ユング心理学と仏教

河合隼雄さんが行った講演をもとにまとめられたもの

潜在意識の探求において、ユングははずせない。


以下メモしたころ

・近代は、科学の知の根本 – 対象と自己との分離を何にでも適用しようとしすぎて、「関係性の喪失」という病を背負わざるを得なくなった。心理療法家のところに訪れる人たちは、大なり小なり「関係性の喪失」を病んでいる(p23)

西洋的なビジネスの世界=社会で働くことと、家庭あるいはそのような社会にそぐわない人の多くでうつ病が増えていることとの関連が連想された。

・他と区別し自立したものとして形成されている西洋人の自我は日本人にとって脅威。日本人は他との一体感的なつながりを前提とし、それを切ることなく自我を形成する。西洋人の自我は「切断」する力が強く、何かにつけて明確に区別し分離してゆくのに対して、日本人の自我はできるだけ「切断」せず「包含」することに耐える強さをもつと言える。

システム開発において「一意性」を求め「定義」していくことと、ファジーの思想との関係が連想された。

・日本で分析を行う際に — クライエントの治療者に対する依存は非常に強くなります。治療者が無際限に何でも受け入れる太母であることが期待されるのです。このことを意識せずに、教科書どおりの「契約関係」を持とうとすると、クライエンとは治療者を「冷たい」と感じて治療関係は破壊されてしまいます。治療者は常に太母の元型的イメージの投影を受けやすいことを認識していなくてはなりません。(p47)

自らの夫婦関係をふりかえり、自分自身は西洋近代的な自我の形成が進んでいるのだと思った。これに対して、妻が思う「冷たい感じ」というのがこのことなのだと理解できた。

・「私は別に治して欲しくないのです。私は治してもらうためにここに来ているのではありません」 — 「ここに来ているのは、ここに来るために来ているだけです」とはっきり言いました。
 心理療法によって誰かを「治す」ことなどできない、と私は思っています。深層心理学の理論を「適用」できないことは既に述べました。しかし、われわれは近代のテクノロジー的思考パターンで考えることに慣れすぎてしまって、どうしても操作的な考えに陥ってしまうのです。
 心理療法で最も大切なことは、二人の人間が共にそこに「いる」ことであります。その二人の人間は「治す人」と「治される人」として区別されるべきではありません。二人でそこに「いる」間に、一般に「治る」と言われている現象が副次的に生じることが多い、というべきなのでしょう。(p53)

田坂先生のいう「操作主義」に対する警鐘を連想した。また、男女の会話において、「ただ話をきいてほしい」だけの女性と、「解決策」を話してしまう男性とのすれ違いを連想した。

・西洋近代の自我が壮年男子の強さを誇りとするのなら、東洋の意識は老人の知恵を示そうとするものでしょう。(p116)
・西洋近代の個性は、まずegoを確立することがその前提となります。他から自立し主体性と統合性をそなえた存在としてのegoを青年期に確立する。大人になるときとは、自分のアイデンティティが確立できたときである、と考えます。— 仏教においては、ある人が自分の個別性を大切にしようとするならば、その人は「自立」などということを考える前に、他との関係の方に気を配ることになるでしょう。このような態度は個人主義の考えからみれば、極めて依存的とか、他人志向的とか批判されることになるでしょう。しかし、実際は、そのような関係そのものにこそ個別性が見出されると考えるのですから、発想がまったく異なることに注意していただきたいのです。(p154)

仏教というより、日本における仏教においては、と前書きした方がよいかもしれないが、いずれにしても、相互依存までも視野にいれた、「関係そのものの個別性」という視点でみるパラダイムは、新鮮だった。土居たけお氏の「甘えの構造」を思い出した。

・井筒俊彦による縁起の図による説明とともに、ユングによる共時性は線形的な原因と結果で現象を説明するアリストテレス的な思惟パターンと異なることが説明されている。(P145)

とすると、「複雑系」の知は、まさにこのユングの共時性や仏教的な縁起を西洋の自然科学が注目した結果なのではないかというイメージがわいた。

・心理療法の過程においては、象徴的な「死と再生」の体験が生じているので、人格変容の過程で、不思議な「死」のコンステレーションが生じることが多いのです。それは肉親や知人の死、思いがけない事故、夢の中の死の体験などとして生じます。それらの現象の全体的なコンステレーションとその意味について、注意深くあらねばなりません。そのようななかで、クライエンとの「自殺」ということが、重要な課題となるのも当然であります。
 特に、抑うつ症の人の場合は自殺のことが特徴的に出てきます。そのときに、私はクライエントの象徴的な死と再生の体験を大切に考えるので、実際的な死を避けつつ、象徴的な死の体験の成就を願う、という立場をとって接してきました。従って、「死にたい」と言われても反対せず、話しを聞ける限り聞く、という態度をとり、どうしてもそれが実際的な死と結びつくと感じる限り、反対することにしてきました。(p159)
・「死にたい」という言葉でしか自分の「生きたい」気持ちを表現できなかった、と言われ、この一言で私は大いに教えられたのです(p162)

死にたいと発言する人に接したとき、自分がそれをどうとらえればよいのか、どう接したらよいのか、少しだけ理解できたような気がする。

・ユングの言うように、「まさに一個の協同者として、個性発展の過程のなかに、患者と共に深く関与してゆく」ことによって、クライエントのなかに生じてくる個性化の過程に従うはずのところ、それはあまりにも破壊的であったり、耐え難い重圧として感じられたり、と言ってそれを回避するときはクライエントの自殺が容易に推察される、というような状況になりました。このまま続けていると、私が疲労のために死ぬのではないか、と本気に思ったこともあります。— 私はむしろ、私自身の意識のレベルを必要に応じて深くすることを心がけるようにしはじめました。このようなことを心がけるのに、第三章で述べた仏教の考えが大いに役立ちました。 — 私が一人の人とお会いするとき、そこには茫々とした世界がひろがり、そこに展開する関係と共に浮遊しているようなことになってきました。その関係は日常的な人間関係と異なり、極めて非個人的なものになります。そのような関係を維持することが可能になってきますと、と言っても理想的な状態にはほど遠いので、自殺したいという人や行動化をする人は今でもありますが、その数は非常に少なくなりましたし、何よりも私の疲労感が減少してきました。(p178)

表層レベルで接してはいけないのだなぁと思った。西洋が発展進化させてきた「自我」の方向性の志向パターンで「solution」を提案しようとしても、患者の意識とますます乖離してゆくばかり。そうではなく、東洋が発展進化させてきた「自己」の方向に深めて関係を構築していくことが望ましいのだということを、理解した。このことは、自分にとってとても大きい気付きだ★

・最近ではクライエントに対してまっすぐに怒りの感情を表現できるようになったと思っています。— その根は非個人的なものと感じられるものがあり、それらを表現することは、人間関係を深める上で意味がある、と私は思っています。ともかく、心理療法の場面でおさえこんだ感情を歪んだ形で家族や知人に分配することは少なくなりましたし、疲労が後に残らなくなりました。(p181)

感情表現を個人的なものから非個人的なものに変容していくというのは、すごい。これはタントラにも通じるものだと思えた。後期密教の瞑想は、まさにこれを目的の一つとしているようにも思える。

・クライエントの悩みは、禅における「公案」。表面的な(西洋自然科学的な思考パターンによる)「解決」は、クライエントの悟りの機会を奪うことになる場合もある。(p195)
・クライエントは、禅における「老師」(p196)

心理療法家のしごとは、まさに修行そのものだと、思える。

・言語化することは現象を対象化することになり、クライエントが治療者との「関係」を、底の方での一体感を重視する幹事で受け止めているときは、言語化を関係の「切断」と感じることが、日本では起こりやすいという問題があります。(p203)

これは、男女の恋愛関係、夫婦関係において、重要なキーワードだ。

・日本の古語では「かなし」に「いとしい」という意味があり、そのような感情も混じったものと言うべきでしょう。(p204)
・クライエントと分離し難いほどの深いレベルにおける、苦しみとかなしみのなかに身を置いていると、自然に日常の世界がひらけてきて、そこではもちろん楽しく愉快な経験も沢山できるのです。 — 心理療法を行うとき、私はかなしみの中心に自分を置こうと心がけている、といえます。その場にずっといると、楽しい世界が自然にひらかれてきます。(p208)

空性の理解について、大乗仏教が「哀れみ」を重要視することとの関連を連想した。

・私はユングが「自己」とは何か具体的に示して欲しいという質問に対して、「すべての皆さん」(all of you)と答えたという逸話が好きであります。(p212)
・人間の身体はひとつの中枢によって「統合」されているのではない。これは凄いことである。免疫系と神経系がそれぞれ独立に、しかし一人の人間の身体のなかで調和的に存在している。おそらく、これと同様に人間の心もいろいろな独立系が調和的に存在する、というようになっているのではないか。

この「スーパーシステム」のパラダイムは、まず、現在Googleに代表れる企業の中にみてとれる、「企業のありかたの変化」を連想させた。西洋の一神教的なトップダウンの組織構造ではなく、それぞれの独立系が有機的に連関しあい、うまく運営されるという組織形態。そして次に、Wisdom of Clowsということばが連想された。 
世界は、東洋のスーパーシステムのパラダイム、あるいは仏教的な縁起(≒複雑系)の知が加わることで、一気に加速するのだと、確信した。

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