脱・奴隷の生き方
あなたの脳は知らぬ間に毒されている
脳機能学者が教える「だまされない生き方」
電通本をもう少しゆるやかにして、範囲を広げたような感じ。
確かにテレビなんか見てる暇があったらこの本を読むべき。
ディスカバリー・チャンネルみたいな有料のものにはいいものがあるけど、
地上波なんてゴミばっかり。
結局、無料のものほど高いものはないということ。
それにしても、サイゾーのオーナーが
苫米地さんだとは知らなかった。
●テレビの危険性
・小説で100万部は大ベストセラーですが、映画やドラマ、アニメなどの大ヒット作品は、1000万単位の人が目にします。テレビの場合、1パーセントの視聴率でも120万人ですから、そもそも小説のような書籍とは桁が違うわけです。これらの映像メディアが膨大な視聴者を生み出しやすいのは、とりもなおさず、それが「視覚情報」だからです。視覚情報は文字情報にくらべて、一瞬で圧倒的なリアリティを感じさせることができるため、猛烈なスピードで広がっていくことが可能となります。
・脳に撮ってみれば、同じ情報が入力されるならば、物理的に目の前にあるものなのか、地球の裏側にあるものを映像で見ているかには、なんの差も存在しません。あるのは臨場感の強さの差だけです。目の前のものを見たほうが臨場感が高いと感じるのは、映像よりも眼球で見たほうが解像度が高く、音やにおい、空気の流れといった情報も同時に得ることができるからです。
攻殻機動隊で描かれるような時代になるのももう少しだろうな。
洗脳が今よりもさらに直接的に行われるようになる世界が、怖い。
その前に人々や政治がよくならなくては。
●ジャーナリストの本当の役割
・国民に不利益をもたらしているシステムの欠陥や問題点を知らしめるのがジャーナリストの役割だと私は思うのですが、なぜか記者たちは、問題の原因をシステムのせいではなく、個人の問題に還元しようとしがちです。問題にすべきなのは、個人の前にシステムのはずです。もちろん、システムの上で不正に甘い汁を吸っている役人がいたならば、個人の責任が追及されるのは当然ですが、それは本来、警察や検察の仕事です。メディアのやるべきことは、それを許したシステムそのものを徹底的に正していくことです。
・メディアの仕事は、システムの裏側に隠れている悪を引っ張りだし、国民の目にさらすことです。何が不祥事があると記者会見が行われ、お詫びしている人を記者が叩いている様子をよく目にしますが、誤っている人をさらにいじめてなんになるのでしょう。
・日本人が外国に興味がないというなら、それはTV局の社員が海外に関して無知だからにほかなりません。沖縄で起きたことには興味があるのに、韓国で起きたことには興味がないというのは、おかしな話です。物理的距離というより、国家という枠組みで物事を考えてしまうクセがついてしまったせいでしょう。私たちにとってどの情報が重要なのかを考慮すれば、北海道のニュースよりも、ニューヨークのニュースのほうがはるかに意味が大きいことはありうるはずです。
・いまの日本のキー局が放送するもののなかに、大人かが見る価値のある番組はほとんどないと私は思います。私が勧めるのは、衛星放送の「ディスカバリー・チャンネル」です。
広告番組に成り下がっているバラエティはともかく、
報道ですら、ジャーナリストがプロとしての仕事をしていないわけだから、
ほんとうにもう、地上波でみるべき番組はほとんどなくなってきた。
●政治の実体
・古くは卑弥呼の時代から、日本では平民・一般庶民が権力を握ったことは一度もありません。日本を支配してきた人々は、いまもなお自分たちの既得権益を死守するためにあらゆる努力を惜しみません。
・民主党にも実は豪族の子息などがたくさんいますが、自民党にくらべれば平民出身の議員が多い。民主党が与党になることで、日本の歴史ではじめて平民が政権を取る可能性があるものと私は信じているのです。
・堀江氏はその日本の支配層に正面から楯突いたからこそ、徹底的に潰されたのだと私は考えます。
・日本の場合、生まれついての金持ちが政治を独占しています。エスタブリッシュメントのお金持ちしか政界には入れない構造になっているのです。このところの歴代首相をふりかえっても、結局は三代、四代続く政治家一家です。私が以前から「薩長勢力」と呼んで批判している人々しか事実上、政治の世界には入れないのです。
・皮肉にも、日本は第二次世界大戦で完膚なきまでに敗北したことで、世界でもまれな平和憲法をもつことができました。当時のアメリカの法学者たちが、自分たちの国でつくれなかった理想の憲法を投影したのが、日本国憲法なのです。
この国の憲法をかえようという動きがある。
いったい何を意図して、政治家は憲法改正をしたいのだろうか。
自滅したいのでなければその理由をもう少し知りたい。
●自己評価の概念
・じつはウッズの父親は、アメリカ陸軍の特殊部隊、グリーン・ベレーの隊員でした。父親は自分が叩き込まれた「自己イメージをいかにつくりあげるか」について、その考え方をそのまま息子の教育に応用しました。タイガー・ウッズは、まさにグリーン・ベレー教育の賜物ともいえる存在なのです。
・犯罪者の多くに共通するのが「自己評価の低さ」です。そして多くの場合、その自己評価の低さは、子どものときに、親や周りの大人に植えつけられたまま歳を重ねてきたものなのです。「自分をこんな目にあわせた社会に復讐してやりたい」という自暴自棄な犯罪へとつながっていくのです。
・ルー・タイス・メソッドの考え方の中心には、「自己評価の肯定」があります。私たちは「自己評価」の概念を2つに分けて、それぞれ「エフィカシー」 (efficacy)と「セルフエスティーム」(self-esteem)という言葉で呼んでいます。「自分の能力」という意味あいが強いのがエフィカシーです。
・エフィカシーとは、「自分の能力に対する自己評価」という意味です。どんなことでも努力をともなう物事に取り組む前には、「自分にはそれがやれる」との確信がどれくらいあるかが重要。その自信があるかどうかが、目的達成の可否を左右します。
・それに対して「自分の地位やポジションに対する自己評価」がセルフエスティームです。「自尊心」といいかえてもいいのですが、「外部から見たときに、自分は一人の人間として尊重される存在である」という感覚が該当します。2つの単語に分けていますが、どちらも同じくらいのバランスで保持しているのが重要です。
・この2つの自己評価をいかに高く維持するか、そして高い自己評価をもつ「現在の自分」に満足せずに、さらに「未来のより成長した自分」をいかにリアルに感じてセルフイメージをつくりあげていくか。それこそがルー・タイスと私が構想する「PX2」「TPIE」の核心になります。
・自分以外のだれもがドリームキラーになりえます。ですから、幼い子どもに対して「君にはできない」「おまえにはムリ」といったネガティブな言葉を浴びせつづけては絶対にいけません。子ども自身が「自分には能力があるんだ」「自分にはすごい可能性がある」と思えるよう見守ってあげることが大切なのです。
エフィカシーとエスティーム 明確に定義して説明されたのはじめてだ。
そのへんの成功哲学ではなんとなくボヤッと書かれて、
それを皆が焼きなおしている感じでけど、それとは一線を画す感じ。
脳機能学者だけあって、さすが。
●ホメオスタシスとコンフォートゾーンを操作
・人類は、大脳の前頭前野の進化によって、ホメオスタシスが、現実の世界のみならすら抽象の空間にまで広がっています。人間にとって環境とは、温度が高い低いといった物理環境だけではなく、「所得の安定」とか「学校の成績の順位」といった情報空間の次元にも及んでいるのです。
・どこにコンフォートゾーンを移動させるかを明確にしなければならない。そこでまずは、自分の行きたいコンフォートゾーンを見つける必要が出てきます。
・自分が現状に満足しているとしたら、危ないと思ったほうがいい。満足していればいるほど危険です。自分への不満こそ、よい傾向なのです。それは、自分が「現状のままではいけない」とのセルフイメージをもっている証だからです。
・人間は、自分にとっての重要性を基準にして世界を分類し、重要度が高いものしか見えないようにできているのです。自分の安住するコンフォートゾーンから外れたところにあるものは、重要度が低いために見えなくなっている。コンフォートゾーンをズラす意味はそこにあります。コンフォートゾーンをズラすことで、いままで見えなかったスコトーマを見ることが可能になるのです。
・人はコンフォートゾーンにいるときは、悲しがったり怒ったりはしません。リラックスして、気持ちがなくとなくウキウキしている状態です。もしあなたが、ふだんから気持ちが沈みがちだったり、怒りっぽい傾向があるのなら、自分がコンフォートゾーンにいないのが原因である可能性が高いといえます。
・馬の鼻先にニンジンをぶら下げるのは効果的ですが、口の中にニンジンを押し込んでしまっては意味がありません。巷によくある自己啓発本には、まさに「ニンジンを口に押し込んだイメージをしなさい」と説く本が多いのです。それはお腹が空いている人に対して、「自分は満腹だ」と思い込めというのと同じです。それを信じてしまっては、ほんとうは空腹なのに、食べる意欲を失ってしまうことになるのです。大切なのは、自分が空腹であること、つまり現状に満足していないのを認識することなのです。
・注意すべきなのは、会社社員が社長になりたいというのは、ゴールにはならないということ。なぜなら、それは理想的な現状にすぎないからで、かえって現状のコンフォートゾーンに自分わ縛ってしまいます。ゴールは現状の外側になくてはなりません。ですから、学生やフリーターが企業の社長をめざすなら、そのゴールは有効です。未来のイメージをリアルに思い浮かべるのはよいことですが、現在の自己イメージは客観的でなくてはいけません。「ほんとうの自分はこんなにすごいはずなのに、いまはなぜかこういう状態にある。それを正さなければならない」と無意識が認識すればいいのです。
・大前提として、コンフォートゾーンは他人に選ばせるのではなく、自分で選ぶことです。つねにそのことを念頭に置いておくと、人生が少しずつ自分のものになっていきます。
つまり、脳を錯覚させて「叶った状態」をイメージするというのは、
コンフォートゾーンをずらして「当たり前」の感覚とスコトーマの問題を解決するのが目的なのであって、
満足させて意欲を失ってしまったら、意味がないということ。
やはりここも、背景と意味を知って行うのと、
適当な成功哲学を鵜呑みにして動くのでは大違いだな。
結果で出ている人はこれを自然にやり、でいない人はたぶんここがわかってない。
●ルールとマナー
・フランス料理を出された瞬間に、なぜナイフとフォークで食べなければいけないのか。そうしなければいけない根拠があるのでしょうか。それとも、フランス料理は銀の食器で食べたほうがおいしいのでしょうか。「いや、おいしい」と断言できる人は、それでいい。自分なりの考えをもって、フランス料理にはナイフとフォークなのだとみずから選び取っているならば、そこに「支配の論理」は隠れていません。実際は木の箸で食べたほうが使い勝手もよくおいしいのに、そんなことはつゆほども考えず、「郷に入れば郷に従え」を思考停止のまま実践してしまう。これこそが「奴隷の思想」なのです。
・…それを見たエドワードは、恥をかかせないために自分もフィンガーボウルの水を飲んだといいます。これこそが本物のマナーです。マナーとは相手を慮ることなのです。本来ならば、フランス料理を日本にもってきた最初の料理人が、日本人を慮って最初から箸を使って食べてもらえばよかったのですが、彼らにとっては日本人を気づかうことよりも、フランスの宮廷文化を世界に広めることのほうが大切だったのでしょう。
・ルールとマナーは根本的に違います。ルールは、それに違反をするとお互いが被害を被ることになるので、話し合いによって事前に枠組みを決めておきましょうと、民主的につくられるものです。その代表が法律です。しかしマナーは、だれから強要されるものでもない自主規制です。マナーにやたらとうるさい人がいますが、その人は他人を「差別」する道具としてマナーを使っていないでしょうか。「あんな食べ方は品がない」「あんな格好は非常識だ」などと、自分の価値観を他人に押しつけて見下す材料に使われていないでしょうか。
確かにこれは、言われてみればそのとおりで。
マナーを積極的に学ぶというのは、相手のためを思ってならばいいのだけど、
そうでないとすると、それは単に西洋に対する劣等感なのだろう。
ここは日本なのだから、日本風になってよいはず。
●その他
・相手を怒らせるにはどうすればいいか。それがディベートのテクニックとしてもあるほどポピュラーな方法です。日本はディーベート文化の国ではないので、議論で相手を怒らせると喧嘩になってしまうのですが、アメリカでは相手を怒らせるのは、交渉においてよくあることなのです。
怒らせるのがテクニックだったとか。
自分がそのテクニックを使うかどうかは別として、
外国人と働くことが増えてきたわけだから、
このあたりはしっかり知っておいてよかった。