大切な仕事をアウトソーシングする時、
そのアウトソーシング先がどんな会社なのか、どんな人が仕事をするのかをわからずに
仕事を丸投げするようなことは、絶対にしない。
そして、必要に応じて監査もする。
どんな場合でも、アウトソーシング先に対する監督責任を免れることはできないのだから。
翻って、仕事よりも大切な「子ども」を預けるのに、
その組織がどのような理念と方針を持っているのかを知らないままなんて、ありえない。
それに本当は、監査や立入検査だって必要だ。
認証や認可の更新がどのような手続きで行われるのか知らないけれど、
少なくとも指導要領ぐらいは知っておきたいと思って、手にとってみた。
…でも、実際には、業界関係者以外でこれを読む人って、
ほとんどいないのかも知れない。
私は物好きなのだろうか。
もちろん、
働く先生たちだっていちいち指導要領を毎日唱えているわけではないだろうし、
意識してる人なんて少ないと思う。
それに、ここに書かれているのは「何を」であって、
「どのように」ではない。だから、実現方法はそれぞれ。
でも、原則を知っておきたかった。
内容、捨てたもんじゃない感じ。
理念はかなりまともだ。
●心理的環境
・幼児が積極的に周囲に目を向け、かかわるようになるには、幼児の心が安定していなければならない。心の安定は、周囲の大人との信頼関係が築かれることによって、つくり出されるものである。
・また、言葉を交わす楽しさは、話したり、聞いたりすることが十分にできる環境がなければ経験できないこともあろう。したがって、発達を促がすためには、活動の展開によって柔軟に変化し、幼児の興味や関心に応じて必要な刺激が得られるような応答性のある環境が必要である。
・人とかかわる力の基礎は、自分が保護者や周囲の人々に温かく見守られているという安心感から生まれる人に対する信頼感を持つこと、さらに、その信頼感に支えられて自分自身の生活を確立していくことによって培われる。
・幼児期においては、幼児が友達とかかわる中で、自分を主張し、自分が受け入れられたり、あるいは拒否されたりしながら、自分や相手に気付いていくという体験が大切である。
・依存と自立は対立するものでなく、幼児は保護者や教師を心のよりどころとしながら、行きつ戻りつする過程の中で、次第に自立へと向かっていくのである。それゆえ、身の回りのことについて先を急ぐあまり、型にはめ込み、大人の手が掛からなくることばかりを求めてしまうと、いわれたとおりにしか行動することができないことになり、かえって幼児の自立を妨げる結果になってしまうことがあるので、十分に配慮することが必要である。
・幼児が幼稚園において自己を発揮し、生き生きと生活するためには、幼稚園が安心して過ごすことができる場になっていることが大切である。幼児は、保護者の感情や生活態度に影響されることが大きく、保護者が幼稚園や教師に信頼感をもっていれば、幼児も安心して過ごすことができるようになってくる。
まずは何をさしおいてもこれ。
自信とか自尊心、自己重要感といわれるこの安心が、大前提。
一般的に、家庭環境が安定している子の方が、そうでない子よりも、
肉体的にも知的にも成長しやすいという意味は、よくわかる。
絶対に、子どもの前で、幼稚園や教師の批判をしてはならない。
●教師という人的環境
・信頼し、尊敬している大人がどう反応するかは重要であり、幼児は大人の諾否に基づいて善悪の枠を作り、また、それを大人の言動によって確認しようとする。
・保育の展開において大切なことは、環境とかかわる教師の姿勢である。環境には、物的環境や人的環境、自然環境や社会環境など様々な環境があるが、そのような環境に教師自身がどのようにかかわっているかということも環境として大きな意味をもってくる。幼児は教師や周囲の幼児がその環境にどうかかわるかを見て学んでいく。
・教師が生命を大切にするかかわり方をすれば、幼児もそのようなかかわり方を身に付けていくだろう。その意味で、教師は自分自身の自然や生命へのかかわり方が幼児に大きな影響を及ぼすことを認識する必要がある。
・教師がある遊びに否定的にかかわれば、幼児はその遊びをしなくなるだろう。
・教師がある活動を楽しみ、集中してし取り組む姿は、幼児を引き付けるものとなる。「先生のようにやってみたい」という幼児の思いが、事物の新たな出会いを生み出したり、工夫して遊びに取り組んだりすることを促す。幼児は、教師の日々の言葉や行動する姿をモデルとして多くのことを学んでいく。
これは、幼稚園教師に限ったことではない。
そして、幼稚園教師だけに押し付けるべきものではない。
おそらく、子どもにとっては幼稚園教師よりもさらに尊敬の度合いが強いはずの「親」、
我々がまず最初に、考えなくてはならないことだ。
●物理環境
・例えば、ある運動機能が育とうとしている時期に、一緒に運動して楽しむ友達がいるなど体を動かしたくなるような環境が整っていなければ、その機能は十分に育つことはできないであろう。
・環境を通して行う教育は、遊具や用具、素材だけを配置して、後は幼児の動くままに任せるといったものとは本質的に異なるものである。もとより、環境に含まれている教育的価値を教師が取り出して直接幼児に押し付けたり、詰め込んだりするものでもない。
・それが置いてあるだけでは、初めて見る幼児は興味をもたないだろう。くぎをうまく打っている幼児を見ることにより、あるいは、教師が打ってみるという働き掛けにより、誘われてかなづちを手にするようになる。
・テレビやビデオなどを通しての間接体験の機会が増えてきている現代、幼稚園で自然と直接触れる機会を設けることは大きな意味をもってきている。
・製作活動をしようと思っても、それに必要な素材や用具が容易に使えるように用意されていなければ、十分に活動を展開することはできない。また、いかにものが豊富にあったとしても、幼時がものとものの間に何のつながりも見いだせなかったり、これまでの自分の生活経験の中に位置づけられなかったりすれば、やはり、主体的な活動を展開することはできない。
・教師は、一人一人の幼児の中に今何をはぐくみたいのか、一人一人の幼児がどのような体験を必要としているのかを明確にし、幼児がどのような活動の中でどのような体験をしているのかを考慮しながら、教師としての願いを環境の中に盛り込んでいかなければならない。用事の主体的な活動を通しての発達は、教師が、幼児の周りにある様々なものの教育的価値を考慮しながら、綿密に配慮し、構成した環境の下で促がされるのである。
自由と放任は異なるという話があるが、環境だって同じなのだ。
みえみえの意図といやらしい押し付けで、大人がコントロールしすぎるのはよくないけれど、
ある程度の導きは必要だ。
その意味で、現代で得に気にするのは、以下二点だ。
・心理的に不安定な大人から守ること
・心理的に悪影響の情報から守ること
これらに汚染されないように、FireWallを作ってあげる必要がある。
●遊びの重要性と幼児教育の目的
・幼稚園では、幼児の主体的な活動としての遊びを十分に確保することが何よりも必要である。それは、遊びにおいて幼児の主体的な力が発揮され、生きる力の基礎ともいうべき生きる喜びを味わうことが大切だからである。幼児は遊びの中で能動的に対象にかかわり、自己を表出する。そこから、外の世界に対する好奇心をはぐくまれ、探索し、物事について思考し、知識を蓄えるための基礎が形成される。
・遊びは遊ぶこと自体が目的であり、人の役に立つ何らかの成果を生み出すことが目的ではない。しかし、幼児の遊びには幼児の成長や発達にとって重要な体験が多く含まれている。
・幼児期は身体諸機能が著しく発達する時期であるが、幼児は自発的にそのとき発達していく機能を使って活動する傾向があるといわれている。そして、その機能を十分に使うことによってさらに発達が促がされていく。
・幼稚園から小学校への移行を円滑にする必要がある。しかし、それは、小学校教育の先取りをすることではなく、就学前までの幼児期にふさわしい教育を行うことが最も肝心なことである。つまり、幼児が遊び、生活が充実し、発展することを援助していくことである。
・幼児は、その幼児なりのやり方やペースで繰り返しいろいろなことを体験してみること、その過程自体を楽しみ、その過程を通して友達や教師とかかわっていく中に幼児の学びがある。
・学校教育全体では、いかにして子どもの生きる力をはぐくむかを考えて、各学校の教育課程は編成されなければならない。
お勉強ばかりの幼稚園が増えているようだが、
そんな園長には、まずこの教育要領を読んでほしいと思う。
といっても、そのような幼稚園が増える背景には、
幼稚園に預ける親側のエゴと無知があるのかも知れないが。
それから、p277にある付録「保育所保育指針」の年齢別の発達過程には、
誰もが目を通しておいて損はない。
●適切な働きかけは必要
・幼児が自分で気付かないことに気付くようにすることが大切である。例えば、物を壊してしまったというような物理的な結果は分かっても、相手の心を傷つけたという心理的・内面的側面には気付かない幼児に相手の意図や気持ち、そして、自分の行動が相手にもたらした心理的な結果に気付くように働き掛けることが必要である。
・しかし、「幼児をただ遊ばせている」だけでは教育は成り立たない。幼児をただ遊ばせているだけでは、幼児の主体的な活動を促がすことにはならないからである。
・その時々の状況や幼児の気持ちを無視して、機械的にじゃんけんなどで決めるような安易なやり方ではなく、自分たちの生活を豊かにしていくために、自分の要求と友達の要求に折り合いを付けたり、自分の要求を修正したりする必要があることを理解させていくことが大切である。
・幼児の行動に温かい感心を寄せることである。それは、やたらに褒めたり、励ましたり、付きまとったりすることではない。幼児のありのままの姿を大人がもっている判断の基準にとらわれることなく、そのまま受け止め、期待をもって見守ることである。このような肯定的な教師のまなざしから、幼児は、自分が教師に見守られ、受け入れられていることを感じ取っていく。しかし、「待つ」とか「見守る」ということは、幼児のすることをそのまま放置して何もしないことではない。幼児が他者を必要とするときに、それに応じる姿勢を教師は常にもつことが大切なのである。
・幼児が主体的に活動を展開するからといって、幼児が遊ぶまで何もせず放っておいたり、幼児が遊び始めたままに見守っていたりしていればいいというものではない。教師は、常に幼児が具体的な活動を通して発達に必要な経験を積み重ねていくよう必要な援助を重ねていくことが大切であり、そのためには活動のきっかけをとらえ、幼児の活動の理解を深めることが大切である。
・ときにはやりたいことが十分できなかったり、途中で挫折してしまったり、友達との葛藤などにより中断してしまったりすることもある。このような場合に、その状況を放置することで、幼児が自信を失ったり、自己実現をあきらめたりすることがないように、その活動のどのような点で行き詰っているのかを理解し、教師が必要な援助をすることが重要である。
適切な働きかけは必要。放任はだめ。
ただし、↓の過干渉にならないように。
どちらに偏ってもだめだ。
しかしこのバランスが難しい。
どの場合には働きかけ、どの場合には見守るのか。
価値観の揺らいでいる現代では、
その境界線となる判断基準を、もっと詳しく示してあげる必要があるのかな★
●遊びに過干渉・過介入しない
・幼稚園教育が目指しているものは、幼児が一つ一つの活動を効率よく進めるようになることではなく、幼児が自ら周囲に働き掛けてその幼児なりに試行錯誤を繰り返し、自ら発達に必要なものを獲得しようとする意欲や生活を営む態度、豊かな心をはぐくむことである。このような心情、意欲、態度は、いろいろな活動を教師が計画したとおりに、すべて行わせることにより育てられるものではない。
・一つの活動に没頭して取り組むことができることも大切である。いろいろな活動を次から次へとやっているのでは、多少の楽しさはあったとしても充実感や満足感を覚えることはできない。このような環境の構成は、教師の行動としてみれば、反対に、その活動にとって不要なものやかかわりを整理し、取り去ったり、しばらくはそのままにして見守ったりしていくことも必要となる。
・活動を充実することは、いろいろな活動を行うことと同じではない。まして幼児が取り組もうとしている活動を早く完了させることではない。幼児が活動に没頭する中で思考を巡らし、心を動かしながら豊かな体験をしていくことである。
・安全を気にするあまり過保護や過介入になってしまえば、かえって幼児に危険を避ける能力が育たず、けがが多くなるということにも留意することが必要である。幼児の事故は情緒の安定と関係が深いので、教師や友達と温かいつながりをもちね安定した情緒の下で幼稚園の生活が展開されていることが大切である。
・幼児が試行錯誤をしながら考えを巡らせている時間を十分認めることなく、やるべきことのみ与えてしまうことによって、他者に追随し、自分のやりたいことがもてなくなってしまうことのないようにしなければならない。
・単に何かを「できる」、「できない」ということのみが問題ではなく、あくまでも自分でやりたいことを意識し、自分が思ったことができたということを喜ぶ気持ちが大切である。自分でやってみたいという意欲をもったり、やったらできたという充実感や満足感を味わったりすることが自立の第一歩である。
・多様な体験が大切であるということは、幼児に様々な活動を提供すればよいということではない。幼児が自分で考え、判断し、納得し、行動することを通して生きる力の基礎を身に付けていくためには、むしろ幼児の活動は精選されなければならない。その際特に重要なことは、体験の質である。
欲張って、全部を求めないこと。
早くマスターさせようと焦らないこと
速く終わらせようと急かさないこと
その三つが必要なんだな。
●共感・受容と個性の尊重
・幼児のしようとしている行動が、多くの幼児が示す発達の姿から見ると好ましくないと思えることもある。しかし、その行動をし、その行動を通して実現しようとしていることがその幼児の発達にとって大事である場合がしばしばある。教師は、幼児一人一人の発達の特性(その幼児らしい見方、考え方、感じ方、かかわり方など)を理解し、その特性やその幼児が抱えている発達の課題に応じた指導をすることが大切である。
・内気で消極的な幼児が、鉄棒をしていた友達がいなくなってから一人で鉄棒にぶら下がってみたり、あるいは皆が縄跳びに興じているのをすぐそばで楽しそうに掛け声を発したりしながら見ている場合、その幼児はそれまで苦手にしていたことに挑戦しようとしていると理解することができるだろう。そして、挑戦した結果、成功すれば、その幼児は自信をもつと考えられる。そうであれば、今この幼児の発達の課題は自信をもつことであるといえる。
・様々な出来事と出会い、心を動かす体験をすると、幼児はその感動を教師や友達に伝えようとする。その感動を相手と共有できることで、さらに感動が深まる。しかし、その感動が教師や友達などに受け止められないと、次第に薄れてしまうことが多い。感動体験が幼児の中にイメージとして蓄えられ、表現されるためには、日常生活の中で教師や友達と感動を共有し、伝え合うことを十分に行えるようにすることが大切である。特に3歳児では、じっと見る、歓声を上げる、身振りで伝えようとするなど言葉以外の様々な方法で感動したことを表現しているので、教師はそれを受容し、共感をもって受け止めることが大切である。
・特に3歳児では、自分の気持ちを表現するというより、自分の気持ちがそのまま声や表情、身体の動きになって表れることが多い。独り言をつぶやいたり、一人で何かになりきっていたりする姿もよく見掛ける。そのような幼児の表現は、率直であり、直接的である。大人が考えるような形式を整えた表現にはならない場合や表現される内容が明快でない場合も多いが、教師は、そのような表現を幼児らしい表現として受け止めることが大切である。
・幼児の発想や環境の変化、あるいは他の幼児がかかわることによって、予想をこえた展開になる場合もある。このような場合には、その活動の展開の面白さを大切にしつつ、そこで幼児がどのような体験を積み重ねているのかを読み取りながら必要な援助をしなければならない。
・体験は幼児一人一人の意識の中でつくられるということである。したがって、同じ活動に参加したからといって、必ずしも全員が同じ体験をするとは限らないので、教師は一人一人の体験に目を向けることが大切である。
結局のところ、セールスやマーケティングも同じ。
すべて、共感ということの二文字に行き着く。
自分の子どもにすら共感できない大人が増えているのは、残念だ。
きっと、その大人も、自分の親に共感と受容をもらえなかったのかも知れない。
どこかで、この悪循環を断ち切らなければ、と思う。