なぜマネジメントが壁に突き当たるのか

成長するマネジャー12の心得
少し深い世界を見つめるだけであなたのマネジメントが変わる
12の語り 12の気づき

マネジメントの本質と父親としての心構えは同じ
だということを、この人から学んだ。
子どもをもつ全ての父親にすすめたい一冊。

●親として子に対峙する時の姿勢に即いかせること

・熟練のマネジャーは部下に対して、「何を身につけるべきか」を教えるのではなく、「何を行えば身につくか」をこそアドバイスすべきなのです。「成功の体験」を持マジャーが、部下に対して伝えるべきは、その成功体験から学んだ「成功の方法」ではありません。むしろ、その成功体験から掴んだ「体験の方法」をこそ伝えるべきなのです。部下が自分自身の能力と個性に合った彼独自の「成功の方法」が掴み取れるような「体験の方法」をこそ伝えなければならないのです。
・しかし、ここでマネジャーは、一つの重い問題に直面します。「成功の体験」を持たないマネジャーは、部下に対して「体験の方法」を教えることができないという問題です。・言葉によって表すことのできない「暗黙知」を伝えるには、古来、三つの方法ししかないと言われています。「否定法」「隠喩法」「指示法」の三つの方法です。
・なぜ、「問題」を解決するための安易な「解答」を述べた本よりも、むしろ、読者にさらに深い「矛盾」を突きつけ、さらに難しい「問題」を突きつけてくる書に、学ぶべきものが多いのか? なぜ、問題を解明するための安直な「理論」を述べた本よりも、むしろ、読者の想像力を喚起する豊かな「物語」を述べた書に、学ぶべきものが多いのか? なぜ、「問題」を解釈するための雑多な「知識」を述べた本よりも、むしろ、読者が智恵を身につけるための「体験」や「体験の方法」を伝えようとする書に、学ぶべきものが多いのか?

メタレベルの成功方法というところか。
克服や成長の体験を、伝えること。
子どもに受け継いでいくこと、それは、
暗黙知を伝えるということ、そのものだ。

・熟練の経営者が見ているのは、企画の論理性や緻密性ではありません。それは、戦略やビジョンですらありません。究極、その経営者が見ているのは、ただ一つです。その企画を提案してきたマネジャーの、決意の強さと確信の深さです。
・「言葉」とは、それを語る人間がどれほどの「信念」を持っているか、隠しようもなく映し出してしまうものです。

経営者という言葉を、子どもに置き換えてもよいかも知れない。
親の言葉に信念がともなっているのか。
それを、子どもは見ている。
見抜いている。

・操作主義のマネジメントによっても、「部下が動く」と感じられる場合
1) 部下がまだ若く、人間を見る目が浅いため、マネジャーの表面的な気配りに幻惑されて動いてしまう場合
2) 部下がマネジャーの人事権や決裁権などの権力を意識し、それに従っている場合
3) 部下の側にも「計算」が成立している場合
→操作主義のマネジメントは、その人間集団の持つ、精神的に未熟な部分や、権力追随的な部分や、打算的な部分を引き出してしまうのです。なぜならば、マネジャーの「こころの世界」と、組織のメンバーが創り出す「こころの生態系」とは、あたかも「一対の鏡」となっていくからです。そのため、マネジャーのこころの世界に潜む操作主義的な人間観は、必ずその人間集団の「こころの生態系」に反映し、それを、その貧困な人間観の水準にまで引き下げてしまうのです。
・人は「動かそう」としても決して動かないのと同様、人は「感動させよう」としても決して感動するものではありません。同じ意味で、「部下の共感を得よう」という発想によって、部下との間に共感が生まれることはないのです。では、マネジャーと部下との間に共感が生まれるときというのは、いかなるときでしょうか? マネジャーが、部下に共感したときです。

最近、子育てにおいても操作主義が入り込んできている。
子どもは、機会ではない。
機械論パラダイムに基づく子育てなんて、最悪だ。
しかし悲しいことに、そういう風潮が、ある。

・「正対」することです。マネジャーが、一人の人間として、部下という一人の人間と正面から向き合うことです。一人の人間に対する深い敬意を持って、正面から向き合うことです。それが、「正対」するということの意味です。そして、その「正対」ができているときは、不思議なことに、部下とぶつかっても人間関係が壊れることはありません。実は、人間関係が壊れるときというのは、どちらかが、どちらかに対して「シニカル」な姿勢を持ったときです。ここで「シニカル」という言葉は、「皮肉な」という意味よりも、「斜に構えた」という意味に近い言葉です。すなわち、「どうせ、彼は」「しょせん、あの人は」との枕詞で相手を見る姿勢であり、「正対」ということの対極にある姿勢と言えます。我々は、このシニカルな姿勢に陥った瞬間に、目の前にいる一人の人間の人生に対する「敬意」を失いはじめます。
・しばしば部下とぶつかりねときに怒鳴らんばかりの接し方をするにもかかわらず、部下が信望を寄せてくれるマネジャーがいます。彼が大切にしているものは、「部下と自分の切磋琢磨による互いの成長」であり、「成長の証としての良き仕事を残すこと」です。彼は未熟な自分を知りつつ、精一杯に部下と「正対」しようとしているのです。
・「一途」であること。「一徹」であること。いかなる計算もなく、いかなる駆け引きもない、一途さや、一徹さ。そうしたことが、マネジメントにおいて大切な価値とされる時代が回帰してくるのではないでしょうか。

結局のところ、ここに回帰する。

・「成長の場」ということを考えるとき、マネジャーが絶対に忘れてはならない条件があるのです。それは、「空気」という条件です。組織には、「メンバーを成長させる空気」というものがあるのです。では、その「空気」とは、どのようにすれば生まれるのでしょうか?その方法は、たった一つしかありません。マネジャー自身が、成長すること。マネジャー自身が、成長し続けること。マネジャー自身が、成長したいと願い続けること。
・マネジャーに求められるものは、一人の上司として部下に「何を教えるか」ではありません。マネジャーに求められるものは、一人のビジネスマンとして自分が「何を学ぼうとしているか」です。部下は、その姿をこそ、見ているのです。

特に七歳までの模倣の時代という意味でもそうだし、
七歳以降でも、もちろんそう。

●未熟なマネジメント

・マネジメントにおいて未熟なマネジャーの多くは、この「言語知」の世界だけで仕事を行おうとする傾向があります。要するに、経営書やマネジメント書を読んで得た知識だけでマネジメントを行おうとしてしまうのです。
・たしかに、参加者の意見を良く聞いているようなのですが、一つ勘違いしていることがあります。それは、無意識に、会議を「民主主義の場」であると思っているのです。…しかし、その会議は、最終的には、それぞれの組織のマネジャーが「責任」を持って意思決定をしていくための場に他なりません。
・メンバーの性格や人物を理解する力や、仕事への適性やメンバーの相性を判断する力は、こうしたデータベースによっては決して代行できない極めて高度な人間的能力であり、「人間通」の彼だからこそ発揮できる力なのです。
・人間関係において「気配り」というものは、非常に大切なものですが、本当に気配りの上手な人は、その気配りを感じさせないという細やかさを持っています。

テクニック本の受け売りとか、
責任を持たない優柔不断なスタイルとか、
自分もそういう過ちを犯していないか、再点検が必要。

●成長に対する勘違い

・奇妙なことに、「直感力を身につけるにはどうしたらよいか?」といった抽象的な問題意識を持つマネジャーは、自分自身の目の前の具体的課題については希薄な問題意識しか持っていないことが多いのです。
・「成功」というものに、もし「秘訣」や「奥義」というものがあるとすれば、それは、何よりも、自分の能力と個性に合ったバランスを見出すことに他ならないのです。
・そもそも成功者とは、一つや二つの原因によって成功しているわけではないのです。

自分には、自分にあったスタイルがある。
やはり「正対すること」「必死に考え続けること」
以外に道はないのだと、思う。
ビジネスでも、子育てでも。

●複雑系の時代のマネジメント

・「東洋的治癒」の発想とは、この「全体観察」→「構造理解」→「要所加療」→「全体治癒」という循環的思考にもとづくものです。
・東洋的な発想にもとづいて「治癒」を促がすためには、まず、企業の抱える問題の全体を観察し、その循環の構造を理解することが必要です。
・彼らが「完璧主義者」と呼ばれ、「細部」にこだわり続けるのは、彼らが「完璧を求める執着」を強く持つからではありません。それは、彼らが「直観に導かれるこだわり」を強く持つからこそ示す姿なのです。
・彼らは、仕事において、すべての「細部」にこだわっているわけではありません。複雑系の言葉で表現すれば、「大きな変動」につながる可能性のある「小さな変化」と、「大きな変動」につながる可能性のない「小さな変化」を見分けているのです。
・「腹決め」と「割り切り」とは、まったく似て非なるものなのです。「割り切り」を行う理由は、あくまでも自分の心が「楽になりたい」からです。「矛盾」した問題を抱えて対処し続けることの緊張感に耐えられないのです。
・我々マネジャーは、精神の厳しさを保持した「腹決め」は行うべきなのですが、精神の弱さから来る「割り切り」は、決して行うべきではないのです。
・従って、マネジャーが真に優れた部下を育てたいと考えるならば、部下に伝えるべきは「矛盾を解消するための方法」ではありません。彼が部下に教えるべきは、「矛盾と対峙し続ける姿勢」なのです。
・「バランス感覚」という力量 実は、仏教における「中道」の思想や、儒教における「中庸」の思想の本質も、まさにこの点にあります。そして、西田幾多郎の語る「絶対矛盾的自己同一」という言葉の機微も、まさにここにあるのです。

矛盾しているといわれようと、ヘンなところに細かいと言われようと、
他人はどうでもいいのだ。
自分が責任をとる、自分が引きうける。
その覚悟が必要。

●その他

・ときおり、「創造性」にこだわるあまり「他人とは違った発想」「他の人間とは異なった視点」などを意識過剰なほどに追求する「芸術家志向」の人物を見かけますが、真の創造性とは、そうしたものではありません。そもそも、創造性とは、「他者との相違は何か」を求めて生み出されるものではありません。創造性とは、「自己の真実とは何か」を求めての歩みから自然に生み出されるものです。
・大局観の本質とは、「論理的思考」ではなく、むしろ「幾何的感覚」です。例えば、大局観に優れたマネジャーがしばしば使う言葉に、「バランスが良くない」「筋が悪い」「形を成していない」などの表現があります。これらは、いずれも幾何的感覚とでも呼ぶべき表現に他なりません。そして、それは、さらに言えば「美的感覚」にも通じるものです。このことを理解するならば、熟練のマネジャーが、極めて難しい決断が求められるときに、「善悪」の判断よりも「美醜」の感覚を大切にする理由も、理解できるでしょう。それは、美的感覚を磨くことなく、優れた大局観を発揮することはできないからです。

自分の真実とは何か。
自分の美的感覚が志向する先には何があるのか。
もう一度、そのことを考えてみる。