深夜特急(4)

シルクロード

旅に触れ、人生という旅について考える。
紀行が好きなのは、それが理由なのだと、思う。


バス同士のチキンレース、自分もスリランカで体験したので、よくわかる。
日本でしか車にのったことがない人には理解できない運転。
対向車を回り込んで追い越す、追い越す、追い越す。
なんだか、懐かしくなった。

その時、彼の嫌悪感の根っこにあるものが理解できたように思えた。彼には、無為に旅を続け、無為に日々を送っているかに見える私のような存在が、たまらなく不快だったので。
おまえは何のために旅行しているんだ、と彼から訊ねられたことがある。だが、私には答えようがなかった。デリーからロンドンまで乗合いバスで行くというのは、カマルの質問の答えにはなっていそうになかったからだ。しかし、いずれにしても、彼の私に対して抱いている嫌悪感には、正当なところがあるように思えてならなかった。
ヒッピーとは、人から親切を貰って生きていく物乞いなのかもしれない。少なくとも、人の親切そのものが旅の全目的にまでなってしまう。それが、人から示される新設を面倒に感じてしまうとすれば、かなりの重症といえるのかもしれなかった。

旅を、自分の人生・日常に置き換えると…
考え込んでしまう。深く深く。
カマルは、ずっと若い頃から働いていた。私は、どうなのか。
この日常において、人間関係に煩わしさを感じてしまうというのは、
いったいどういうことなのか。
最後の対談も興味深かった。

文化人類学もそうですが、取材者と被取材者がいるとすると、取材者はいったん被取材者のテリトリーに入って、そして出てくる。あちらの圏内で手に入れたものを、こちら側の世界に開示するでしょう。その往復が言わば作品になるわけですね。
亡命者や移民といった、本質的に境界を越えて「出てしまった」人たちの心には<夢見られた世界>が埋め込まれていて、むしろその世界でしか自分たちの経験を描き出せないのではないか、と思うんです。あるいは、永遠に実現され得ない夢のもとに自分の人生を考えている、と言ってもいいんですが。

私も、越境者なのかも知れない。
越境者であり、かつ言葉がわかる私にしか、書けないことが、
たぶん、ある。

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