本当の上品さを身につけさせるために学習院初等科のお母さんがやっていること

ガミガミ叱らなくてもしつけはできます。
3人の子どもたちを全員学習院初等科に合格させた著者が、自らの実践をとおして培ってきた子育ての秘訣を紹介!

お嬢様家庭では、子どもを抑圧したり、枠にはめたり、操作したりするものだろうな….という偏見があった。でも、実際には違うのかも知れない。
育ちのよさ という言葉があるけれど、それはいったいどんなものなのか。
恐怖や抑圧などによらず、上品さを育てられるのであれば、すばらしい。
そんなことを思いながら、この本を手にとってみた。


実は、まだ分別のつかない歳の子どもとの接し方と、社会におけるマナーとのバランスに、とても悩んでいた。抑圧したり恐怖によって動物的な服従を強いるような教育はしたくない。かといって、社会におけるルールは守る必要がある。世の中は、子ども成長を見守ってくれる大人ばかりではない。見守るどころか子どもを好きではない大人も多い。
この本を読んで、感じていたモヤモヤが、とてもクリアになった気がする。
●敬語

最初に長い言葉、「おはよう」よりも「おはようございます」を覚えたほうが楽なのではないか

子どもに対してだからといって、「タメグチ」と呼ばれるような同い年のお友だちに向けた言葉しか使わないとどうなるでしょう?子どもは丁寧語や敬語を学ぶことができません。まず先に、敬語(丁寧語)を覚えさせましょう。そのような習慣が身につけば、大きくなったときにわざわざ丁寧語や敬語として学習し直さなくても、容易に失礼のない会話ができるのです。

ニャンニャン、ワンワン、ブーブーなどの幼児語を使わず、最初から正しい日本語を教えようという七田や久保田で言われている話と同じだ。敬語だって同じなのだなと、なるほど納得。
●子どもの心に対する敬意と配慮

子どもが午後になっても「おはようございます」と言ったときに、嘲笑する親もいるのには驚きます。子供はなにもわからずに、人に会ったときの”お行儀”を親を真似てやっているのに、「いやね」とか「おかしい」などと言ってしまったら、子どもは二度と言うまいと思ってしまいます。
「○○ちゃんは百点だったんですって」
子どもが小学校に入ると、いきなりそんな言い方をし始める親が大勢います。言われた子どもの気持ちになったことがあるのでしょうか。
「△△さんのご主人は、独立して社長になったんですって」
「××さんの奥さんは、ダイエットして十キロも痩せたらしいよ」
だからなに?と思いませんか?

友人知人の前になると、謙遜のつもりなのか、自分の自信のなさの裏返しなのか、子どもを蔑み(さげすみ)、貶め(おとしめ)る言葉を発する親が少なくない。子どもたちは、親の言葉にどれほど傷ついているのだろう。親バカになれとは言わないが、子どもの可能性を信じ、その純粋さとひたむきさを堂々と自慢できる親でありたい。
●人目を気にするとか、責任回避は最悪

もしも、いつでもきちんと「ごちそうさま」も言わずにせきを立つ子どもに向かって、毎日毎日「ごちそうさまは?」と言っていることで、自分は教えているのだと思っているとしたら、恐るべき勘違いです。食べ終わってもあいさつもせずに、あるいは、食べ終わらないうちに席を立つことを許している時点で、食事のマナーはなにも教えていないのと同じです。それから慌てて叫んでも、身につくはずなどありませんし、教育しているとは言えません。
千じんの谷に突き落とすことや、かわいい子だから旅をさせることはありますが、それを実行するまでに、必ず無事に戻ってくる子どもに育てることが咲き。そして、その自信がついたときに、初めて実行するのです。自信もないのに突き落として、みすみす子どもを失うのでは、殺人です。

言い訳のように「しつけているフリ」をすることは全く意味がない。「私は親として言うべきことは言ったよ」「きかないのは子どもの責任だから私には責任はありませんよ」とでも言いたいのだろうか。このような親の責任回避行動は、無意識ではたくさんの人がしているように思う。「ごちそうさま」の話だけでなく、私もそういうことをしていないか、心の中を点検する必要を感じた。
●迎合しない

子どもが「イヤ」などと言ったときには、「どうしてイヤなの?」ト冷静に尋ねます。「どうしても!」こんな答えだったら、そんな主張は通す必要はありません。「○○だからイヤなの」とはっきり言うのであれば、納得できる主張であったら、なるべく通してやりたいところです。ときには、困り果てるような主張であることもあるでしょう。そういう場合には、なぜその主張が通せないのかをしっかりと話して聞かせます。この過程で、子どもは自己主張といはどういうものかを知っていくでしょう。つまり、無茶な主張は通らないということ、強く言えば通るというものではないこと、言ってみればディベートのトレーニングのようなものです。

自分もよく娘に「落ち着いて話してご覧。わめいたからってきくわけじゃないよ」とか「大声を出してもそれはだめだよ」などとキッパリいうようにしている。だからだろうか、幸い娘は、大声を出したり無駄に泣いても意味がないと悟り、無駄なわがまま行動をとることが少ない。

常識やマナーにおいて、子どもが特別扱いされることは、世の中に原則としてありませんので、その機会に教えておきたいところです。
ファミレスだから許される、はNG。
人が食事をするための場所を走り回っていいはずがありませんし、大声を出すのもNG。レジの前で売っているおもちゃで遊ぶのも、もちろんいけないことなのです。

はっきりそう書いてくれて、すっきりした。
公共の場においては、子どもだから許される、という甘え考えは捨てなくてはいけない。
と同時に、しっかりしつける親と学んでいる途中の子どもたちには、寛容でありたいと思う。
●子ども自身に身をもって理解させること


×「○○ちゃん、そんなことすると△△になりますよ」
×いいか悪いかを教えるのはNG「仲間はずれはいけないわよ」
○相手の気持ちを考えさせればOK「仲間はずれにされたらどんな気持ちかしら…」
×急かすだけではNG「早くしなさい」
○なぜ急ぐのかを説明すればOK「2時にバス停でユミちゃんともちあわせしているの。遅れたらユミちゃんをまたせちゃうのよ」
×するよう指示するのはNG「お着替えまだなの?!」
○どうしたらいいか聞けばOK「もうすぐ幼稚園に行く時間よ。どうしたらいいと思う?」

ときには大声で話して、子どもの邪魔をしてみましょう。
子どもが好きなテレビ番組やビデオを見ているときに、近くで関係のない内容の大きな声を出して妨害してみるのです。公共の場所で自分がかけてしまう迷惑という行為を自分が体験することから知っていくのがいいと思います。子どもに迷惑をかけて、迷惑を実感させましょう。

本当は「お手伝い」という言葉に疑問さえ感じているのです。補助作業だとしても、家族の一員としてするべき家事の補助であって、「お手伝い」という名前の家事はないのですから。

言い訳はとことんききましょう。子どもの言い訳をきくと、子どもの思考傾向がわかります。つまり子どもを理解できるようになるのです。もちろん最終的には、言い訳遊びで終わらせるのではなく、「あなたの考えはわかったは。でも、だからといって、○○したのはいけなかったんじゃないかしら?」と問いかけます。でも、最後まで、親は断言しません。断言は、罪を犯した本人がするべきなのです。そうしなければ、本当にいけないことをしたことが身にしみないからです。

私も子どもたちに、高校卒業までおこづかいというシステムを取っていません。おこづかいを与えて、計画をたいさせることや、自己管理させることもいいと思いますが、おこづかいを与えなくても、同じような成果を上げることはできるという発想を知っていただけると嬉しく思います。

転ばぬ先の杖をつくのではなく、
転ばせて、感じさせて、学びとってもらう姿を見守る
それこそが大切なんだと、改めて思った。

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