21世紀を生きる智慧
自分に子どもができると、色々と視点が変わりますね。
人口増加に反対しているダライラマが、子どもについてどう考えているのだろう?
という問いを持ちながら、ページをめくってみた。
■知ったこと・思ったこと
・1994年時点では、ブータン国王軍とネパール人移民労働者で戦争が行われていたらしい。ブータンやネパールに興味のある自分としては、ちょっとびっくりだった。知らなかった。
・慈悲、つまり愛情は、損得抜きに、自然に生まれる愛情。
・目に見えないものを頭ごなしに否定するのは、自然科学のものの見方ではない。科学的なものの見方をするならば、わからないものは明確に否定できる根拠がなければ、「わからない」という態度をとる。その意味で、偏見に満ちた態度で「否定」する人たちの方がむしろ非科学的で無知なのだということができそうだと、思った。
・ダライラマは死刑制度に強く反対している。
・ダライラマは人口増加に危惧をいだき、出産制限に肯定的だ。
・仏教は、アートマンを認めていないし、西洋で言うような本質的な永遠である魂も認めていない。
・あとがきで、「人権」は一神教を基盤にする西洋のものと思われていたが、実に東洋、仏教思想の中から人権に関する考え方が出てきたところがおもしろいという内容が書かれていた。「感情の平等」によって人権を考えるところが、興味深いと。
■感じたこと
以下、ほとんどフランス人ジャーナリストが語った部分の引用だけれど、西洋人が仏教をどうみるのかがよくわかっておもしろい。
仏教に多かれ少なかれ関心を持つ者が驚かされるのは、行動の根拠そのものである慈悲が、西洋で言う感受性にまったく依存しないことである。思わず心を動かされ、自分の不幸や他人の悲惨に涙ぐむことは、たいして役に立たないというのである。仏教で言う慈悲は、一つ一つの具体例とは関係ない。それは、人間は世界の全体に所属しているというきわめて明確な感覚に発するのである。由緒ある仏典にも、仏教の慈悲には、原因も温かみも情念もなく、弱まることなく常住すると書かれている。
仏教が道徳や信仰ではなく、科学的であるといわれる理由の一部を語っているような気がする。
しばしば詩人が見事に表現するこのような定めのなさに抵抗するぺく、人間は保護と保存という二つの考えを発明したと仏教は言う。保護とはすなわち神である。弱い生きものである人間に安心を与える、偏在する全能の父なる神である。保存とはすなわち魂、束の間の生に慰めを与える糧としての、永遠に生き続ける魂である。
そう、仏教(あるいは科学といってもいい)は、この二つのどちらも受け入れていないのだ。別のところで、以下のような表現があるとおり。
仏教徒は、デカルト的考え、例のを受け入れられない。思考を出発点に存在を証明するなど、何の根拠もない。なぜなら、思考も存在も、変化する流れの、それぞれ一つの要素にすぎないからだ。
宇宙物理学者であるミシェル・カセは、「空虚の状態を知ることが、一貫性のある自然のモデルを構築するための必要条件になった」とまで言う。彼はこのような空虚を、「ある運命を持ち、充溢したもの」と捉え、「起源に関する言説の、宇宙的かつ論理的な頂点」に位置づける。著書の最後では、「空虚のなかにいるとは、自分本来の場所にいることだ」と言い切る。このような見方は仏教の教えとまったく矛盾しないだろう。
やはり、一神教と切り離せない西洋哲学的な科学の行き詰まりは、仏教が打開できそうな気がする。
心が生みだす現象が把握しがたいもう一つの理由は、今日では無意識と呼ばれる神秘的な領域が心の中にあることである。仏陀自身が、当初からこの驚くべき不可思議な領域を発見し、アムシャと名づけた。仏陀によれば、たとえば消化などの生理学的な働きが、知らないうちに身体のなかで行われるのと同じく、人間の思考も、知らないうちに心配ごとや執着を宿しているかもしれない。
口から毒をカラダに入れてしまえば、もうそれは無意識に、コントロールすることなく吸収されてしまう。情報もそうなのだ。無意識に、吸収されてしまうのだ・・・。
仏教では、セックスの実践に関して独自の規定があり、正しい行為と正しくない行為が区別されている(フェラチオや肛門性交やオナニーは後者である)。同性愛は、それ自体悪とは見なされないが、必然的に異常な行為を伴うのだから、結局は悪いことになる。なかには意外なきまりもある。たとえば娼婦との関係は、正しい行為だけを行うなら悪くない。
これは、おもしろい発見だ。理由を調べてみたくなった。
教えを説いた45年のあいだ、仏陀は絶えず自分に問いかけ、弟子にも注意を促し、自分の教えをより明確にし、自分の神格化を前もって防ぎ続けたのです。
続に日本で「宗教」と呼ばれるものとは大きな違い。仏教がそういうものであるということを理解している人はいるのかな…。