絵本と私とシュタイナー
好きな人が紹介してくれる絵本は、たいてい自分も好きです。
ということで、また松井るり子さんのこの一冊。
子どもと過ごす時間が、ほんわか楽しくなる一冊です。
そして、図書館で絵本を借りるのが楽しみになります。
●子どもに教えたいこと
・時々、子どもが小さいうちに絶対に教えておきたい、一番大事なことは何かなあと考えてみます。後からでも教えられることを省いていって、最後に残る肝心なところは、「生きてると楽しいよ」ということではないでしょうか。それは言葉では教えられなくて、感覚を通じて本人が身体でじかに感じるほかないものです。彼らが「この世は生きるに足る楽しいところだ」と思ってくれるように、簡素で適量のよいものに取り囲まれて過ごす喜びを子どもと一緒に味わうのが、おかあさんの仕事ではないでしょうか。
・自然と触れ合わせておしまいにしないで、見たもの聞いたものを味わう場所を、心のなかに作っていくのがシュタイナー教育です。そのための、数学でいう「補助線」にあたるものが、カーテンや、ろうそくや、季節のテーブルや、おもちゃや、お話や歌やオイリュトミーでしょう。大人もそういう「補助線」が必要だから、自然を見るだけにとどまらず、小説を読んだり、絵を見たり、音楽を聴いたりします。
・幼児に対して、それはそっと提出されます。説明的な言葉を使って、頭に直接働か聞けることはしません。感覚器官を通じて伝わるようにします。
・「一歳児に名詞を教えるためのあいうえおの本」が、生の体験と子どもを切り離す方向に作用するのが嫌でした。体験がまだ何もないうちに、「あ」は「あひる」をやるのは、貧乏臭いです。あひるのうるささ、風の音、うんちの臭さ、池の匂い、拾った羽のすべすべなどの体験を省略して、平面図形の形状と名詞と文字を結びつける作業能力のみが肥大化するグロテクスに、気づこうとしない神経が嫌です。
・幼児期を脱した子どもの豊富な体験の上に、知識絵本がパラリと乗っているのと、乳幼児の絶対量の少ない経験の上に知識絵本をどっさり乗せて、窒息しそうで、首の骨は折れそうというのとでは、絵本の功罪もまるで違ってきます。
ここに、すべての本質が凝縮されていると、思う。
早期教育に焦る人は多いけれど、その前に、まずはシュタイナーを一冊読んでおくというのは、決して無駄ではないし、遠回りでもない。
●五感で
・あなたの好きなものは? 私がどこかでお話させて頂くときは、お隣同士、この方法で自己紹介してもらうことから始めます。少し発表してもらうと、こんな具合です。「私の田舎のお祭りの、獅子がしらの朱色」「お茶の炉の炭が、ぱちっとはねる音」「沖縄の、○○という木の花の匂い」「コロッケ名人になろうと決めているので、コロッケの味」「猫の足の裏の、柔らかいところ」素敵ねーと感心して聞いています。
・ひとくちに「なにが好き?」と聞かれもとまどってしまうときは、五感を通じてうんと具体的に考えてみると、見つけやすいと思います。小さな子どもと一緒にいると、彼らは体中を目にして、耳にして、鼻にして、舌にして、触覚にして、一生懸命見たり聞いたり、嗅いだり味わったり触ったりしているんだなあと思います。
・ボタンぐらいの大きさのカットグラスのビーズを、留め具と合わせて細い針金で細工して、ピアスにしているのを見たことがありますか? それを吸盤で南の窓ガラスに貼りつけておくと、お日さまの角度によって、部屋のなかが虹でいっぱいになります。プリズムや石のなかの光は、ひんやりした光のように思えます。
・学校に上がる前の子どもは、自分の身体を使った感覚、つまり目で見てうれしい、耳で聞いてうれしい、鼻で嗅いでうれしい、舌で味わってうれしい、肌で触ってうれしい気持ちを通じて、<生きる意志>を育ててきました。小・中学生は、勉強するなかでこの世の謎に目を開いて、世界と自分の結びつきを確かめます。中学・高校生は、世の中の美しい秩序を知り、自分はこの世界をさらに美しくするためにどう働けるかを見つけて、働く大人になるための具体的な勉強をします。子ども自身が勉強を始める頃から、この願いをきちんど持っていれば、勉強が不毛な点取りに終わることはないでしょう。
この、学年別の世界との接し方は、シュタイナーがいう、7年ごとにかわっていくステージを、わかりやすく説明したところだろう。これ、我が家の学びにおける基本ポリシーにしよう。
●なんでもない日の大切さ
・子どものとっ今日はいい日だったなあとしみじみ思えるのは、「事件の起こる日」ではなくて、「なんでもない一日」かも知れません。
・小さい子どもは、頭の上にいつもと同じ屋根があって、大好きな人がそばにいて、毎日が同じことの繰り返しという体験をして初めて、安心して次に起こることを受け入れられるようになると言われています。
五感で、自然で、ということを別の言い方にすると、こういうこと。
具体的な行動指針としては、これが過ごし方になる。
遊園地や真新しい美術館を連れ回す必要はない。
公園に、庭に、そんな身近なところに、子どもの幸せも、親の幸せも、ある。
●まずは歌
・子どもを持つと、歌をうたうのが日常になりました。まずはどうしてもこもりうたが必要になります。それからちょっとした言葉をしゃべるのに、「待っててね(ラーソソラ)」とうたった方が、「うるさいわねー、待ってなさいと言ってるでしょっ!」と激しかねない私を遠ざける効果があり、これだむけのことで次の数分間を幸せに過ごせます。
・子どもたちが喧嘩しそうになったとき、「喧嘩するなっ」とてきぱき叱ってもダメで、「なかよくねー(ラソミソラー)」とすっとんきょうにお願いすると「んー、わかったー」とへろへろになって、聞いてくれます。
・子どもに絵本を読み始めたのは、そんなに早くありませんでした。その前は歌ばかりでした。小鳥の歌がしたら「小鳥はとっても歌が好き/母さん呼ぶのも歌で呼ぶ…」と歌い、風の音を怖がったら「風さんだってお手々があるよ/本当だよ/お窓をトントンほらね/たたいているよ」と歌いました。
待っててねー とか なかよくねー に節をつけるというこれは、すぐに真似したい。一日中家にいて一緒にいる世の中のママたちは、ついつい「早く」「ダメ」を連発してしまうから、こういう工夫をして、もっと生活をユーモアでいっぱいにしたい。
●絵本の選び方
・私ががまんして本を読んだら、「おかあさんは偉い」と思ってくれるかもしれませんが、「本を読むってがまんなんだ」と思うでしょう。それでは本読みのつらさを伝えることになります。好きな本を読むことで、「おかあさんの好みはちょっと古くさいが、何かうれしそうにしてたとこ見ると、本は楽しいらしい」と思ってくれたらうれしいです。
・ちなみに私はフェリックス・ホフマン、マリー・ホール・エッツ、エルサ・ベスコフ、M.B.ゴフスタイン、ドーレア夫妻などが大好きです。
・もしも七歳までの子どもが、二冊だけ絵本を持つとしたら、今の私はこのオルファースの『ねっこぼっこ』と『もりのおひめさま』を薦めます。ここからいくらでも「お話けが広がっていくし、子どものおもちゃも遊びも暮らしそのものも、こんなふうだといいなあと思っているからです。
・私にとって本は、十歳ぐらいのときから黙って目で読むものでした。子どもに読んでやるようになって初めて、音読によって息が苦しくなる本と、深い息ができてかえって楽になる本があるのに気が付きました。『わたしとあそんで』は良いほうの代表です。
・本は数時間かけて一冊読んでみないと、好きも嫌いもわかりませんが、絵本だとほんの短い時間で「好き」というのがわかります。つまり、「好きな絵本に出会いたい」と思って図書館に出かけて、心ひかれる絵本を次々手にとって「ぱらぱらー」とやれば、「これだ」という本に出会える確率は高いわけです。
・待ったなしで育っていく子どもと暮らしていると、情報そのものはあまり役に立たなくて、今ここにいる私がここからスタートして、格好わるくてもつじつまが合ってなくても、なんとか自分の頭で考えてやっていかなくてはいけません。そんななかで、絵本とシュタイナーを「どう使ったか」という切実な話は私も聞きたいので、「じゃあ、お先に話してみるわね。あなたも教えて」と思います。
教育的な目的で絵本を選ぶと、どうしても押し付けになってしまうし、我慢大会になってしまう。子どもに何を教えるのか、子どもは親の話している内容ではなく、その姿や行為をそのまま学びとる。
大切なことは、勉強の内容ではなく、学ぶことの楽しさだったり、世界の美しさだったり。それを教える…というか伝えられる親になりたいと思う。
●絵本に学ぶ
・かわいがるという基本方針は決まっていても、現実の腹の底でイライラしているときに、口先だけ優しげなことを言っても、全くだましがきかないのが子どもです。がまんしてかんしゃくを押さえても、うわべに隠された本音を見抜いておびえるので、かわいそうになってしまいます。大人たる者、本来ならば、理性をしゃんとまっすぐに保って、腹立たしさにたやすく侵食されない人間にならなくてはいけません。わかっちゃいるけど難しく、悪くすると自分の感情コントロールは放棄して、「おかあさんはヒステリーやってんだから、放っといて。あなたはひとりで健やかで強い子になりなさい」みたいな無理を、平気で言ってしまいます。けれど、子どものかわいさに溶かされるように、自分が変わることもあります。絵本の子どもに心なごまされ、目の前の子どもをかわいがりたくなって、手を伸べる。ゾロトウはそういう誘いかけがともうまいと思います。
・泣かれちゃ具合が悪いときの私をかえりみるに、まずこわーい顔をして見せて、それからボリュームだけ下げたドスのきいた声で、「泣くんじゃないっ!」と命令していたんじゃないでしょうか。この子の方が私より、児童心理がわかっるなあと感心します。
まずかたにをかけて、
それからハンカチをとりだし、
それから「さ、かおをふいて」。
・子どもが自分にとって、もっともわかりやすい例を用いて、ものごとを深く的確に考えるのには、いつも目を見張らされます。それなのに私たちは、子どもが考える間も与えずに図鑑など持ち出して、いろいろ教えておこうと欲を出します。子どもはうるさそうにします。このおかあさんを見ていると、言葉少なな対応が、坊やの考える力を育てているのだなとわかります。
・クーニーを理解するような子どもは、とうに自分で字が読める年齢かも知れません。でも私が彼らに伝えたいことが、説教ではなく、美しい形で描かれています。これ以上、私が言葉で何かを補う必要はありません。このまま素直に読むだけのほうが、気持ちがうまく伝わります。だから、クーニーの絵本は「読むよー」と子どもを読んで、私が音読する形で、一緒に読むことにしています。
この人が紹介する本は、どれも一度は目を通してみたい。
私と感覚が似てるから、きっとはずれはない。
●子どもと親の関係
・子どもは「立派なおかあさんだから好き」なのじゃなくて、「おかあさんがおかあさんだから好き」と言ってくれているのです。こんなありがたいことがあるでしょうか。
・子どもが大きくなるということは、何かを失ったり汚れたりするのではなくて、内面の複雑さを増して、将来の私の親友として、手ごたえ十分な大人に育ってくれるということでしょう。成長は喜ばしいものだと思うことができました。
・親がうるさく言うまでもなく、本人の弱点は本人にとって一番の悩みである場合が多く、要するに「できんもんはできん」ということがわかってきます。わかった後もあいかわらず、指摘し続けるのが親の務めのような気がします。でも私が誰かに「掃除がヘタ、掃除がヘタ」と言われるところを想像してみると、ちょっとゾッとします。文句を言われたくなくて、しぶしぶ掃除時間を増やすかも知れませんが、あんまり掃除がうまくなる気はしません。少なくとも今以上の掃除嫌いになることは、まちがいありません。でも子どもにはそれをやってしまうんですねえ。体育嫌いに「ちょっとは運動しなさい」、友達付き合いが下手な子に「友達いるの? だいじょうぶ?」→「子どもが言ってほしくない未熟なところは、胸に納めているのが親の務めだと思います」。なるほど、なんでもあからさまに指摘すれば解決するわけではないのでした。彼女は他人にも、本人にも言わないでおくのでしょう。「これじゃあ、だめじゃないか」ということを、自分の胸にたたんでおくのは苦しいです。でも苦しいからこそ、自分がしてやれることを見つけようとします。それが、子どもの至らなさを、一緒に引き受けることになるのかも知れません。
・まねた子どもは悪くありません。子どもにまねられてまずいまではいかなくても、恥ずかしいようなことをする私たちが、恥ずかしい大人なのです。
・親が子どもを育てていると言っても、実は子どもの許容量の大きさに助けられている局面が、多々あります。
・日曜日にいっしょに遊んでくれるおとうさんが、「大人の理性と忍耐力による、子どもとの時間の共有」ノルマを越えて、本当に遊びを楽しんでくれたときのうれしさと同じです。おとうさんを我慢させてうれしい時期は、そう長くありません。おとうさんも楽しんでくれてこその、日曜日のうれしさです。
仕事に追われ、家事に追われ、生活に追われ、大人はみんな、余裕がなくなっている。
でも、子どもはそんな私達大人に、大切な贈り物を常に、あふれるほど与えてくれている。間違えて子どもを傷つけても、子どもは常に寛大だ。そして残念なことに、その贈り物の存在に気付けないまま、時間を過ごしてしまう人も多い。
●保護と過保護について
・多くの場合、機嫌のいい子どもが要求してくることは、子どもの成長力を助けるものです。そういうものは喜んでかなえましょうという、くんちゃんの両親は素敵です。
・シュタイナー教育は「自由の教育」ではなくて、「自由への教育」だと言われています。子どもが将来しっかりと自分の判断力を行使できる日に向けて、大人はするべき手助けをきちんとしましょうと言っています。私はこういう考え方が好きです。
・過保護が子どもを害なうとよく言われますが、その前の必要な保護はなされているかという検証は、手薄のように思われます。子どもの成長は白日のもとにさらされながらよりも、守られた繭のなかでのほうがうまくいくことがあります。必要な繭を着ているのに、余計なコーティング材など施されて窒息するのが過保護ですが、過保護を避けようと焦って、まだ必要な繭を早く脱がせて命にかかわる大怪我をさせてしまう害について、もう少し声高に述べられていいと思います。
・幼児は何から守られるべきかというと、悪しき考え、悪しき言葉、悪しき行為、悪しき手本からです。つまり側にいる大人が悪しき考えをいだかず、どこからまねられてもよい、よき手本になることが、子どもの保護者になることです。難しすぎるーと思います。でも「そういうものだ」ということだけは、知っていたいです。
この、繭とコーティングのたとえは、とてもわかりやすい。
最近は、両極端な人が多い。
繭をはがしてしまうような人が多いのは、とても悲しい。
●シュタイナーとの付き合い方
・シュタイナーの本を読むと、ああせいこうせい、これはいいあれはだめとは言っていません。発達というものはこうである、と言っています。大人の主義主張や思惑抜きで目の前の子どもをよく観察し、その子どもに必要なことをしましょうと言っています。それなのについ、マニュアル式にマルバツで考えようと焦っているの゛した。
・子どもは一人一人、持って生まれたものも、置かれた状況も違います。現実の子どもを見ていなかったり、自分の頭で考えないで、誰かが考えたことをそのまま自分の答えにするならば、大人も子どももおかしなことになっしまいます。
・「観察」しているつもりでも、こちらの都合で目が曇っているときには、見えていないことがよくあります。後から私はわざと見落としていたんじゃないかと思うことさえあります。それからまた、「この子はこういう子だ」という過去の観察と思い込みに縛られて、流れのように変わる子どもの「今」を見ていなかったりします。
・仰ぐべき星をどこに求めるかは人それぞれです。芸術であったり、学問であったり、宗教であったりするのでしょう。私の場合は、意外と手近な素材゛ある絵本を読んで考えることでした。子どもたちが大きくなっくると、シュタイナーの本が役に立つようになりました。シュタイナーが高いところを仰ぎながら、常に地道に地に足を着けようとしているからです。
ノウハウコレクターのような人、テクニックとしてシュタイナーを読むような人は、大きな過ちを犯してしまう。シュタイナーに学ぶべきは、表面的なテクニックやツールではなく、その考え方なのだ。
●少女の特別な保護
・ギリシア時代、処女神アルテミス(月の女神のダイアナ)の神殿の少女たちは、体を洗わず、身なりをかまわず、乱暴な言葉を用いて、「みっともなさというベールに保護されて」暮らした。良家の子女はこのような手続きによって、早すぎる性体験から守られ、その後に結婚したという。
・私たちは、図らずも中学高校時代を地味な制服に身を包み、化粧はせず、髪をひっつめにして、受験勉強に身を捧げて過ごした。生物学的には生殖を第一目的とする年齢を迎えているにもかかわらず、精神的にはまだ未熟ということになっているのかどうなのか、そのあたりはよくわからないまま、恋愛感情を意識的に遠ざけ、身をやつして質素と勤勉の日々を送った。その時期を過ぎてみると、身をやつした数年が、意外にも正解だったと受け取れる。目的こそ違え、結果的に文明社会が用意してくれた、アルテミスの神殿に隠れて過ごせてラッキーだった。
うちの子、女の子だけど、おしゃれとは程遠いし、男の子と遊んでばかり。
これはこれで、いいんだという見方も、あることを知った。うん。
●その他
・生物はわがままな遺伝子の命令に従わされ、あやつられて生きているという考え方によれば、姑は「自分の遺伝子を増やしたい」という健全な本能に従って、嫁いじめをするらしい。姑は息子の稼ぎによその男の遺伝子が寄生されてはかなわないため、浮気につながるおそれのある嫁の化粧や外出を嫌い、子育てをして早めに色あせてくれることを願う。息子にはいつまでも若く元気でどんどん浮気をして、自分の遺伝子につながる子孫を増やしてくれることを願う。
これ、とても興味深い話だ。
確かにこれ、筋が通っているのかも知れない。