あかんぼぐらし

Dyas with the Baby
宝のときを楽しむ

最後に載っている、シュタイナーの
母の祈り 産前の祈り 産後の祈り 大人が唱える子どものための夕べの祈り
が、とても美しい。

●最重要マインドセット(絵本・情報の選び方)

・図書館や児童館では、自分のカードで好きな本を借りてよいことにしていました。家にある本でも、十回借りたことのある本でも、大人が眉をひそめるような本゛もいいのです。大人のカードは大人が好きに使います。子どもが「読んで」と持ってきた本は、一度は必ず気持ちよく読んでやります。好きだったら一緒に喜んで、その本を具体気にほめたたえ、場合によっは買います。好きでなかったら好きでないと言い、わかる範囲で理由を言ったり言わなかったりしますが、とにかく二回目以降は読みたくないことを伝えます。いずれにしろ、我慢しません。我慢して読んだとき、「おかあさんは僕のために我慢してくれる偉い人」ということは伝わるかもしれませんが、「絵本は我慢のいる楽しくないもの」ということも、しっかり伝わってしまいます。
・買う本は、大人が決めます。お金を払うことや、ものを所有して置き場所を案ずることは、大人の判断の下にあるからです。頂いた本をずっと家に置くかどうかも、大人が決めます。こういうことをしているうちに、子ども自身の絵本を見る目が磨かれて、「わあ、いいセンスだねえ」とうれしくなるような絵本を、見つけてきてくれるようになります。「子どもの選択を尊重する」のは、将来大事になってくることがらでしょうが、その前段階として、選び方を教える仕事があります。そこははしょらず、各論で教えます。
・「子どもが気に入る」ということを優先して、「アイスクリーム絵本」ばかりを選ぶのは、結局は不親切だと思います。心の栄養となる絵本を与えることによって、審美眼が育ちます。
・幼いときに親が何も教えなければ、子どもは「お友達が持ってる」とか「テレビで見た」のように、情報社会が教育してくれるまま、つまり「儲かる本がいい本」「新しい本がいい本」「話題の本がいい本」という、経済の仕組みからくる価値観そのままの選択をしてみせてくれるでしょう。親の教育力より数倍強いそれは、コマーシャルの受け手としの必然的結果というだけですから、「子どものセンスと、私のセンスが対立してしまった。どうしよう」と悩む必要はないと思います。ただ、「子どもはこういう環境のなかに居るんだな」と知り、子どもの暮らしを見直して、家庭では何を選んで与えたいかを考えるきっかけとすればいいと思います。
・我々大人は、子どもより何十年か長く生きたことで、少しは学び、賢くなったと思いたいです。そのことに根ざす判断を、暴力や脅しで押しつけるのは醜いですが、まじめに、まっすぐに子どもに伝えるのは、大人に課された仕事です。大人の保護下にある子どもは、大人と喧嘩していればすみますが、やがてうるさいことを言ってくれる親から離れて、自分の判断で生きるようになります。その時までに、子ども自身が、次゛糞にとってよい道を選べる能力をつけてやるのが、大人の仕事です。子どもが気に入るからといって好きにさせるのは、大人が自分の仕事を投げ出して、責任を取らないでいることだと思います。大人としての自分の感じ方を信じて、「ちょっとこれは、私の気持ちにしっくりこない」と思ったところで、少し立ち止まって考えたら、きっとよい答えが得られると思います。まず、考える勇気と静けさを持ちたいです。
・『おもちゃが育てる空想の翼』の中に、武器のおもちゃが必要なのは、武器で心に傷を負った子どもだけというところがありました。「戦禍にまきこまれた地域で育った子どもだけが、その恐ろしい経験から抜け出すために戦争ごっこをする必要があるのです。平和な環境で育った子どもたちが、どうしお互いに争いをしかける必要があるというのでしょう。

自由と放任の違い ということは、
情報との接し方においても、あてはまるということ。
ほとんどの親が、現代のこの劣悪・有害な情報環境から
子どもを守ることを放棄している。

●テレビについて

・ニッセは想像力が豊かなわけではない。自分の頭を使った独創的な活動は、何もしていない。テレビを含むまわりからの刺激が強すぎて、さまざまな印象が頭のなかで踊り狂っている。それを自分では、どうすることもできない。身を守る唯一の方法は、幻影を自覚し、言葉で表現することだ。だからひっきりなしにたわごとをしゃべり続けている。私はこういう子のことを、まさに「想像力が豊かなのね」でおしまいにしていました。しかしなるほど、彼の頭のなかで、テレビの残像がおばけのように脈略なく、歯痛のようにちりちりと、出没し続けている情景を思い浮かべてみると、怖いものです。それを誰かに、相手が聞いていようがいまいがおかまいなく、次々しゃべらずにはいられない必然性が、わかる気がしました。
・テレビの強烈な残像がふり払えなくて、ひっきりなしにしゃべりまくるのも、皮膚がいろんな模様にのっとられしまうのも、同じことだと思います。子どもにとってはそれが、とりあえず身を守る方法なのに、大人は「そのおちつきのないしゃべり方をやめなさい」とか「そのストライプを消しなさい」と、言ってしまいます。病根を無視して対症療法に走って、ますます病を重くします。
・テレビを見ている子どもを外から見たら、身動きもせずおぎょうぎよく座って、長いこと静かにして、集中力抜群のように見えます。しかしなぜ身動きしないかと言えば、目の筋肉を不自然に使っているから「動けない」のです。
・また、テレビはめまぐるしく場面の変わる、高速紙芝居のようなもので、「パッ」「パッ」「パッ」「パッ」と、常に絵を取りかえてよこします。「一つの絵を、納得行くまでじっくり見たい」という、自然な欲求をみたせないまま、ちょうどいいタイミングですばやく絵を取りかえられるので、「どうしても目が離せない」状態に追いこまれて、結果的に長時間、見ずにはいられません。「集中しているように見えて、その実、頭のなかは錯乱状態」になっています。
・身体は不当に運動を封じられ、頭のなかは錯乱状態にさせられて、子どもがなんともなかったら、それこそ心配しなくはならないでしょう。テレビを見た後に、子どもが乱暴になったり、キーッと叫んだり、たわごとをしゃべりまくったり、身体にストライプを浮き立たせたりしてくれる間に、私たち大人は子どもの悲鳴を聞き取って、手を打つ必要があります。
・生きた本物で、かけがえのないこの子のなかに、実生活とのバランスが崩れるほどの虚像を次々送り込む行為は、大きな暴力だと思います。

テレビによる麻薬てきな刺激剤を与えておいて、
その興奮をどうにしろという、矛盾した命令を言い放つ親が多い。
ほとんどの親は、自分の子に麻薬を与えているという事実に、
気づいていない。

●あかんぼが求めるもの

・伴奏するときの集中力は、演奏者の音に耳を傾けながら、細心の注意を払って自分の音を奏で、調和しようとすることです。あかんぼぐらしに必要なのは、伴奏をつけるときのような、かろやかな集中力です。あかんぼは、母親がすべての仕事を断って、両手を膝に置いて、自分だけに100パーセント注意力を集中してくれることを望んではいません。そんなことをされたら怖いでしょうし、あかんぼはまだ、独奏はできません。
・あかんぼに必要な人間は、睡眠や食事を必要なだけ取って、料理、洗濯、掃除など、家族みんなの暮らしに必要なことをしながら、あかんぼのそばにいてくれる人です。
・「P子の行動をできるだけ阻止しないよう、見てはいても、ぎりぎりまで取り上げたりやめさせたりしないよう心がけている。」

●くっつき時間貯金・負債

・早く楽になるコツは、暇さえあれば文字通り、あかんぼを肌身離さず、自分の身体にくっつけていることです。「くっつき時間」の累計を、貯金のようにせっせと貯めます。泣かせると、定期預金が崩れて、「融資の利息」までかかる気がするので、ちょっと泣いたら、さっと抱きます。たったそれだけのことで満足してくれるのは、驚きです。ごきげんくっつき時間の預金額が、ある一定のラインに達すると、子どものなが「安定」が確実なものになり、強くなっ私を必要としなくなるので、こちらはがぜん楽になります。
・それに、「くっつき時間」によって、すっかり心が通じ合っているので、叱らなくてもちょっと顔をしかめ「ブーだ!」ぐらいのことを言えば、こちらの言いたいことが伝わる(むしろことばでごちゃごちゃ言っても伝わらない)ので、省エネできて大変楽です。
・「泣くのが仕事」は、泣いているのにどう対応してもだめで、正解がわからなく身も世もなくせつながっている新米おかあさんを慰める指導者の言葉゛あって、親自身が「いいのよ、あれが仕事なんだから」と知らんぷりし抱き上げてもやらないことを、正当化するためのものではないと思います。
・あかんぼがいっしょうけんめい泣いているのに何もしもらえなかったら、そばにいる大人が自分と同じく「気持ち」なんいうものを持っていることに気づかずに過ぎるの゛はないでしょうか。

この二つの項は、合わせて読まなければならない。
前提として、くっつき時間が十分にある子においては、100パーセントの注意は必要ない。
でも、その前提となる信頼関係がない段階では、
100パーセントの注意力が必要になるシチュエーションもたくさんある。
ここを読み違えると、子どもは自己重要感を下げることになるから、注意。

●母親が自分の時間をつくることの本当の意味

・純然たる「自分の時間」の作り方は、子どもを人に預けることでしょう。完全に子どもと離れて「ぶっとーしで半日寝る」のは、大変前向きで、科学的な解決策だと思います。子どもを預けてでも、実行する価値はあるでしょう。
・他にもシクシクと痛かった歯を治すとか、うっとうしかった髪を切るとか、マッサージで全身をほぐすといった方法で自分の身体をいたわるのは、あまり先のばしにしはいけない、大事な仕事だと思います。いわば、あかんぼを持つことによっかかった負荷を、早めにゼロの状態まで持っていって、働きやすい身体と頭を取り戻すわけです。
・けれどもそれ以上のことはどうでしょう。マイナスを埋めるための大きなプラス(発散)を持ってきたら、心の空白が埋まるというのは、どうも錯覚ではないかと思います。あかんぼを置いて、派手な遊びに出かけて疲れて帰ってきたら、飢餓感はよけいに深まっているのではないでしょうか。それがこうじると、「この子さえいなかったら、もっと遊べたのに」と、わが子をじゃまもの扱いにするような気持ちを、みずから育ててしまうと思います。
・出産後は、「子どもさえいなかったら味わえたはずの楽しみ」を、自分にとっての流行遅れの範疇に整理し、「子どもがいるからこそ味わえる楽しみ」に対する感度の高いアンテナをはりめぐらし、そちらの方のエキスパートになる方が、楽しいと思います。元来、どちらにも同じぐらいの深みと楽しみがあるはずですが、前者だけが喧伝されるのは、それによって誰かが儲かるからでしょう。後者はもうからないので、お世話してくれる人がいませんが、いらないお世話を受けずに、自分で見つけてゆく楽しみがあります。
・根底にある「育児中の母親がしたいこと」の大前提が、私とは違うなあと思いました。ここにある暗黙の了解はこうです。母親は勉強したい。親と子を離さなくては勉強できない。子どもはうるさい。親は育児疲れで、一瞬でも子どもと離れたがっている。子どもから離れ勉強兼息抜きをすれば、リフレッシュできて、次の時間をよりよく乗り切ることができる。私は、乳幼児学級の勉強のプログラムはおもしろそうだと思いましたが、その先は違いました。子どもは私と一緒にいるかぎり、安心し落ち着いているから、人に迷惑をかけるほどうるさいことはしない。小さな声で「○○だねー」ぐらいは言うと思うが、それを許しもらえるならだいじょうぶな自信がある。私から引き離された子どもは、最初から最後まで泣き続けるか、泣きもしないで我慢しつづけるかのどちらかだろう。そこまでしなくも、私は本から勉強できる。子どもと離れるのはつらいし、ここまでせっかく築いてきた子どもの心の穏やかさを崩したら、そのあと再建するのに時間もエネルギーもたくさん必要になる。そう思って、そこには行きませんでした。

ただし、現代社会ではどうも、「○○だねー」という相槌を言うぐらいの声すら許さないという、
子どもに優しくない環境、子どもに無理解な大人が増えているのではないかと、思う。
私もとても幼いころ、母に連れられてカルチャーセンターに行ったりした記憶があるが、
おそらく、そんなにうるさくしていなかったはず。(だから一緒にいられた)
子どもがうるさくするのは、愛情が満たされていない、心の安定を欠く何らかの問題の存在を意味している。
現代では、安定している子の方が少なくなってしまったのだろうか。
そのことと、度がすぎるほどの(子どもを預けての)発散を求める親の心理状態は、
関係があるような気がする。

●親の気持ち

・わが子よ、私がおまえに色の付いた玩具を持って来てやる時、雲や水にあのような色の戯れがあるわけが、また花が色とりどりに染められているわけが、私にはわかる―わが子よ、私がおまえに色の付いた玩具をやる時に。
私が歌って、おまえを躍らせる時、木の葉の中に音楽があるわけが、また、波がさまざまな声の合唱を送って、耳を傾けている大地の心臓に届けるわけが、私には本当にわかる―私が歌って、おまえを躍らせるときに。
私が甘いものを、おまえの物欲しがる手に持って来てやる時、花の萼(うてな)に蜜のあるわけが、また、果物に甘い汁が密かに満たされているわけが、私にはわかる―私が甘いものを、おまえの物欲しがる手に持って来てやる時に。
いとしい子よ、私がおまえの顔にキスして、おまえをにっこりさせる時、朝の光を浴びて空から流れて来る快楽がどんなものか、また、夏の微風が私のからだに運んで来てくれる歓喜がどんなものか、私にははっきりとわかる―私がおまえにキスして、おまえをにっこりさせる時に。(タゴール詩集 『ギータンジャリ』 渡辺照宏訳 岩波文庫)
・言葉以外のものを敏感に感じ取る力において、あかんぼは宇宙人かエスパー(超能力者)のようなものです。「ツライ!」という気持ちは、どうやったって隠せないのかも知れません。けれども、「つらさを隠せるものなら隠したい。あなたを悲しませたくないから」というい優しい気持ちも、きっと同等に伝わっていたに違いないと思いました。

この詩 とても美しい。

●しつけ

・乗り物のなかであかんぼが泣いて、迷惑かけたと思って困ってるおかあさんに、「大丈夫、泣き声だってかわいいもんです」と言うぞ!と思います。
・しつけは規則やおぎょうぎを、「あくまで守れ」とたたきこむこどはないと思います。今の自分をここちよくさせ、かつ将来も健康でいられる接点、自分のここちよさと人のここちよさがちょうど丸くおさまる接点を、そのつど自分で見つけられるようにしやることだと思っています。子どもにはおぎょうぎよくしてほしいけれど、将来隣人に寛容になれる人゛もあってほしいので、私もたまには身をもって、子どもに寛容さを示したいと思っています。
・一般的に正しいとは言えないようなふるまいが、愛情深さによって、子どもに輝かしいものを残す(ことがある)ならば、逆にどんなに正しいしつけをしていても、その背後にある親の気持ちが、欲深な身勝手などの計算高いものであったとき、子どもにとってそれが悪いほうに作用することがあるでしょう。我々がもっとも気をつけねばならないのは、子どもの表面に現れたお行儀よりも、我々のふるまいの根っこにある気持ちの清らかさかも知れません。

マナーとは何か。
そのことを親が理解していないと、(子は親を真似するから)
静かに席を立たずに食べるけど、店員にはとても失礼で高慢な態度をとって平然としている
なんて子どもが量産されてしまうことになる。
この部分の松井さんの言葉は、本質的なところをおさえているなぁと思う。

●虐待について

・子どもの寝顔に向かって泣いて謝っていることが、たたくことの言い訳にはなりません。「ぶってもなでたらもと通り」は嘘だと思います。そういう人は、瞬間接着剤で補修した壺を売りつけられても、文句言えないと思います。
・「ぶつ」を「くすぐる」に変える。
・以前、ジャイアント馬場(? それともアントニオ猪木?)が、町で酔漢に殴られたとき、無抵抗を通したのでケガをしたというニュースを、新聞の三面記事で読みました。そうかー、自分の本当の強さを知っている人は、鍛えていない一般のヨッパライなんかに、決して「正当防衛」だのなんの゛、力をふるったりしないんだ。かっこいいなあーと、プロレスなんか全然わからない私は思いました。いい大人にとって、あかんぼのわがままなど、どうころんでもへなちょこの小さな迷惑にすぎません。たまにちょっと痛い目にあっても「ほっほう、なかなかあっぱれなことするじゃないか」と、うれしそうに笑いながら自分のケガをさすっている、そういう大人に私はなりたい。

このプロレスラーのたとえは、とてもわかりやすい。
でも現実には、まだ守られるべき存在である小さな子どもに対して、
脅す・大声で怒鳴る・脅迫する…
そんな最低で卑劣で卑怯な光景をあちこちで目にする。
少なくとも私はそうはなりたくない。

●夫にできること

・他人にはうかがい知れない、治療的な夫婦の励ましこそ、「せっくす」でしょう。疲れている妻をそっと寝かせておくのも、寄り添って寝るのも、夜泣きのあかんぼを交代であやすのも。夫の役割は「妻を十分に愛すること」で、父親の役割は「子どもを十分に愛すること」だと思います。週刊誌によくある「妻は女でない」「釣った魚に餌はやらない」といった、露悪的でちょっと面白い説にホイホイ乗らないで、今いる場所にしっかり踏みとどまって、妻と子どもをたっぷり愛する力のある人ならば、たとえ家事にまったく無能でも、素敵な夫ではないでしょうか。
・子どもは両親が仲よくしているのを見て、自分が生まれてきたおおもとが、一番身近な二人の大人たちの、互いをいとおしむ気持ちのなかにあることを知り、自分の存在価値を知ると思います。両親が互いを「古いから、ときめかないから」つまらないものだと、気持ちの上で捨ててしまっているのに、制度上の必要から相手にしがみつきつつ、「新しくて、ときめく」別人を求めて心ここにあらずのとき、子どもの気持ちはずたずたになるでしょう。「一夫一婦制は束縛ではなく、恵みである」
・結婚を温存しつつ不倫もしなくちゃ損という風潮や、不倫による心理的子棄てには同調できなくて、この項を書きました。
・考えみるに、ひと月働いてやっともらった給料袋を、そのまま伴侶に渡すなんて、「妻子にお仕えする」以外のなにものでもありません。

セックスレスの問題は、根が深い。
愛情があれば性欲が出るというわけではないので、このあたりは、女性が思うほど簡単ではない。
男性が浮気をしないように努力するだけでは片手落ち。
女性の側に、性的魅力を維持するという努力がなければならないと、思う。

●妊娠とお産について

・だれそれが悪いからお産がおかしくなったというのであれば、悪者をやっつければ解決できるから簡単です。しかし現実には、「お産は病院まかせ。うまく行ってあたりまえ。何かあったら責任取ってもらおう」という我々が、「何かある前に介入ししまおう」という医療機関を作り出した、つまりみんなで作った不自然なお産だというこどす。なるほど、お産に限らず多くの問題が、そういうしくみができあがっいると思いました。
・「妊娠中、お産のとき、お産後はとても感受性の高い時期です。この時期に、こころと身体を大切にされた人、大事にされた人、守られた人は、生まれてきた赤ちゃん、彼女が守るべき小さい人を大切にすることができるようです。産む人が大切にされることが、赤ちゃんをかわいがる力のみなもとになるように思います。産む人が赤ちゃんをかわいがる力をいっぱいつけるために私たちにできることは、産む人をめいっぱい大切にすることです」大野明子『分娩台よ、さようなら』より

確かに、「金払ってるんだから当たり前だろ」的な顧客は多そうだ。
売り手と買い手は対等であるべきだとは、思う。
でも。でもやはり、「先生」と呼ばれる人に傲慢な人が多いのも、事実。
患者が自分で学ぶ努力をするとともに、医療機関側の謙虚な姿勢も大切だと思う。

●母子に対する社会の目

・少子化が本当に嫌なら自分たちで産めばいいのに、「もうトシだから」などと言う。そんな人たちに、指図がましいこと言われたくないだろうなあと思いました。我々が発言するべきだったのは、「大変なこともあるけど、それを上回る素敵なことがたくさんあるよ。私は子育てさせてもらってうれしかった」だと思います。
・ほめられたからうれしいというよりは、関心を持ってもらうことがうれしいんだなとわかります。あかんぼは、ときに大人の世界に大迷惑な存在であることは確かです。でも何も悪いことしていない。静かで安らかにしいるあかんぼに、そう敵意むき出しや、あからさまな知らんぷりをする必要があるのかなあと思います。あかんぼの方には「あいそをふりまく」用意があるのに、いい大人が先回りしガードを固めて、みっともなく守ろうとしいるその偉さに限って、チャチなものに決まっています。本当に立派な人、もっとおおらかなはずだと思います。
・いつの間に「露悪的なぶちまけ意見を言えば勝ち」ということになったのでしょう。彼らは「私は自由だから、思ったことを何でも言える」と言いたげですが、「露悪的な方がかっこいい」という理由で、ワルそうなスタイルを選ばさせるをえない不自由に、気付いていないだけではないかと思います。

結婚は人生の墓場 にはじまる「結婚はつらい説」も、
出産の大変さを煽る風潮も、全て同じ。
どうすればいいのか。答えは簡単で、
みんながメディアを捨ててしまえばいいのに、と思う。

●その他

・二十歳も過ぎたら、人生自分の責任。親のせいにして責任逃れするには、やや老けすぎではないでしょうか(病的な虐待やネグレクト、性的虐待等をのぞく)。親も人間ですから、まちがったことの百や千はしたでしょう。でも我々はきっと、親の愛情深かったところの、万や十万はもらいながら、大きくなったはずです。一緒に暮らしていれば、嫌なことも目につくのが当たり前で、お互いさまです。自分も親として、バカとリコウのミックスなのですから。そこを忘れて、我も我もと自分の親の過去の愚かさを競うようにあげつらうことに、意味があるとは思えません。

個人的に私の周囲を見回してみると、
何歳になっても親の批判をしている美しくない発言をする人は、
子どもをもったことがない人に多い気がする。
子どもを育ててみれば、親の気持ちがわかるから、
感謝する気持ちこそ出ても、
うらみつらみを言う気はおきなくなるのが、自然。

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