教育に関心を持って、できる範囲で最大限協力しポートしていこうとする姿勢」があり、何より「自分が外でお金を稼げるのは、家で家事や育児を担当してくれているパートナーがいるおかげけであるという感謝の気持ちを持っているのであれば、それはそれでりっぱな「父親」なのだと思う。このリストラの嵐吹きあれる荒涼とした不況下で、家族のために二十四時間戦っているオトーサン達に、「主夫の気持ちを理解しろ!」というのもなかなか難しいことだけれど、でも、社会からの正当な評価も報酬もなく、毎日毎日単調な仕事を繰り返し、あげくの果てには自分のダンナからも「やって当たり前」としか評価されないのでは、主婦の立つ瀬がないってもんだよ。
・妻が外で働いている間、家庭を支え、わからんちんのコミチの面倒をみているのは紛れもなく、この僕だ。妻がいなければ学生主夫できないのと同様、僕がいなければ、ミチも乳飲み子を抱え、夜勤のある助産師という仕事に安心して従事することはできないハズだ。ウンチやおしっこも自分でできず、牛乳をこぼしては「ウケケケケッ」と笑っているコミチを扶養家族と呼ぶのは「ウンそのとーりだ!」とあっさり納得できるが、社会的にみれば自分の立場もこのコミチと同じで「世話されちゃって養われちゃっているわけなのね」とあらためて思うと、おもわず心に冷たい北風がピューと吹きすさんでしまうのでした。専業主婦の女性たちは、こんな気持ちにさいなまれることはないのだろうか?
子育てに興味を示せないのは、妻への思いやりの問題以前に、
自分がどのように育てられたかという、パパとパパを育てた母親との関係に根っこがありそう。
自分が愛情を示してもらってうれしかったことや、
母親が嫁である妻の自由を尊重する姿勢、自由な価値観を持っていると、
パパは、自然に子育てを重視する姿勢になるように思える。
●今すぐに変化のmovementが必要な社会環境
・育児休暇を取得した64.0%の妻たちも程度の差こそあれ、同じような究極の選択を迫られ、あせり、そして孤立感を味わったハズなんだ。そう考えると、男性の取得率が女性に比べて著しく低いのは、社会環境だけの責任ではなく、育児というものに対する男たちの意識の低さがやっぱり大きいのかなぁとも思う。
・「男女間の賃金格差が小さい国ほど、それに比例して出生率も高くなる」という国際的な常識の中で、日本に限っては女性の賃金が高い都道府県ほど逆に出生率が低下する傾向があるということなんだ! 日本では、せっかく努力して出世のチャンスをつかみ、やりがいのある仕事に従事している女性が、「妊娠」「出産」イコール「全てのキャリアを放棄する」という封建的な慣習が脈々と流れている会社組織に脅迫されるカタチとなり、必然として女性たちに「子を持つこと」をためらわせてしまっているのだろう。
自分は、この変化のために、
何かができるかも知れない。
●公園の文化
・公園では初対面の親子が挨拶がわりに相手の子供の年齢を聞く慣習がある。当初僕は齢を聞かれると「一歳でーす」と何の疑問も抱かず答えていたのだが、どうもそのたび妙な空気が漂うので不審に思い妻に問いかけてみると「ばかねエ相手は何歳と何ヶ月なのか知りたがってんのよ」 …公園内ではそれが常識
イクメンを自認するパパでも、
このあたりの微妙な女性の感覚って、なかなか理解できていないかも知れない。
やはり、女性ならではの感覚、パパはママには絶対にかなわない領域がある。
●その他
・ケニアの母親たちが、赤ちゃんがやりたいように勝手に行動させ、あまり手助けをせずに見守るのに対して、先進国アメリカの母親たちは、常に赤ちゃんに話しかけながら、何通りかの手本を示したり、いくつかの選択肢を与えてその中から選ばせるという、いわば「手取り足取り的手法」を用いることが多いそうだ。興味深いのはその結果なんだけど、赤ちゃんの運動機能の発達は、ケニアのほうがアメリカに比べて早熟となり、また感情の表現能力もケニアの赤ちゃんのほうが極めて多彩に育つ、っていう研究結果が報告されているんだよね。つまり積極的に手助けをするということは、大人の価値観の中で「正しい」とされている行動に誘導することであり、そのやり方だと、巧みに赤ちゃんを操ることができる。でもその反面、子どもが「常識」という大人の価値観に縛られてしまい、自分の考えで模索しながら行動を決定し、方法を考えて遂行するという、何よりも大切なことが身につかなくなるとも考えられるわけなんだよ。
・絵本の夜空に浮かぶ三日月を見て「バナナ!」と主張し、アリが角砂糖を運ぶ絵を指さしては「トウフ!」と声高らかに叫ぶコミチに、誰が間違っていると言えるであろうか? メルヘンの世界なだけに、大人の基準でそれを否定することはできない。そのときの感情からそのように見えるのであれば、それがその子の瞬間にとっては真実に他ならないのだから。
・医者や育児書が提唱するような「良い育児」とされるものは、その瞬間に「良い」といわれているだけにすぎず、「普遍の定理」ではないのかもしれない、という疑問を常に抱きつつ、あくまで一つの意見、方法論にすぎないモノととらえるべきなのだろう。
・妊娠中にオトーサンがオッパイ吸っちゃうと、やっぱりオキシトシンが分泌して子宮が収縮しちゃうんで、子供が降りちゃうことがあるらしい。元気いっぱいやる気まんまんオトーサンは要注意だそうです…。
子どもにとっての真実 という言葉に、
著者の子どもへの愛情を感じる。
この人とは友人になれそうな気がする。