親は子どもの未来をひらく

個性をいかす育て方
子どもの発達する姿に感動するやわらかい心と、
子どもに学ぶ謙虚さを、いつまでも持ち続けてほしい。

親は子どもの未来をひらく―個性をいかす育て方 (企画室の子育てシリーズ 23)

この方の書かれたものを読むのは、何冊めだろう。
どれも同じこと似たようなことが書いてあるのに、
毎回気づきがある。
そして毎回反省する。
大切なことは、体に染み込むまで浴びたい。


●親は完璧ではない → 謙虚であること

・子育てをよりよいものにするためには、お母さん・お父さんが自分の人格の未熟さに気づくことが大切です。子どもから「お母さん」「お父さん」と呼ばれるようになりますと、いつの間にか自分の人格の未熟であることを忘れて、子どもに対してえらそうに振る舞うようになってしまいます。
・子どもが「お母さんだって」というのは、それまでは漠然と、お母さんはえらいんだと思っていたのに、お母さんにもいろいろと欠点があることが見えてきたことを意味します。子どもに、人を批判する能力が育ってきたわけです。そのことは、同時に、自分の心をも批判する能力が芽ばえてきていることになるのです。つまり、反省の能力です。この能力を育てることは、人格形成にとって重要です。人格の向上にとって欠くことのできない心のあり方であるからです。そのことは、お母さんについてもいえましょう。ですから、反省することの多いお母さんであれば、子どももその心を汲んで、反省の能力が向上します。その意味で、子どもが「お母さんだって」といったときには自分の心に対してすなおになることが大切で、「親に向かってなんです」といったタテ社会の意識を捨てる努力をすることが必要になります。

そもそもここを間違えてしまう人がとても多い。
焦りがあるのは、恐らく自信がないから、その裏返しとして傲慢になってしまう。
このあたりは、マネジメントとしての心得を学ぶことでクリアできる。
また、著者のように良寛さんに学ぶという手もありそうだ。
●親自身がその親にどのように育てられてきたか

・細々としたしつけを受けた多くの者は、親になってもあれこれと子どもにうるさくいうようになってしまっていますが、おおらかな親たちに育てられた者は、自分の子どもに対しておおらかであることは、われわれの研究によってはっきりしています。おおらかはおうようともいい、「ゆったりとしてこせこせしないさま」「寛大で、こまかなことにかかわらぬさま」(広辞苑)です。子どもに対しては、しつけにこだわらない親の態度です。
・おおらかなお母さん・お父さんと共に生活している子どもはおおらかですし、笑いもまた多いものです。おおらかなお母さん・お父さんは、おおらかな親たちに育てられていることが、われわれの研究によってはっきりしてきましたし、神経質でしつけをきちっとしなければならないと思っているお母さん・お父さんは、そのような親たちに育てられていることも分かってきました。しかし、今からでもおおらかな人格の持ち主に自分を変えることが可能です。それを自己変革といい、人間には自分の人格を変える能力があるのです。そのためにはどうしたらよいでしょうか。私は、カウンセリングの中で、お母さん・お父さんの心から、しつけをしなければならないという意識を取り除いてもらうように努力しています。
・お母さんの心の傷が子どもを問題児に
・「思いやり」の豊かな両親に育てられてお母さん・お父さんになっている人は、自分の子どもの気持ちを汲むことができますから、子どもを叱ることが少ないでしょう。それによって子どもの「思いやり」も育っていきますから、そのような家庭の雰囲気には温かさが溢れているものです。
・大切なことは、お母さんの話をよく聞いてくれる人がいるということです。全く専門的な知識がなくても、よく話を聞いてあげ、その苦しさを感じ取るだけでいいのです。実は、それが「思いやり」なのです。

父方の祖母は、しつけにうるさく、ここにある悪い方の例「過干渉」だった。
だから、正直なところ、苦手だった。
でも、母親はとても鷹揚、おおらかだった。
実際に、私が子どもに接する時の基準は、母においている。
私は、母親にとても感謝している。
残念ながらおおらかではない親に育てられた人に必要なこととして、
周囲が「話をきく」ということをあげているが、
それは結局、子どもの頃に満たされなかったストロークを
大人になってから、周囲の人、たとえばカウンセラーや夫などに、
代行してもらう、育て直しをしてもらう必要があるってことだろうな。
●あるべき姿

・子どもに信頼されているお母さん・お父さんは、子どもと楽しく遊ぶことのできる人格の持ち主です。その際には、子どもをうまくしつけようなどといった邪心を持たないようにすることが大切です。
・「思いやり」のある親は、子どもの立場に立って考え、子どもの気持ちを汲みますから、子どもを叱ることが少ないものです。子どもを叱る気になれないのが特徴です。ところが自分本位のお母さん・お父さんは、自分の思い通りの言動をしないと、すぐに怒ってしまいます。子どもには発達という現象があり、右に揺れ左に揺れながら発達していきますから、お母さんやお父さんの思い通りにはならないことが多いものです。そのことは、子どもの発達について少しでも勉強してみれば理解できます。ところが、勉強しないで親になった人が多いし、親になってからも勉強しようとしない人が少なくないために、結局は、自分を育てた親の二番煎じになってしまっているのです。そのために迷惑をうけている子どもが多くいますし、そうした子どもに接するたびに、親になろうとする人に対しては子どもがどのように発達するかについて、国家試験をすべきだ – と叫んできたのです。
・小学生であればそれを理解することができても、幼児の場合にはそれができないことがあります。そのときには、「この手がつくぞ」といって、よごれている手を子どものからだにつけようとするふざけた行動を示します。子どもはその手を嫌ってしりぞくでしょう。なお「お母さん」といったならば、そうしたふざけた行動を三、四回続けて、「お食事の支度が終わったら、ゆっくり聞いてあげるからね」といいましょう。要は、すぐにでも話したい子どもの気持ちを汲もうとするお母さんの努力が必要だということです。決して、子どもを拒否しないことです。

国家試験ではなくても、何か別の資格プログラムや、
楽しみながら学べるような教材を、私が、作ろうと思う。
●失敗を受け入れる・見守る

・そうした圧力に負けないような子どもは、「挑戦」の意欲を持っていますし、お母さん・お父さんが「挑戦」する子どもを楽しみに眺めていることができるのです。そのようなお母さん・お父さんと話をしてみますと、この世に生まれてきた以上、そして短い人生なのだから、生き甲斐を感じるような毎日を過ごすことが本当の幸せにつながるといっています。そして、生計を立てなければならないので会社に勤めたり自営業を営んでいますが、趣味を持っていて、それにも凝っているのです。その楽しさが分かるものですから、子どもか学校の勉強以外のことに凝ることをおおいに認めているのです。そのために学校の成績が悪くても、気にとめないわけです。
・「ほらごらん」ではなく「次にはがんばろうね」
たとえば、来客の後片付けを子どもに頼んだとします。そのときに、子どもは冒険に挑戦することがあります。食器をお盆にのせて、それをそば屋の出前の人がするように、肩の上に片手で持ち上げたりします。そのときに、お母さんはどうしたらよいでしょうか。多くのお母さんは「そんな持ち方をしないで」とか「ちゃんと持ちなさい」といってそれをやめさせようとします。それはなぜでしょうか。食器を壊されたら困るといった経済的な理由からいうお母さんもいるでしょうし、それを黙っていたのではしつけに悪いと思っていうお母さんもいるでしょう。しかし、私は、冒険に挑戦しようとしている子どもの気持ちを汲みます。子どもは出前の人のすることを見ていて、いつかはそれを試してみたいと思っているものです。そのような子どもの「自発性」は順調に発達しているのです。それを考えることができれば、子どもの行動を黙って見ていられるのです。
・「まかして」おきますと、そのような試みを何回かしたあとに、ちゃんと持って運ぶようになります。成功すれば、危なっかしい行動はしなくなるものです。ところが、子どもに注意を与えていたお母さんは、子どもがうまく運んでも、うれしさを表現する気持ちにはなれず、いうことを聞かなかったということでぶつぶつと文句をいうことになってしまいます。もし、子どもが食器を落として割ってしまったら、どうしたらよいでしょう。ほとんどのお母さんが「ほらごらんなさい」と子どもを非難しています。この言葉が出ると、日頃の子どもの行動についてお説教を始めてしまいます。積もっていた恨みを晴らしているような感じがします。子どもにしてみれば、「しまった」と思っているところをさらに蹴飛ばされたようなものです。それによって、子どもはお手伝いをしようという「意欲」を失ってしまいます。私は、子どもが失敗したときには、「この次にはがんばろうね」といって、同じような機会を与えるようにねらっています。その機会が与えられて、成功をしたときには、非常に強い自信がつきます。つまり、失敗を経験したあとに成功すれば、自信の強さは強いのです。いずれにしても、子どもの失敗を非難するようなことは絶対にしないようにしたいものです。

これは、成功哲学でいうところの、
「成功するためには、いかに早く、小さな失敗をするか」
というところ。
成功哲学でいう潜在意識の構造や、暗示のしくみを学ぶことで、
子どもにどう接すればいいかということも、自ずと理解でき、その裏付けができる。
●父親の関わりかた – 遊び

・一週間のうちの二、三回は、お父さんが食事の用意と後片付けをする家庭のことがのっていました。その間に、子どもと十分に遊んでほしいというお母さんに対するお父さんの願いから生じたのです。お母さんは、子どもと遊んでいながらも、家事のことを考えてしまう、そうなると、お母さんは遊びの本当の楽しさを味わうことができませんし、子どももそれを感じ取ってしまうので、楽しめないわけです。しかも、こんなに遊んであげているのに – といった押しつけがましいがましい気持ちにもなってしまうのです。あげる – といった気持ちが湧いたときには、子どもとの遊びに打ち込んでいないことを意味します。お母さんとの遊びには、子どもが楽しいばかりでなく、お母さん自身も楽しいものであることが、大きな意味を持ってきます。子ども好きなお父さんの場合には、家事のことを考えずに遊びに打ち込むことができますから、子どもはおおいに楽しさを感じ取ることができるのです。「遊び」は、子どもにとって生活であると共に、その中でいろいろなことを学習していることは、「遊び」の研究をしている者が異口同音にいっていることです。
・古い価値観の枠組の中で子どもを考えているお母さん・お父さんは、入浴を清潔と保温のためにしか考えていないわけです。

私が、育児ではなく、家事の方を重点的にやることがあるのは、まさにこれが理由。
同じだ。ママである妻に、もっと子どもにやさしい目で接してほしいから。
せかされず、あせらず、制限なく。
●ユーモアの大切さ

・二十一世紀は、日本のリーダーになる人を採用するときの条件として、国際人としての資質が問われる時代に入ります。私は、三つの資質を考えています。一つは、世界に雄飛する意欲を持っていること、二つには、はっきりと自分の意見を表明し、その中で「いやだ! ノー!!」といえること、第三には、相手に思いやりを持って接し、ユーモアのあることです。

●いたずら・自己主張を受け入れる

どの種類の「いたずら」も、一ヶ月や二ヶ月でやらなくなります。私はこれを「卒業」という表現を用いて説明しています。好奇心が満たされますと、探索の対象にならなくなってしまうからです。それまで「待っている」という寛容さがあれば、子どもの研究心は育っていることになるのです。もし「いたずら」は悪い子のすることとして、禁止をくり返していれば、子どもの好奇心は乏しくなり、「いたずら」をしない、いうことをよく聞く子どもになりますが、親にいわれたことしかしないという子どもになり、小学校に入ってからも、学習意欲に乏しく、研究心も発達しませんから、自分で学習しなさいといわれたときには(自学)、ぼやっとしているばかりでしょう。
・自己主張とわがままとをはっきりと区別しているでしょうか。そして、子どもに対して、みんなといっしょであることを望み、それからはずれることを恐れていないでしょうか。もっともっと子どもの自己主張を大切にするために、これまでの誤ったしつけをしないでほしいのです。
・しかし、この時期の子どもには、小さなボタンをはめることはできません。いろいろと挑戦してみて、ついに自分の能力では無理であることを体験しますと、お母さんに「やって」というでしょう。そのときにすなおにやってあげればよいのです。ところが、親のいうことにすなおに従わないということでいらいらしていたお母さんは、「自分でしなさい」などと意地の悪いことをいったり、「ほらごらんなさい」と非難する言葉を発してしまいます。それが子どもの心を傷つけているのです。子どもには意地悪さが育っていきますし、他人の欠点を非難する気持ちを持つようになります。子どもが「やって」といったときには、親切に応じてあげることが大切です。そのように応じていきますと、やがて「第一反抗期」を終えて、すなおに親のいうことを聞くようになります。しかし、お母さん・お父さんが干渉がましい人格の持ち主であるときには、反抗は続くでしょう。子どもに反抗されたときには、干渉が多いのではないかと反省するお母さん・お父さんになってほしいのです。
・「口答え」をする子どもが「よい子」というように考え方を変える必要がありますし、欧米の教育のように自分の意見をはっきりいう子どもを尊重すれば、「口答え」といった状態は消えていくはずです。
・(子どもの)よい点にすおをあげているお母さんの多くが、いろいろな面で気力のなさをあげていました。気力とは「意欲」という言葉で表現してもよいでしょう。「意欲」は「自発性」の発達とともにさかんになります。ですから、気力に乏しいということは「自発性」の発達がおくれていることになりますし、そのような子どもがすなおであるわけで、すなおは決してよいとばかりはいえないのです。

自己主張を受け入れるには、大人の側に心の余裕が必要だ。
結局のところ、これを頭で理解しても、反射的に叱ってしまう人が多いのは、
潜在意識に埋め込まれた、親の親の教育による。
これを解決しないことには、どうにもならないんだよな。。
●叱らない・ほめない

・叱ったりほめたりすることは、治療者になんらかのしつけの規範があるからです。叱ることは一切しませんし、ほめることもしないことに大きな意味があるのです。それによって子どもは「自由に」自分の気持ちを表現できるようになる
・私は、叱らないということはもちろんのこと、ほめないということを強調しているのは、子どもに対して大人の身勝手な価値観を押しつけるということのほかに、ほめられたいために行動する子ども、にせものの「よい子」を作り出す危険性があるからです。私は孫に対して、ほめることをしません。しかし、うれしいとかありがたいといった情緒的な表現をすることにしています。
・お母さん・お父さんが子どもをほめるときに、二つの傾向があります。一つは、自分がよいと思っていることを子どもがしたときです。よいとか悪いというのは価値観によるものてす。そうした価値観は、人によって異なる場合があります。それは、お母さんとお父さんの間でもちがっていて、たとえば、お母さんが叱っているときにはっきり現れ、お父さんとしてはそんなことで叱らなくてもいいではないかと思うことがあるでしょうし、お父さんが叱っているときに、お母さんなら叱らないのにと思うことがあるでしょう。ほめる場合にはそのことがあまり目立たないのですが、お母さんがほめているときに、オレならそのようなことでほめるようなことはないと思うお父さんもあるはずです。
・もう一つお母さん・お父さんがほめるときに、自分にとって都合のよいことを子どもがしてくれたときに、とくに「いい子ね」という言葉を使ってほめることが多いものです。それが、なにか子どもにしてもらいたいときに「いい子だから」という言葉を使うことに現れています。つり、お母さん・お父さんの功利的な気持ちの現れということになるわけです。

叱るより、ほめるほうがまし。
ほめる時も、結果をほめるよりプロセスをほめるのがベター。
でも、ほめて価値観を操作するより、情緒を伝えるのが最もいい。
ここまでできる人は、なかなかいない。
この本が書かれて30年ぐらい経っているんだろうけど、
いまだに、操作主義による教育ばかりが流行っている。
そして、自分の都合のいい子どもを「製造」している親は多い。
●子どものけんかに親は出るな 過保護になってないか

・「自発性」が順調に発達していて「意欲」のさかんな子どもは、三歳以後、幼稚園や小学校の集団の中で、友だちと「けんか」をすることが少なくありません。「けんか」は「自発性」の中の大切な部分である「自己主張」のぶつかり合いですから、二人ともに「自発性」が発達しているはずです。それぞれが自分のしたいことがあったり、使いたい玩具などがあるときに、自分の要求を通そうとして「けんか」が始まるわけです。とくに幼児期は、話し合いで解決するだけの能力が発達していませんから、力ずくになり、力の強い子どもが勝ちになるわけです。それを見ているお母さんの中には、力ずくで相手を負かすことが悪いように思う人がいるかも知れませんが、それよりほかに方法がないのです。どちらの子どもが勝とうとも、どちらの子どもが負けて泣こうとも、危険のない限りは、お母さんとしてはじっと見守っていることが賢明です。子どもは、大人と違って「けんか」をしてもまたいっしょに遊び始めるでしょう。そして、友だちと遊ぶことに楽しみを見出している子どもは、年齢が高くなるにつれて、「けんか」をしないで遊ぶにはどうしたらよいかを少しずつ考えるようになります。そして、いろいろな方法を使うようになります。こうして、自分たちの問題を自分たちで考える能力が育っていく過程において、子どもの「自発性」は発達していくのです。
・早く仲直りをさせたいと思って、それぞれに「ごめんなさい」をいわせるお母さんもいますが、「けんか」は謝るような悪いことではないから、子どもの心には不満が残ってしまいます。最もよくないのは、たとえば、初めに手を出したほうが悪いと決め込んで、その子を謝らせるように働きかけをすることです。謝ったほうを罪人にしてしまうことになり、その子どもの心は傷ついてしまいます。
・同じ年頃の子どもたちは、「けんか」をしながら、それがよい経験になって、取っ組み合いやなぐり合いからだんだんに口げんかとなり、ついにはそれが論理的になっていきます。大人では討論ということになるのです。
・どっちが先に手を出したかなど、裁くことは厳禁です。裁けばどちらかを悪人にしなければならないでしょう。それでは、子どもの心に傷をつけることになってしまいます。また、けんかは両成敗ということで、両方に謝らせているのも、まさにこっけいというべきです。子どもの「けんか」は決して悪いことではなく、「けんか」を経験しながら成長していくのが子どもです。友だちとの間の「けんか」にもきょうだい「げんか」にも、お母さん・お父さんは絶対に口を出さずに見守っていることが大切です。年齢とともに自己解決の道を見出すものです。
・友だちとの関係の中で、いじめらたりからかわれたりして、子どもなりに悩むことが、すでに幼児期から起きています。そうした子どもの悩みをしっと見守っていますと、どうしたらいじめられないようになるだろうか – とか、いじめに出合ってもなんとか自分の力でそれに対抗しよう – と考えているものです。ただし、いじめられている子どもをお母さんがかばったり、相手の子どもを非難するようなことがありますと、自分で悩みを乗り越える力は育ちません。幼稚園などで先生がその力を育てようと見守っているのを見たお母さんが、先生を非難するような話を聞くことが多くなってきています。そうしたお母さんは、子どもを過保護に扱っているのです。
・幼稚園などで友だちにからかわれたときに、すぐ泣く子どもと、からかわれたことをからかった友だちといっしょに楽しんでいる子どもがいることが、われわれの研究で分かりました。すぐに泣き出す子どもは、家庭において過保護を受けています。ところが、それを楽しんでいる子どもは、自発性が順調に発達していますし、おどけたりふざけたりして自分のつらさを克服することができる子どもです。これからの人生において、困難があっても、それをユーモアでもって解決し、人生を前向きに送る力を養っているといえましょう。そのような子どもの家庭には、おどけたりふざけたりして明るく生活しているお父さんやお母さんがいることが分かりました。

ここ、とても悩むところだと思う。
現代は、単なる自己主張のぶつかりあいのケンカだけではなく、
過干渉の親に育てられて欲求不満になってましった子どもによる、
子どもらしくないケンカや意地悪が存在してしまっている。
この場合、とくに、内気な子は、いじめられて致命的な心の傷を負うのではないか、
という不安を、どう払拭するかが課題だろうと思う。
つまり、「危険がなければ」見守る という時の、その前提である
「危険がなければ」が崩れつつある。
●過干渉になっていないか

・人の為といっても、それを合わせた文字にしてもれば「偽」になる – と誰かがいっていましたが、なかなか味わいのある話だと思います。
・子どもには、「自由」が与えられると、自分で考えて自分の生活を立て直す力があるのです。そして、そうした力は、小学校四、五年生までが非常に有効に働きます。思春期に入るとなかなか対応がむずかしくなりますし、時間がかかり、二年や三年も必要になる例があるほどです。
・あれこれと注意をしたくなったり、手を貸したくなるものですが、それをぐっとこらえて「見守る」という子育てが、子どもに「自由」を与えることになるのです。そして、その中で子どもに「責任」の能力が育っているかどうかを確認する必要が生じます。「自由」を与えられた子どもには、必ず「責任」の能力が育っていることは、これまでのわれわれの研究によっても確かめられましたし、理論的にも明らかにすることができます。それに反して、子どもを放任するということは、勝手にしろ – という親の態度ですから、子どもは自分本位に行動するようになりますし、親の愛情を感じ取ることができないので、家庭は冷たい場所になり、思春期になると家出をしたり飛行少年になるのです。ですから、非行少年が多くなるという地域は、親に放任される状況があるということになるわけです。ですから、しつけとは関係が少ないといえましょう。
・中学生になり、自分の部屋を持つようになりますと、かなりきちっち整理整頓をするようになりました。それは、思春期に入りますと美しさを求める気持ちが強くなるからでもあります。このように、「自発性」の発達を中心に生活習慣のしつけを考えてみますと、少なくとも幼児期から小学校の低学年までは、しつけに重点をおくことが無理だという結論になります。きちっとしつけがついたように見えても、それは「黄金色をした籠の中の小鳥」の状態にあるわけです。行儀のしつけにしてもそうです。

もっと見守ろう。
私もまだまだ過干渉になっている。
反省。
●誤ったしつけ → 思いやりではなく気がねを生む

・「気がね」は自分の知っている人からどのように評価されるかを気にし、悪い評価を受けては損だ – という気持ちから生じているのです。しかも、こうした気持ちは、幼いころのしつけと関係していることが、共同研究者である井戸ゆかりの研究(博士論文)によって、わが国で初めて明らかにされました。それは、子どもが親の気に入らない行動をしたときに、「○○さんから怒られますよ」とか、「○○さんに笑われますよ」とか、「○○さんが見ていますよ」としつけることと関係が深いことが分かったのです。つまり、他人を引き合いに出してしつけようとする親の態度が、子どもに「気がね」の意識を強めていくのです。○○さんは、電車やバスの車掌さんであったり、近所の奥さんであったりさまざまですが、いずれにしても第三者を引き合いに出して子どもをしつけようとすることです。このようなしつけは、欧米には見られないわが国独得のしつけです。
・日本人の親切というのは、その相手が自分とどのような関係にあるかによってちがうわけで、それは功利的ですから、本当の親切とはいないことになります。本当の親切とは、相手がどのような人であっても、すべての人に対して親切であるわけです。このことをもう少しはっきりいえば、誰かに叱られるからしないといったしつけは、全く外部からの規制、すなわち他律的なものであって、「自発性」にもとづく自律的なものではないわけて、本当のしつけとしては意味のないものといえましょう。
・自律性とは、自己統制の能力です。つまり、自分で考えて、相手を助けたり喜ばせたりするにはどうしたらよいか、相手を困らせたり、相手に迷惑をかけないようにするにはどうしたらよいかを考えて、自分の行動を統制する能力を育ててこそ、本当の「親切」になるのです。それには、「○○さんに怒られますよ」とか「笑われますよ」という他人を引き合いに出すしつけは絶対にやめなければならないわけです。欧米にはこのようなしつけがないので、「気がね」の意識のない社会だということができます。「気がね」は国際人としての資質を育てるためには妨げとなるわけで、そのためにも、子どものしつけを見直す必要があるわけです。

私自身が、とても「気がね」をするタイプだから、ここは要注意。
少なくとも娘に対して○○さんが見ているから のようなしつけはしていないけど、
言葉に出さなくても、行為としてそれが現れている可能性がある。
本当に注意深く、自分の発言と行動を点検しなければ。
●夫婦関係の歪みが子どもに影響

・子どもは親の所有物ではないという発言が有識者といわれる人々からしばしばなされていますが、母親の意識からそれがなかなか脱けないのはなぜでしょうか。それは、夫との心の結びつきが非常に希薄であるからです。本当の「愛」のない夫婦生活が行われてきたからです。その場合の母親は、男の子にサービスをして、自分の面倒を見てもらおうという意識が強くなってしまうのです。

この話は、現代社会では、ますます悪化しているようなきがする。
自分の家庭がこうならないように気をつけよう。
父親(夫)の存在は、間接的ではあるが、とても重大なのだ。
●結婚相手の見極め方

・デートをしているときに、子どもの集まっているところへ彼といっしょに行ってみて、彼がどのような行動を示すかを観察するとよいでしょう。もし、子どもの遊びの仲間に入ろうとすれば、まさに子ども好きと断定してよいでしょう。子どもたちは、子ども好きなおじちゃんかどうかを直感的に見抜き、仲間に入れてくれるものです。そして、彼も子どもも楽しく遊んでいるのを見たら百点です。そして、あなたもつい引き込まれていっしょに入って遊ぶようになるでしょう。二人の間に子どもが生まれたときには、必ずよい親子関係が作られることを請け合ってもよいと思います。彼に聞いてみれば、彼の子どものときに、お父さんまたはお母さんといろいろと遊んだことの思い出が残っていて、その話が出るでしょう。
・もし、彼が子どもたちを見て、なんだか子どもか – といった表情をしたり、興味を示さないようであれば、結婚して子どもが生まれたときには、育児はお前まかせということになるでしょうし、子どもをうるさがるかも知れません。そうなると、子育ては母親の肩にのみかかり、家事もあって、負担に耐えられなくなり、子どもなんか産まなければよかったとか、ふっと子どもを殺したくなるような気持ちを持ってしまうかも知れません。そのようなお母さんもいるのです。
<封建的な考え方の具体例(抜粋)>
・夫が家事をしない。家事・育児は妻がするものだと決めている。妻をよく使う(夫婦二人の間で(家事分担の)最も差が少ないのがスウェーデン)
・夫だけで飲みに行ったり、ゴルフや釣りに行ったりして、妻とは無関係に家庭外で弘道することが多い(欧米では、飲食のときには必ずいっしょであり、パーティには必ず二人で行く)
・子どもたちを育ててやっている、養っているという意識がある。恩着せがましい。
・親の身勝手に子どもを用事に使う。子どもには子どもの立場があることを考えない。

これはまぁ、普通に考えればわかること。
でも、それを考えずに配偶者を選んでおいて、あとで愚痴をいう女性も、多い。
はじめに考えておけばいいのに。
●その他、幼稚園の選び方・音楽との関わり方

・もし、先生がなにかをさせることの多い園であったら、やめたほうがいいでしょう。さらに、小学校へ杯っても困らないように、字や数を教えます – といった小学校での勉強の先取りをしているような園は望ましくないのです。それは、小学校の先生かが文部省で決めた「指導要領」によって初めから順序良く教えることになっているからです。また、行事の多い幼稚園は感心しません。その理由は、先生のやらせが多く、子どもの自発性の発達を頭打ちにしてしまうからです。遊ばせてばかりいる幼稚園を悪くいうお母さんがいますが、それは先に述べた「遊び」の本質について知識を持っていないからです。
・音楽ではなくなって、音苦になっているといえましょう。
・鈴木鎮一氏のレッスンを見せていただいたことがありますが、子ども好きで子どもと「遊ぶ」心を持っていました。子どもにレッスンをする気持ちが少ないということを見てとると、時間いっぱい子どもと遊んだりもしていました。「童心」を失っていない人であることが見てとれたのです。

当初の鈴木メソードは、とてもよかったんだなと思う。
今、その看板を掲げる教室が鈴木氏の意志を本当に汲んでいるかどうかは、
別途考えてみる必要はありそうだけども。

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