オニババ化する女たち

女性の身体性を取り戻す

こういうことを知り、考えることを、
ホントの性教育というのかも。
とくに、子どもなんていらない・結婚もしない などと考えている女性は、
必ず読んでおきたい一冊だと思う。
そしてもちろん、
女性を愛するすべての男性も。

●価値観

・誰にでも、全部選択の自由を渡して、何でも自分の意思で好きなようにやりなさい、というのは、じつはとてもしんどいと感じる人も多いのではないかと思います。また、押さえつけられるからこそ、そこに反発して、はね返す力がついてくる、ということもあるでしょう。
・ですから、ある程度道が決まっていて、だいたい人生こういうふうに生きていけば、最終的にはそのなかで自分の人生の研鑽もできて、役割も果たせて、一生を平穏に終えて、次の世代にも何かを渡せるというような人生のオプションもないと、つらい人も多いと思います。なんでも自分で選んでいい、ということになってとても当惑している人も多いのではないでしょうか。

この本の中で自分が得た一番印象的だったところが、これ。
確かに、たたき台というか、基本形というか、
ある程度の道筋というのは、親の側が提示してあげることも大切かも知れない。
今まで、何でも自由でいいよ、というスタイルだったけど、それもよくない。
多様性や反発、変化、選択の自由については絶対に耳を傾けるべきだけど、
親である私が「私はこう思う」というものを示せないのは、問題だ。

●中年女性の性エネルギー

・民俗学者の赤松啓介氏の調査によると、日本にも、後家や中年女性が若い男子の性の実地教育にたずさわるケースが少なからずあったようです。更年期女性のエネルギーを適切に使おうとしたのでしょう。さもないと、中年女性は「オニババ」と化す、と思われていたのではないでしょうか。
・野口整体の創始者、野口晴哉は、男性の場合は「回春法」といっていつまでも若くいられるように整体術を使うこともあったが、女性の場合は必ずしも、そうやって若くてみずみずしいままでいることがよいわけではなくて、「花月」という、女性性を閉じてしまうような骨盤の動きを導き出したほうがよいこともある、ということを書いておられます。
・今、おばあちゃんが全然、やさしくないですよね。昔は、もっと受けとめるような雰囲気というのがあったのではないですか。今はおばあちゃんも、お母さんと一緒になって怒っている人がけっこう多いのです。歳をとっても若いですし、エネルギーがバリバリありそうです。よい意味でも悪い意味でも、欲が旺盛な感じがします。

確かに、特に未婚のバリキャリは、怖い。
目がつり上がったオニババを想像させるものがある。
乾いている中年女性、それが現代では不倫に走っていまうのだろうなぁ。

●セックスの重要性

・あまり難しいことを考えず、現実に「セックスする」といういこと自体が重要なのではないでしょうか。セックスというのは、からだにしてみれば、「緊張していた状態をゆるめていく」ような経験です。そういったことがないとずうっと緊張したままになっていますから、子宮系のトラブルは出てくるだろうし、それこそ語源通りヒステリック(ヒステリー=古代ギリシア語で「子宮」)にもなります。オニババ状態、です。
・説明するのがちょっと難しくて誤解も生みそうですが、女性というのは、やはり、少しボーっとしているほうがいいようです。こっちの世界にいるのかあっちの世界にいるのかよくわからないのだけれとも、ふわっとしたような感じ、というのがよい状態だと思います。やっぱり、セックスを通じてそういう感じがもっとも身近に得られると思っています。
・とにかく相手を持ったり、子どもを産んだりすることは、女性のからだにとって必要なことなんだ、と。必要で楽しいことだからやるんだ、というメッセージを伝えずに、いつまでたっても、「妊娠出産子育てはマイナスなこともあるけれども、それをカバーすることを行政が設けますから、産んでください」ということばかりでは、誰もやっぱり子育てしたいと思いません。
・『愛のヨガ』という本を書いたルドルフ・アーバンという人は、からだには電磁波のようなものがあって、電位差ができるから、セックスをすることによってその電位差を静めなければならない、という言い方をしていました。
・元気があって自分で相手を見つけてきて、さっさとセックスをしてしまって妊娠したり、させたりするような人たち、また、どんどんパートナーを作って結婚してしまう人たちは、問題ないのかもしれません。若くして子どもを産めるような社会環境を整えてあげさえすればよいのですから。問題は、上の世代からは「必ずしも結婚しなくてもよい」というメッセージを受けていて、なおかつ自分だけでは相手を見つけて結婚できない、という人たちではないでしょうか。
・性体験というのは、本来相手を次々に替えなければ楽しくない、というような薄っぺらなものではない、と思うからです。
・従来の花街などに見る、色筋の方というのは、すごいパフォーマンスで自分たちを鍛え上げてきた人たちです。ある意味では身体技法のプロフェッショナルだというふうにもとらえることができる。日本人のもともと持っていた身体文化の、一番のエッセンスが、そこには伝承されていたと思います。
・ポリネシアでは、欧米人が映画の中で、セックスのときに上にのっかってワッと終わってしまうのを見て、みんなで笑っているという。なんだ、あれは、ということで、理解できないといいます。
・日本には神社がありますが、神社は女性性の象徴が建造物になったものだという話もあります。鳥居、参道、お宮。鳥居は入り口で、参道は産道、お宮は子宮です。そして鳥居をくぐって入ってくる御神輿が精子です。クリトリスなどは鳥居についたマークみたいなものです。そんなところで、鳥居の入り口で遊んで楽しいと思っているなんて、なんてもったいないこと、と昔の日本人なら思うのではないでしょうか。クリトリスは、マスターベーション用のボタン、くらいの存在ではないのでしょうか。子宮というのは、やっぱりときどき、体操じゃないですけど、ゆるんだり、キューッと締めたり、そういうことが必要だと思うのです。収縮したり、ゆるんだりする、つまり子宮は
つねに活発に動いていたほうが健康だと思っています。健康に動くためには、ゆるむことも必要だけど、収縮することも必要で、だから性交によるオーガズムというのは、子宮が収縮するので、子宮にとってはいい運動になっているのでしょう。でも、そういうことをあまり普段できないのであれば、少しぐらいは子宮を収縮させておくほうが健康的に暮らせるので、そのための装置としてクリトリスがあるのではないかと思ったりします。だから、相手の男性がいるときにやることではなくて、御神輿が入ってくるときに刺激されるというのは、ただ副次的なものなのだと思います。
・絶対にクリトリスは触らせない、という文化もあるのです。未熟な女の子の時期に、クリトリスを用いたセックスばかりしていると、膣の感覚が開発されなくなるので、触るな、ということだそうです。こんなものだと思っていたら、先に行けない、という示唆なのです。思えばアメリカで書かれる性行動の本はクリトリスの話ばかりで、やはりとても薄っぺらなものに感じます。
・日本ではそんなに深い性の象徴を、魂の拠り所になる建築物として造っていたわけです。神社で行われている行事などにも、深い示唆かたくさんあります。
・セクシャルなことのメタファーに満ちた暮らしが、日本人にとってふつうのことだったのかもしれません。
・自然に相手にふれたり抱きしめたりすることは、セクシュアリティの健康な発散になっていることでしょう。魅力的な人に出会ったら、その人にふれてみたい、その人を身近に感じてみたい、という欲求があります。それは必ずしも、「性関係を持ちたい」というほどでもなくて、その人のからだを感じてみたい、といった程度のことで満足するような欲求です。ブラジルのような社会では、そうしう思いを、挨拶がわりに抱きしめることで解消することができるように思えました。そういう思いが満たされていると、人間関係がとても健康的で穏やかになるように見えます。性的な緊張はあまりない、親しみに満ちた関係が出来上がるように思ったものです。
・いろいろ考えても最終的には、からだにしか向き合えないのです。ほかのことに向き合っていたら、今からだを持ってここにきている甲斐がないのです。からだは、いずれ捨てていかなければならないものなのですから、今、今回持ってきたからだを、大事にするしかないですよね。そこで、何ができるのか、そこで、何を受けとめるのか。それは今しかできないことです。

とくにこの最後の部分が、とても重要なカギを握っているように思う。
自然に触れたり抱きしめたり。性関係ということではなくそれが許される社会なら、
もう少し歪んだ暗い欲望というものは、世の中からなくなってくような気もする。
男性が風俗で遊ぶというのは、そういうことなのかも知れない。
一方、女性はまだまだ抑圧されているわけだけども。

●月経の意味

・「これで女になってしまった。ああ面倒くさい」というふうに嘆息する母親を覚えている女性も、少なくないと思います。月経が面倒なことである、というマイナスの思いがこのようにして世代を超えて伝えられているのが日本の状況です。しかし、アメリカインディアンの人たちは、初潮を迎えた女性にお祝いをして、「ああ、これであなたも毎月生まれ変われるチャンスができ、女はいつでも変わることができる、毎月、月経を通じて生まれなおしができるのだよ」というふうに伝えていって、月経を喜んで迎えるといいます。日々生きていくことは、ときおりそれだけでとてもつらいこともあります。何があっても、毎月、月経ごとに、全部流していけるよ、生まれ変わることができるよ、という考え方は、次の世代へのやさしさに満ちていると思います。
・昔は平気で一人で十人とか産んでいたわけで、完全な授乳中には基本的には排卵は起こりませんから、そのころは生殖年齢にある間、月経はほとんどなかったのかもしれません。産んでおっぱい産んでおっぱい産んでおっぱい、という連速です。授乳が終わって最初の排卵でまた妊娠して、という感じだったのでしょう。月経のない二十年、というのもざらだったのかもしれません。

娘が大人になる頃には、ちゃんとした伝承をしたい。
(たぶん妻からになるわけだけど)
早くに出産するのもまた、本人にとってはいいことなのかもな。
父親としてはまぁ寂しいのだけれど。

●月経血のコントール

・現代の日本女性でも、自分の排卵がわかる、という人は少なくありません。「排卵がわかりますか」というと、だいたい誰でも「わかる」と答えられる人を周囲に一人二人見つけることができるでしょう。「なんとなく鈍い痛みを感じるから、だいたい今日だというふうに漠然とわかる」という人もいるし、「今月は右の卵巣から排出した」と秒単位で正確に排卵を認識できる人もいます。個人差が大きいですけれども、女性の話を聞いていると、これは訓練次第で感知可能な能力のように思われます。おそらくはこういった能力は、もともと動物としての人間には備わっていたに違いありません。人類学の分野では、女性が安定したパートナー関係を維持するためには、排卵に気づかず、あたかも一年中妊娠可能であるかのようにふるまうことが必要だったため、排卵が認識されなくなった、と解釈している方もいます。
・今わたしたちは、月経というものはコントロールがきくことではなく、いわゆる”垂れ流し”状態だと理解して、ナプキンやタンポンといった生理用品を使っています。ところが、今の95歳以上の女性は、月経血をある程度コントロールできたといいます。ほとんど完全にきものの生活であった当時、女性はいわゆるパンツは着けておらず、品質のいい生理用品があったわけでもないので、月経中は、ある程度自分で膣口を締めて月経血を止めることができたというのです。しかしこの身体技法は、その下の世代にはまったく伝えられてはいません。
・グアテマラのインディオの人たちも、このような身体技法を持っていたようです。
・「山道を歩く、正座して暮らす、便所にしゃがむ、風呂掃除をする、しゃがんで洗濯をする」- という昔ながらの山の暮らしが、平均身長136センチ、体重40キロという小柄でも、骨盤のよく発達した身体を作り上げていったのだろう、と報告されています。
・京都で生まれ育ってきた友人は、正座するときは、「おいどをしめなさい」、正座を崩すと「おひしがくずれますえ」と言われて育ってきたといいます。「おいど」のニュアンスは、女生外性器の後ろ側あたりをすべて含む感じになります。「おいどをしめなさい」は、だから、肛門だけを締めるのではなく、子宮、膣、外性器全体をきゅっと引き締めるようなイメージだと思います。・「おひし」というのは、女性性器をあらわす美しい上方言葉です。ひな祭りの菱餅は、「おひし」の菱なのだそうです。
・私達はこのようにして、幼い子どもたちを教育し、身体のトレーニングを行なってきたのです。しかし時代とともにきものが消え、ちゃぶ台が消え、正座の生活が日常生活から消え、女性の身体能力は徐々に低くなっていったと思われます。
・月経血の調節なんて、みんなすぐにできるようになるのではないかと思います。「あんな大きなナプキンが出回っていたころがあったけどねえ」みたいな感じになるのではないでしょうか。

娘には、正座・着物・ムドラーの三つは、是非とも教えたい。
将来、苦労しないように。

●結婚観

・今では、ふつうの人がふつうに女としてのオプションを生きる、ということを、誰もサポートしなくなっている。親のほうも、こういう言い方をすると本当に失礼なんですけれども、大した才能もない娘に、「仕事して自分の食い扶持さえ稼げればいいんだよ」とか、「いい人がいなければ結婚しなくてもいいんだ」というようなメッセージを出してしまうことは、その子にとってものすごい悲劇の始まりではないかと思うのです。人生は現代が求めている「社会的に重要な役割」を担えなければ意味がないわけではありません。女性としての、主婦としての生活というのは、修行みたいなものですから、毎日毎日同じことをしていくわけですが、その生活を極めていくという修行の上で、子供を育てたりしていると、誰でも六十、七十ぐらいになると、そのなかで自分の人生を生きていくという意味がわかって、穏やかに枯れていくことができるかもしれない、という人生のオプションがあったわけです。今の議論ではそれがなくて、ある意味全部、経済価値に置き換わってしまっているのではないでしょうか。
・仕事があれば結婚しなくてもいいよ、ということは、異性関係とか親しい人間関係がなくても、お金さえあれば生きていけるよ、というメッセージを送っていることになります。
・今の自分のレベルを下げるような相手と結婚するのならば、ひとりでいたほうがいい、と考えている人も多いと思いますが、このような考え方には大きな勘違いがあると思います。人生において子どもを産んだり結婚をしたりということは、思い通りにならないことです。それを自分の思い通りになると思い込んで青写真をえがいたり、思い通りにならないからって欲求不満になる、というのであれば、どうしようもないことでしょう。結婚において相手をこと細かく選ぶようでは、だめだと思います。
・人生なんでも思い通りになるのだとしたら、「死」や「次の世代への交替」を受け入れられません。特に、結婚とか、子どもを産むとか、誰かと一緒に住むというのは、全部「思い通りにならないこと」を学ぶことなのです。それを学ぶ一番よい機会が結婚とか、子育てでしょう。
・「セクシュアルな関係」とうのが今の家族から消えてしまっていることも、ひとつ問題だと思っています。お父さんとお母さんが、みんな「男と女」として生きていない、ということに、子どもが絶望を感じていくというようなところがあるように見えるのです。それが、直接意識はされないにしても、若い人が「結婚しない」というところにつながっている部分があるようです。子どもが家で、「あんなふうなんじゃ全然楽しそうじゃない」と思いながら親を見ている。大人がやっていることというのが、ちっとも楽しそうじゃない。大人ってなんだかたいへんそうなだけで、全然楽しくはないのだと子どもがとらえています。
・一夫一婦制がまいた幻想というのが、すごくあると思うわけです。「いつかはこの人は奥さんと別れて自分と一緒になってくれる」と思っていても、ぜったいになりません。特に社長とか院長とかそういう人は、ぜったいにならないのです。奥さんが会計などを握っているのですから。

思い通りにならないのが結婚であり親になることである という部分、同感。
ただ、それを実際に経験するまでは、
いくら頭で理解しようとしても、ダメなんだろうなぁ。
議論するだけ無駄というか。

●妊娠

・ニワトリというのは、フリーセックスで、いっぺんにいろいろなオスと交配するのですが、排卵するのは、そこにいる群れの中の一番強いオスと交配したときだけなのだそうです。つまり、ニワトリのメスとしては、このオスの子どもが産みたい、というのを判断しているらしいのですね。だから、ほかのオスとの交配のときには排卵しないのに、その強いオスとだと排卵する。「このオスの子どもだったら産もう」というのを、ニワトリのメスの側がきちんと決めているわけです。人間にももしかするとそういうからだの判断というのがあるかもしれません。卵子が「このオスがいい」と思って、ポンと出てきてくれないというケース、本当は無意識に「今のような状態で本当は子どもを産みたくないのだけれど…」などと思っていることをからだが感じ取っているケース。あるいは子宮口のほうで、どこか自分が「これじゃあ嫌だ」と思っているものを感じて拒否しているケース、といった不妊もあるかもしれません。
・子宮のほうにも心がある、というのは言いすぎにしても、子どもを授かるというようなことは、人が頭でわかっている以上に、さまざまなことが絡み合っていると考えたほうがよいと思います。
・国も不妊治療のほうばかりにお金を出すよりも、今中絶をしようとしている人にどうしたら産んでもらえるか、ということを考えるほうが、ずっと健康的だと思うのですが。

確かに、不妊治療をしている人にこれを言ったら怒られるのかも知れないけど、
事実としては、原因の一つとしては、そういうこともあるような気がする。
男性の精子だって、そういう意味では同じかも知れない。
自分に自信がなければ、弱まってしまうのかも。

●昔の出産

・「医療管理」という目で妊娠、出産を見ると、すべては「何が起こるかわからない」リスクに満ちている、という認識しか持てなくなります。そういう認識になって、もう二世代くらい経ているので、「病院以外で産んで、もしものことがあったらどうするの」という言い方が説得力があるように思われているのです。更年期になったら、すすめられるのがホルモン補充療法です。女性ホルモンが足りなくなるから、外から補給するという発想です。このように見てくると、女性は医療なしには幸せに暮らすことができないような印象を受けてしまいます。女性は実際には、長い時間、医療なしでも自分のからだに向き合って暮らせていたはずなのです。いったいどうなってしまったのでしょうか。
・赤ちゃんも、自然なお産では、泣かないことが多いのです。肺呼吸にうつる瞬間に、声をあげることはありますが、つらそうに真っ赤な顔をして叫ぶように泣く、というのは、自然に生まれたばかりの赤ちゃんの姿とは少し違います。考えてみれば、野生の状態で生まれてきた赤ちゃんが大声で泣けば、周囲に存在が筒抜けで、とても危険ではないでしょうか。自然なお産は、本来は静かなものです。
・お産はからだの自然な現象なので、女性がリラックスすればするほどからだのホルモンがうまく働いて、子宮口が徐々に開いて子宮の収縮が強くなる

このあたり、娘の世代では改善されるのだろうか。
少なくとも、妻の二人の出産では、本当にイヤな思いをした。

●子ども

・しつけをすることと、子どもをコントロールしようとすることは、まったく違います自分もコントロールされたことしかない母親は、子どもも思うようにコントロールしようとする。それは間違いです。しつけと、自分の思い通りにしてほしい、ということの違いは、しつけというのは、人間として生きていくことのルールを教えるということです。自分の思い通りにしてほしい、というのは自分の都合のいいように動かしたい、ということです。
・そういう意味では、本当に三歳くらいまでは、子どもに真剣に怒らなければならないこと、というのはこちらが落ち着いていればそんなにないと思います。三歳以前にしかっているとすれば、そのほとんどは、自分が相手をコントロールしたい、という欲望か、もしくは自分のぶれ、ゆらぎを相手に向けているかのどちらかではないかと思うのです。
・ブラジルでは子どもをせかしません。本当にじっと待っています。着替えが遅いとか、何かがスムーズにできない、とかそういうことでも、大人はずっと待つのです。ですから、子どもが「ギャーッ」となっているところを無理矢理ひきずって外に出ていく、という光景は見たことがなくて、きちんと向き合って、子どもの話を聞く姿勢が見られます。本当は、ぐずぐずしている子どもを待つことで時間がかかったとしても、実際は五分などとかかることはなくて、長くて数分待てばよいのです。でも、日本では、一分が事に関わるような働き方を大人がしているので、それが待てない。
・ブラジルでは、急いている人というのは、自分のことしか考えていない人だ、と思われているところがあります。ブラジルでは、働きすぎだとか、すごく働く、とか、すごく速くする、というのは、自分のことしか考えていないということになるのです。
・子どもは子どものときにしか感じられないことを感じて育つのかよい、と思われていますから、「大きくなったら何になる?」という質問は本当にされることがありません。「そんな先のことはわからないのに」と言っていました。子どもは大きくなって何かになるから存在価値があるのではなく、子どもが子どもであることが愛され、大切にされている、それがブラジルの社会だったのです。
・私たちは本当はもう、もともと受けとめられているのです。生まれてきたということだけで十分に受けとめられている存在なのです。ですから、親に受けとめられなかったとか、配偶者に受けとめられなかったとか、上司に受けとめられなかったとかいうことは、じつは大したことではないのです。私たちはそれこそ、自然や大いなるものの存在に受けとめられていて、みんなあるがままでいいよと言われているはずなのですから、自分のことをわっと言わなくてもいいのです。言うべきことはその役割がきたときに、出ていくものなのです。でもそこで、自分が受けとめられている意識がない人は、ついいろいろ言ってしまうのです。そして人を管理しようとさえしてしまう。人が人を管理しようという発想というのは、先ほどのしつけの話にも戻ってくるのですが、受けとめるということとはまったく逆のことです。

待つということの重要性。
今を生きるということの重要性。
「大人になったら」という質問は私もしたことがある。
でも、確かに書いてあるとおり。
「そんな先のことわからない」が本当の答えだろうな。
あるいは、「今この瞬間に何をしたい」のであって、
何に「なりたい」という発想は、子どもには、たぶんない。
なろうと思ったら、すぐになれるのが子どもなのだから。

●歪んだ現代

・建築というのは自分の見ている身体性の反映だ
・今は、ふつうの生活をしている女性でも、月経が毎月こない人たちがずいぶん多くなっているようです。それでけ日常がストレスに満ちているのか、あるいは、からだのほうが、ストレスと感じる閾値が低くなっているのか

そう考えると、家相を考えるというのは、
あながち、非科学的なことでもないのだということが、改めてわかる。
全ては心のあらわれだ。

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