0歳からはじまる子育てノート

エリクソンからの贈りもの

子どもの「遊び」について、「社会性」について、
「年上の子との接点の重要性」について
…様々な気づきが得られた。


●叱り方

・見守る側としては、黙ってみてさえいればよいというのではなくて、やっぱり注意したり、適度に叱らなくてはいけない。ただ、そのときは、すぐ忘れるような叱り方をするのがいいわけです。子どもの心にグサッとくるような、次の行動をオドオドしながらしかできなくしてしまうような叱り方はいけません。もっと別の言葉でいえば、自尊心を傷つける叱り方というのがいけないのです。子どものプライドを傷つけるような叱り方はできるだけしてはなりません。

ここ、この本の中で自分が得たことの中で、最重要ポイント。
叱るということについては、常にずっと考え続けている。
お化けで脅すような卑怯なまねはしたくないので、それは避けてきたけど、
考えてみたら、そう、お化け以外の叱り方も同じなんだ。
脅迫的に怒るのではなく、カラッとしたさっぱりした叱り方。
●胎児への影響

・たとえば上の子が一日だけ行方不明になったというような事例は、ショックの度合は強烈ですが、あまり影響はないらしいことがわかっています。また、夫が山で遭難したかもしれないとか、事故の飛行機に乗っていたのではないかというような、つまり短期のものすごい不安、そんな不安に妊娠中に襲われたお母さんの子に、明らかに問題を残しているという例は発見されていないことがわかりました。一方、家業が倒産するかもしれない、夫が失職するかもしれない、夫に別の女性ができたらしいといった、長期的に毎日続く不安、しかも自分の力では解決のしようがない性質の不安、そういうことがどうもいけないらしいのです。一週間やそこらの短期間で終わる不安は、相当強烈なものでも、後遺症状を残したという証明はいまのところ出ておりません。
・胎児はロックが嫌いです。それからベートーベンも。嫌いということは、お母さんが不安や恐怖を感じたときに近い反応を、手足の動きとか表情とかの反応を、ベートーベンやロックの音楽には示すのだそうです。

当時の研究では、一時的な感情的なショックはあまり影響がない、という話になっている。
確かに、潜在意識や思考パターンの方が影響力が大きいというのは、うなずける。
●子どもらしさと「絶対依存」の重要性

・保育園の子どものほうが小学生になって、社会的な自立が遅いのです。普通、保育園の子どものほうが自立性があると思われがちでしょう。幼稚園は園で過ごす時間が少なく、また自分であれこれしなさいといわれることも少ない。保育園では自分でやりなさいと、わりあい早い時期から、生活行動をあれこれ指導されます。いろいろなことが早くから自分でできるというとは、それだけ自立ができていることかというと、決してそうではありません。子どもの成熟や発達には、このようにして依存から自立へというプロセスが、どうしても必要です。
・絶対依存の時期 自分の欲求が100%に近い状態で充足されるような育児や保育をされた赤ちゃんは、いちばん自立への歩みがしっかりして早いでしょう。この時期の子どもは無力だから、まわりの人に依存し、いいろなことをしてもらい、生活をしなくてはいけない。そういう状態のときに、自分の欲求がすべてかなえられたら、まわりの世界に対する信頼はひじように強いものになります。その信頼の強さが、子どもをしっかりした自立へと導いていくのです。
・子どもというのは、周囲に対する信頼感を基盤に自立していきます。周囲に対する信頼感なしには、自立ができないのです。無力な子どもは自分では何もできない。だから、誰かにやってもらわなければいけない。ところが自分の期待や欲求は、まわりの人はそう簡単にかなえてくれない。自分でできないにもかかわらず、誰もやってくれない。もし仮に泣いて訴えても、わめいて要求しても、自分の欲求を満たしてくれる人がいない。そういう初期体験によって、周囲に対する不信感が生じてきます。同時に、あれこれ要求してもだめなものはだめだ、という一種の無力感が育ってきます。決して忍耐強くなどなりませんし、それどころか、自分に対する無力感を体験することになるのです。周囲に対する不信感、イコール、自分に対する無力感。
・お客様が来たら、ひとりで出てきてきちんと挨拶をする、という幼児がいたら、これも普通ではないですよ。「この子はいちいち言わないと、挨拶もできないのですよ」と親は嘆いていますが、これが健康な状態です。親のお客さんに挨拶したい、などという子どもは普通おりません。いるはずがありません。大きくなってから身につけるべきことを、小さいときからできるようになっていると、それがひじょうにいい子だと間違えてしまう。小さいときには小さい時期のありようというものがあるわけで、そこをちゃんと見ておかなければなりません。

他の子と比べたり、理解のない親戚の目を気にしたりで、
子どもをむりやり「形だけの自立」に追い込むなんて、絶対にしたくない。
でもそういう人が、大部分なのかも知れない。
子どもは、子どもらしくていい。
甘えと反抗を繰り返しながら、依存→自立→相互依存のプロセスを進む。
●奪われた「遊び」

・「訓練」される子どもたち スイミングクラブでは、子ども同士でおしゃべりしたり、鬼ごっこをしたりするようなことは許されない。コーチに叱られる。いたずらを見つかって、コーチにプールサイドに立たされたりしている。野球の練習もそうです。遊びで楽しもうとしてやっている野球に、素振り一日何回とか、打席に立って、監督の「次は打て」とか「待て」とか許可を得てやるなどこんなつまらないことはない、と以前のいきいきしていた子どもなら思ったでしょうね。確かに泳ぎは上手になるでしょう。野球も銃立つして、試合では勝つ回数が増えるかもしれない。けれども、面白いとか楽しいという感覚はないように思われます。遊びの楽しさに熱中し、その中に自分を埋没させてしまう、全エネルギーを燃焼させる、というところは少ないと思われる。あるのは、大人の指導や管理による練習で、スポーツ技能訓練だけです。ですから、思うように上達しない子どもは楽しくないでしょうね。スポーツや遊びは、本来、下手でも楽しいものだと思うのです。そうでなければいけないと思うのです。楽しく指導されなければいけないと思うのです。
・子どもが欲している「泳ぎ」の本音は、水の中を思うように泳ぎ回りたい、水の中で仲間と自由に存分にあばれたい、そんなことかもしれない。友だちとするゲームも、大人が知っているルールブックにのっとった方式の競泳ではなくて、自分たちで決めたルールによる水の中の追っかけっこなのかもしれない。野球もサッカーも、その他のスポーツも、遊びも同様です。

自分が感じていたのは、これだ。
多少の枠組みはあるにしても、
遊びが始まってしまえば、子どもたちが自分でルールをつくり、
臨機応変にローカルルールを考えるのが、楽しかった。
あそびすらも管理されるなんて、絶対にしたくない。
●未熟な親

・自分の思いどおりにならないことで、激しい怒りを感じる人は、わが国ではどんどん増えてきました。後に詳しく述べますが、前頭前野の機能不全の人が多くなったということにも、大きな関連があることだと思います。
・旅行に出かけるとき、列車の発車時間よりだいぶ前に行っていないと気がすまない人がいますね。一時間も前から行っている。指定券を持っていながら。ですから、間違いのないようにというと完全主義者のように思えますが、同時にこれはもう不安の裏返しですね。ひじょうに不安の強い人だともいえます。こういう神経で育児をされたら、子どもはたまらないですね。息がつまってしまいます。子どもは本来、きわめて不完全で不十分なものです。だから発達や成熟をするわけです。ところが完全癖の親から見ると、そういう不完全な、親の思うようにいかない子どもに、衝動的に腹が立つわけですね。その結果、溺愛と暴行を交互にくり返すのです。
・反抗期 強烈な反抗に対して本気でカッとなる親がいたとすれば、その親も未熟な、十分な成長を遂げていない親だということになると思います。誤ったことをした生徒に対して、感情的になって体罰を加える教師と同じことです。「だって」を飛躍台にして子どもは成長するものだということを柔軟に受けとめられるゆとり、単なる技術ではないそういう親の心が大切です。
・「乳幼児の世界 – こころの発達」の中で、父親の存在感が家庭の中から消えていくと、家庭の中から本当に失われていくものは「父なるものより母なるもの」だという指摘をされており、私も臨床医としての経験から本当にそうだと思うのです。
・一般に、育児に肯定的な気持ちの大きい母親ほど、夫との関係ばかりでなく、自分の実家や夫の実家、近隣との関係がよいということも、明瞭な事実として浮かび上がってきました。

世の中、前頭前野の機能不全の人が多い。
子どもが子どもを育てている状態の人も、多い。
いちばんかわいそうなのは、その親の元に生まれてくる子どもだけど、
ただし、それすらも、子どもが望んで選択したことなのかも知れない。
●保育のプロに求められること

・Aちゃんはこんなところが面白い、Bちゃんにはこんないいところがある、ということをすべての子について感じる力、これが義務教育期間までの教職者にとって、不可欠に要求される第一の大前提だと思います。そのためには、広い価値観とか豊かな感受性というものが必要です。どの子にもある個性的な良さを発見し、創造し、その個性的な良さを承認することのできる適性です。そしてそれを子どもにも気づかせてあげなくてはいけません。つまり個性的な良さを感じとってやり、それを認め、君の存在意義はそれで十分あるんだよ、ということを承認してやるわけです。これは子どもにとっては、周囲の人や世界に対する基本的な信頼感を身につけるために、決定的な役割を果たすことです。
・私はこういうタイプが好きだ、こういう価値観を持っているからそれ以外の価値観の人は認めない、というのは困る。私はクラシック音楽は好きだけれども、ジャズも演歌も好きになれないしその価値も認めない、これでは教職者としては不適格ではないでしょうか。子どもの個性的な特性にそのような好き嫌いの感情を持つことは、いけないことだと思うのです。
・どんな子どもにも良さを発見し、その良さを本気で感じる力を備えていなければいけない。アマチュアが音楽を聞いて、好き嫌いを言っている分には少しもかまいません。けれども、それと同じ次元で子どもの教育ということにあたる人は、幼児期や学童期の子どもの教育をするには、不適格だといえます。子どものほうが先生の価値観に合わせて行動するのが教育ではないはずですから。

ほかの子と接するときには、こうでありたい。
価値観の別は維持しつつも、それを強制しない。
迎合はさけつつ、多様性を認める。
●治療手順について

・この親や家庭でならこれが実行できる、この部分は無理だ、ということをろくに考えもしないで告げてしまうようなことは、絶対に避けなくてはいけません。実行できることから重要な項目を探していく、というのが鉄則でございます。これが実行できたら、次のもっと困難なことも実行できるだろう、というふうに考えなくてはいけない。メニューの大事なところから順番に、というのはだめなのです。実行可能なことから手をつける。大事な項目であっても、実行が困難か不可能なことは、最初からの課題にしない。実行できないことを言うことは、相手をいらだたせるばかりで、育児をより悪いものにしてしまうのです。
・糖尿病の治療の場合、おまんじゅうを食べてはいけない、酒を飲んではいけないといったことは、医者でなくても言えることです。問題はどうしたら相手がそれを守れるかというとで、それを考えてやるのが専門職の役割というものですね。子どもの教育にあたって、親の生活態度が阻害因子になっているときに、どうすれば親が期待どおりにやってくれるのかを考えず、いきなりポンポンと言うと、まあだいたい事態は逆効果になります。そのへんのところをよく考えて協力を求めることが、実は子どもに対する愛情というものではないかと考えるわけです。
・心を病んでいる子どもの場合は、たいてい親がより病んでいると思います。ですから親の教育、親の治療という視点も失わず、子どもと接するのと同じようにキメ細かな心配りで親に接していただきたいと考えます。

この部分を読んで、著者の佐々木さんは、ほんとのプロなんだなと思った。
すごいなと、思った。
どの道でも、プロフェッショナルというのは、すごい。
●社会性

・いえない場合もある、許されないところもあるのだ、ということを学習するのが社会なのです。いつとはなしに理解し身につけていく、それを与えてくれるのが社会です。
・子どもに社会性が育たない、人間関係が育たないということは、親自身の社会的な人間関係が乏しいことの結果ともいえます。周囲の人々と共感的なコミュニケーションができないということです。親のほうに社会性がないということです。子どもが十分に社会性を身につけるためには、親に社会性があり、家庭そのものが十分な社会性を持っているということが不可欠です。
・本当に役に立つ大事なところは、クラブ活動か放課後の遊びの時間帯のほうです。一定の枠をなくした、先生が見ていないところ、親が知らないところ、大人たちの介助や介入のまったくないところでの、仲間同士の自発的で創造的なつき合いです。その結果、子どもたちが近所の地域社会の人とどんなふうにおつき合いできるか、生活できているかということが大事なのです。
・協調性や共感性といったものと、競争意識のバランスはとても大事ですが、そのバランスは友だちの中で育つものなのです。これが育つためには、自分の家に友だちをたくさん呼ぶこと、また相手の家に遊びに行くというと、その両方を体験しないといけません。このことを、いまのお母さん方は意外と知っておりません。自分の家に友だちを連れてきたときには、自分がリーダーシップを発揮できます。自分の家の規則というか、しきたり、やり方を相手に押しつけることができます。ところが、友だちの家に行けば立場は逆転します。相手の家の規則にのっとって生活しなければなりません。それぞれの家にはそれぞれの家の考えがあって生活しており、その違いがあることを知るということが大切です。そして、次の段階として、第三の場所があります。どちらの家庭でもない、両者が対等の関係にある場所です。そこでは、集まった顔ぶれの中で自分はどの程度の役割を負えるか、自分はこういう立場しかとれないのではないか、あるいは今日は自分がリーダーになっておろうとか、そんなことを自然に考えて実行する力を身につけるわけです。
・学芸会の劇で、全員が均等に十の言葉をしゃべるドラマをつくったとする。これを子どもに演じさせてみたところで、社会的役割を分担し合える人間の教育にはなりません。人間には何十、何百という無数の能力の種類があって、それぞれの部分、分野で能力差、あるいは個体差ないし特質を持った人間がいる。そうした能力差、個人差を超えたところで、人は平等なんだそして大事な仲間なんだ、というとを教えることが大事ですね。
・潜在期というのはだいたい小学校の期間ですが、この時代に社会人になるための人格形成上、いちばん多くのことを学ぶのは、友だちからですね。それも年上の友だちから、いちばん多くのものを学ぶ。もちろん先生からも親からも学びます。けれども、社会心理的成熟のためにもっとも大切なことは、友だち仲間や年上の子どもから学ぶ。そのことが、親にも先生にもよくわかっていないように思われます。エリクソンもそのことをはっきり言っています。どこの社会の人でも、年上の子どもからいちばん多くのことを学んでいる。社会人になるために必要なものを学んでいると。

ああ、そうはればいいのか、と思って改善しようと決めたことが二つ。
確かに自分は、兄たちがどのように遊んでいるのか、友達と接しているのかをみて、
人間関係を学んできたように思う。強く思う。
長女である娘は、自分が、世の中とどう接しているのかを、みている。
注目している。それを正しいこと・模範としてしているのだ。
だとすれば、自分がどうあるかが、とても大事。
子どもは鏡なのだ。
●コミュニケーションの前提となる「共感」

・他者とよいコミュニケーションができる人は、前頭前野のはたらきがよく機能するように育てられ、生きてきたということです。
・ワロンが発見した重要な事実は、その赤ちゃんが4~5ヵ月になったころ、わが子に喜びを与えている母親が、子どもの喜んでいる姿を見て母親自身も喜びを感じてしてあげることが必要だということなのです。なぜかというと、そのことを子どもが強く求めているからです。このころの赤ちゃんは、自分だけが喜んでいるのではなく、大切なお母さんといっしょに喜び合いたいという感情を大きくふくらませているからです。ワロンは、大切な他社との喜びを分かち合うという体験こそが、人間のこころの中にもっとも人間的な”共感”という感情を育てるのだと結論します。人間的なコミュニケーションの機能は、他者と共感し合うという感情の基盤なしには決して発達し得ないものでしょう。

遊んであげている とか 仕事のように大人として接している のではだめなのだ。
自分自身が再考に楽しむこと!!
 
●トイレトレーニング

・二歳前後の子どもには、本来そういう感覚はありません。自分の体から出てくるものを、汚いものなどとは決して思っていないのです。むしろ大切なもの、できれば捨てたくないものなのです。したがって、何も教えられない子どもが、自分の体から離れた排せつ物を、不潔なものと感ずることはないのです。子どもに排せつ物は汚いものだと強く教えると、トイレット・トレーニングは完成が遅れるのです。トイレット・トレーニングを完成するこの時期、排せつ物を汚いものとして教えますと、排せつ行為そのものをいやな行為として受け取ることになります。トイレット・トレーニングの上手な人は、子どもの排せつ物に対して、決して不快でイヤな顔をしない。失敗しても不快な顔をしません。排せつ物は汚いとは決して教えません。それはもっと後になって、トレーニングが完成して大きくなってから、身につければよいことです。排せつ行為は、楽しく気持ちのよい生理的な経験だというふうに教えてやるのが、うまい方法なわけです。不潔、異常、病理的なもものという感覚は、最初は禁物です。子ども本来、汚くない大事なもの、捨てたくないものとして感じているのですから、、それをさっぱり捨てさせるためには、捨てると実に気持ちはいいし、楽しくなると教えるのが、うまいやり方です。
・排せつの自立する時期の子どもにとってオシッコやウンチは捨て去ろうか、もう少し大事に自分の中に持っていようかと迷う問題なのです。相反する両面価値のある選択的な問題なのです。大事な問題として考えなければなりません。自分の意識で両面の価値のある問題を選択しようとする試み、これが自律のはじまりです。
・知らないうちにオムツが汚れていたというので、小言を言ったり叱ったりするお母さんがいる。一日も早く排便のことを知らせられるようにという親心からでしょうが、これはトイレット・トレーニングとしては下手なやり方です。オムツを汚したからといって、叱られる筋合いのことでは決してありません。オムツを汚してしまってから、そのことを教えにくるようなことがあったら、それこそ立派に自律の行為を果たしたということですね。ほめてやるべきことであって、決して小言など言うべきことではない。笑顔でほめてやりながら、汚れたお尻を拭いてやり、新しいオムツと交換する。そういうふうにして、自分の意志でいろいろなことができるように援助してやる、見守ってやるということが、大切なことです。間違っても、汚いとか、ああいやだ、といった印象を与えてはいけません。
・もらした、失敗した、ああ汚い、あれほど言われているのにまたやっちゃった、という気持ちを抱かせるのは、トイレット・トレーニングとしていちばん下手なやり方です。しかも将来、強迫神経症的な子どもをつくりやすい。これは大人になっても続きます。

ここ、今ではもう遅いけど、あらかじめ知っておきたかった。
強迫神経症になるほどのミスはしていないはずだけど、
焦りから、よくない対応をしたこと、あるかも知れない。
●成長過程

1)口唇期・口愛期(0~1歳)
母親を通して周囲への基本的信頼感や自分に対して自信を身につけるか、あるいは逆に不信感や無力感を身につけるか
2)筋肉・肛門期(1~3歳)
自分という存在に対する自律と自負心を身につけるか、恥と疑惑の感覚を身につけるか
3)活動期・幼児性器期(3~6歳)
・この時期の子どものこころの発達状態が健康かどうかを見るには、行動半径が広いか狭いか、あふれるばかりのエネルギーをもって活動しているかどうか、好奇心が旺盛かどうか、何度叱っても簡単にはやめようとしないで同じようなことをやろうとするかどうか、そんなことがポイントになります。行動半径が広くて、いっときもじっとしておらず、好奇心が豊かで、何度叱ってもだめだというのが健康なわけです。叱られたこと、失敗したことはすぐ忘れ、同じようなことを何回もくり返しながら、危険を回避し乗り越えていく訓練をしている。これが健康なのです。もし、一度言ったらそのことをずっと守っているという子どもがいたら、これはとんでもないことで、それはむしろこころの病気の状態です。
・男の子も女の子も、男性の性器に対して強い好奇心を持ちます。その関心が強くなるのは、三歳から学校へ入る直前までの間がピークのようです。比較的早い子もいれば遅い子もいる。男女とも男の性器に「あこがれ」を持つ時期とされています。男の子はそれを誇りに思い、女の子はある種の劣等感、挫折感を最初に味わう時期だと言われています。

絶対依存の時期に、無理に自立させようとして不信感や無力感を与えてしまうのと同様に、
その後の3歳までの時期に、周囲との比較という心ない「コントロール」によって恥と疑惑の観念を与えてしまう危険がある。
これは、要注意だ。自負心を養うこと、成功体験を重視することが重要だ。
●その他

・失恋しても私はショックなど受けない。またすぐ自分を慰めてくれる異性が無限にいると思えばよろしい…そういう自信家はいいですね。しかし、その自信は恋愛を何回も体験した人でなければ言えないことです。次の人を得るまでは、本当に精神的に四苦八苦してしまうわけで、とてもそんなことは言えない。ましてこの時期の恋愛では、失恋は相手の恋人を失うのと同様に、自分を失う。他人の目に、自分というのは実につまらぬ無用の存在として映ってしまったということで、自己喪失そのものですから、その衝撃の大きさは想像以上のものがあります。
・男の子 : エディプス・コンプレックス
・女の子 : エレクトラ・コンプレックス

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