武士道

いま、拠って立つべき日本の精神
日本人の精神的支柱がここにある
サムライのごとく気高く生きよ。

●この本を手にしたきっかけ
前回の「図解」に続いて、もっとちゃんとしたのを読んでみたくなった。





名誉
忠義


●とくに目にとまったところ

アメリカ人の夫は、人前では妻にキスをするが私室では打つ。しかし日本人の夫は、人前で妻を打って、私室ではキスをする。アングロサクソンの個人主義では、夫と妻とは別々の人格であるという観念から抜け切れない。そのため夫婦で争うときは、二人それぞれ別の「権利」が認められ、仲良いときは、ばかげた愛称や意味のないお世辞を数限りなく並べ立てる。

フェミニズムというか、欧米文化で直接的な表現で相手に感情を表現するのは、そもそも「分離された自己」という前提があるからなのかも知れない。
しかし日本人の感覚では、夫と妻は「同一」「不二」・・・自と他の区別を超越した関係にある。だから、「愚妻」などといったりする。これは別に、悪いことではない。つまり、サムライにとって人前で妻をほめることは、人前で自分のことを自慢する「自惚れ」になる。それこそ、礼を失することになる。
別に、西洋の価値観だけをすばらしいものと絶賛する必要もないのだなぁと思った。また、女性が人前でほめられる欧米的(イタリア的?)な態度を喜ぶのは、現代日本でおいては、昔はその前提にあった「同一」という感覚が薄れているからなのかも知れない。
●その他思ったこと
とくに、「図解」ではなくこの本を読んでよかったことは、「切腹」とは何なのか、それについてこと細かな描写がなされているところ。父の仇として家康を討ちにいった若い三人の兄弟が切腹する話は、とても衝撃的だった。そして、色々と考えさせられた。
新渡戸稲造は、クリスチャンだったようだ。その意味で、クリスチャンではない日本人には必ずしも全面的に受け入れられるわけではないだろう。ただしそれを差し引いても、「日本のよさ」を忘れてしまった、私を含む現代人にとっては、とても多くの気付きが得られるはずだ。
  主君は、天と会話し、天に対して責任を持ち、命を懸ける
  サムライは、主君と会話し、主君に忠誠を近い、そのために命を捨てる
・・・ということは、
自ら天(それは、人によっては何かの神であるかも知れないし、運命かも知れないし、法則であるかも知れないし、科学的真理であるかも知れないし、使命感であるかも知れない)と会話できる者、ビジョンを示すことができる者、夢をつくりだすことができる者は、サムライの上に立ち、治める。
自ら天と会話できない者、ビジョンを持つことができず、主君のビジョンにのっかっていく者、誰かの夢に「参加」していくものは、サムライとなる。
これは、世の起業家、とくに社会起業家とその従業員、チームのあり方とも関係する。そして、自分はやはりサムライではないのだなと思った。
というのは、家族を犠牲にしてまで誰かに忠誠を誓おうと思えない。そういう主君がいない。でも、家族とともに、努力を分かち合って夢を追っていきたいとは、思う。ということは、誰かのビジョンに乗っかるのではなく、自分でチームをつくるしかないのだなと、思った。
私は、サムライの心はすばらしいと思いつつも、
サムライには、なれないのだ。

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