公安当局の依頼でカルト信者を脱洗脳した世界最高のエキスパートが徹底解説!
自分が変わる!
他人が変わる!
人生が変わる!
本書の悪用を禁じます。(著者)
時間は未来から過去に向かって流れる
この真実を理解できるかどうかで、人生が変わる。
これは良書だ。
●洗脳とカリスマの原則
・言葉とは意識への働きかけなので、意識で対抗できてしまうのです。だから、本当の内部表現の書き換えは言語にせず、相手の無意識に書き込むようにします。無意識なら抵抗されることはありません。
・大周天 大きな自分ができあがれば、あとは普通にコミュニケーショんするだけで、まわりの人たちが自動的にあなたに同調してしまいます。同調した状況下で、こうしてほしい、こうありたいと強くイメージすれば相手はそうなるように動き出すわけです。
・相手の目の前にあるものをさりげなく動かしてみるという手法があります。面談をしている二人がテーブルを挟んで向かい合っているとします。テーブルに灰皿が置いてあったら、相手の目の前でごくさりげなくその灰皿を少し動かしてみましょう。これだけで、相手の無意識はこの空間をあなたが動かしたことを認識します。あなたが空間をコントロールしたことで、相手の無意識はあなたがこの空間の支配者であると認識してしまうのです。
・これがストックホルム症候群のカラクリです。空間の圧倒的支配者になれば相手はその人にきわめて強い親近感を抱くのです。
・価値観に影響を及ぼす「他人」で最も多いケースは「親」です。子どもはどうしても親の価値観に影響を受けてしまいます。発達心理学の研究でも、大人になってから無意識に下す判断の8割から9割が親の物真似であるというデータがあるほどです。
空間を支配すること。これに尽きる。
このイメージトレーニングは、ちょっと興味深い。
すぐにやってみよう。
●後悔が無意味な理由
・未来には「うまくいかなかった」「ダメだった」と思っていた過去を、オセロゲームのコマのように一瞬にして全部ひっくり返してしまうような出来事が待っているはずです。
・過去の選択を振り返って、「もしあのとき別の選択をしていたら」と考えることはまったくナンセンスであり、その時点であなたがベストだと思ってした選択であるならば絶対にそれがベストであり、それ以上にいい選択はない、ということです。
・「今ごろはとても幸せな日々を送っていたかもしれない」という仮定と「猟奇的なサディストで命の危険が迫ったかもしれない」という仮定とどちらが 荒唐無稽かという比較は不可能です。どうらもまったく根拠のない仮定ですから、どちらも同じくらい荒唐無稽なのです。過去の選択について悩む人は、必ず別の選択をしただろう架空の自分を現実の自分よりもいいものと考えます。「あのとき、別の選択をしていたらもっとひどい目に遭っていただろう」とは考えません。でも、実際にはそんな選択をした自分などどこにもいません。だから、今よりもいい状態になっているなんてことはわかるはずがないのです。いもしない自分と比較すること自体が無意味です。
・選択をすることは「縁」が生まれることです。過去の選択という「縁」すなわち関係が生まれることによって、現在という刹那が起こります。これが「縁起」です。誤解のないように言っておきますが、「縁起」と一般に言われている「因果」は違うものです。選択が「因」(原因)となって現在という果(結果)が生まれるのではありません。
・現在は未来における過去ですから、現在の定義、解釈は未来が決めることになります。もし、未来において夢を叶え、幸福を手に入れることになると仮定すれば、今現在、どんなに不幸なように思えても、夢を叶えた未来から見るとそれは不幸な体験ではなくなっているはずです。つまり、未来において夢を叶える人にとっては、現在がどんな状況であろうとも不幸なことではないのです。夢を叶えた瞬間、現在の出来事はすべて夢を叶えるための伏線であると解釈されるはずだからです。
・現在の状況を不幸だと考えているあいだは、決して夢を叶えたり、幸福をつかんだりすることはできません。いつまで経っても過去の出来事の解釈を変えることができないからです。逆に言えば、現状を最高だと考えられる人は未来において夢を叶え、幸福を手にしているも同然です。
「もしあの時○○していたら..
今ごろ□□になっていたかもしれないのに」
という思考がいかに非論理的で時間の無駄か、という話。
冷静に考えてみれば、まさしくそのとおり。
これは、何らかの後悔の気持ちを持っている、あらゆる人に
伝えてあげたい。
私自身を含めて。
●成功哲学の嘘
・なぜ「夢」や「目標」を紙や手帳に書くことが間違いかというと、紙や手帳に書いておかなければ忘れてしまうようなものは本当の「夢」や「目標」ではないからです。もし本当に心の底からやりたいね実現したいのなら、脇目もふらずにそこに向かって突き進むはずです。忘れないようにとか、やる気を持続させるためにというのは、目の前にニンジンをぶら下げておかないと走らないからです。ということは、本当は別にそれがやりたいわけでもねそうなりたいわけでもないのです。本来、「夢」や「目標」に向かうためには無意識が喜んでそこへ向かうようになっていなければなりません。意識レベルで思うだけでは不十分なのです。本当にやりたいことなら、「いかにしてやる気を持続させるか」などという課題は入り込む余地はありません。ですから、計画を立てたり、それを一つずつこなしていくという手法は、「本当はやりたいくないのだが、仕方がないので無理やりやるための方法」に過ぎないことは明らかです。
・「自己啓発」とか「自己実現」などの実践プログラムが、もともと奴隷や軍隊の兵士を養成するプログラムとして開発されているからです。このプログラムは精巧です。知らぬ間に、すっかり順々な兵士にしてくれます。そして、誰かが仕掛けた「夢」と呼ばれるものに向かって、本当はやりたくないにもかかわらず、自ら進んでやるようになるのです。
・世の中の成功法則本にはよく「手帳に夢を書いて何かあったら常に見る」とか「夢を紙に書いて壁に貼っておく」とか「寝る前に夢について考えてみる」などの方法が書かれていますが、これらはみな、夢とされるものへの思いが弱すぎて、ドーパミンを出し続けることができない人のための方法です。世の中にはそういう人も多いようなので、ある意味、有効な方法と言えるかもしれませんが、夢をうまく強い快楽と結びつけるか、夢への執着心が強ければ、手帳や紙に書いていちいち確認する必要はないのです。書いておかないと自分の夢がなんだかわからなくなってしまうという人には最適な方法です。
これはほんとにそう思う。
ただし、多くの人は、この情報化社会で、
何がなんだかわからなくなっている、混乱している、とは言える。
その混乱を避けるためにこそ、こういう手法が必要だと。
ということは、そもそも情報を断ってしまえば、
紙に書く なんてことをしなくても、勝手に叶ってしまうのかも知れない。
そういえば、子どもの頃の目標は、ほとんど叶っていたのを思い出す。
●目標設定とセルフイメージの関係
・途中の中間目標を設定してしまうと、目指すお城がやたらと遠くに見えてしまいます。また、人物がその途中ポイントのスケールになってしまいます。人間の器が、小さなオアシスサイズになってしまいます。目標は大きく、それだけを見つめるのです。
・主役を張るような役者は決してエキストラや端役をやりません。初めから主役なのです。エキストラなどをやってしまうと、まわりがその人をエキストラとして見てしまい、扱ってしまいます。ですから、演技の勉強のためになどといってエキストラや端役をたくさんやることは、主役に近づくどころかどんどん遠のいていくことになります。
・主役を張る役者も社長も、自分がなるのではありません。まわりの人が「あの人こそ主役にふさわしい」とか「あの人が社長なら会社は大丈夫」と思って主役にしたり、社長にしたりするのです。そこには主役らしさ、社長らしさをまわりに放っていなければなりません。だから、、エキストラらしさ、端役らしさ、課長らしさ、部長らしさを出したり、身につけてはいけないのです。
・夢が叶う人というのは、叶えた瞬間にそれを否定して別のものに取り替える人ではありません。「現在の自分が常に夢を叶えている人」です。
マイルストーンを置くやり方は、
開発プロジェクトのような、シーケンシャルに進んでいくタイプの「進捗」、
進んだところで何らかの満足が得られるものではないものでは、有効かもしれない。
でも、段階的にレベルアップしていくタイプのもの、
つまりレベルアップするごとに何らかの喜びが生じるものについては、
そこに安住して満足してしまう可能性があるから、危険、という風にも言える。
この、最初から目標を一つに置くというのは、目から鱗だ。
危うく私も、小さなセルフイメージに自分を抑えこんでしまうところだった。
●パラレル思考の力
・パラレルな思考をするには意識レベルではできません。言語とは意識レベルで行うものなので、言語を介していてはパラレルな思考はできません。無意識に働きかけ、無意識を使って行うのです。
・プログラムの開発でも同様です。フローチャートを書きながら、順を追ってプラグラミングしていくわけではありません。そういう人もいるかもしれませんが、それはIQが低いのです。本来、プログラミングというのは頭の中ですでに全部できあがっていて、いわゆるプログラミングとされる作業は、じつはそれを単に打ち込んでいくだけの作業に過ぎないのです。この場合、バグがあるとすれば、それは打ち込みのミスである可能性が高いので、じっくり見ていけばすぐにわかります。
・偉大な作曲家たちは、曲をシリアルにではなく、パラレルにつくっていたようです。モーツァルトなどが有名ですが、彼は作曲時、一小節目から順番に曲を練り上げていくのではなく、頭の中でバーンと一曲全体ができあがるのです。曲ができあがっていますから、あとはそれを頭の中で再現したり、順番に譜面に書き起こすだけです。仮定はプログラミングと非常によく似ています。画家や彫刻家も同じです。
プログラミングと作曲が似ている というこれは、とてもおもしろい。
やっている方は無意識なんだろうけれど。
●子育てでは何に気をつけるか
・いちばんいいのは、抽象思考をする癖をつけてあげて、前頭葉を刺激してあげることです。具体的にはいろいろな事象について、子どもに解釈させることです。たとえば「どうして赤信号では止まらないといけないんだと思う?」というように、問いかけてあげるのです。答えは正しかろうが、間違っていようが関係ありません。子どもが自分の頭を使って、自分なりに解釈をする練習になればいいのです。このとき大事なことは、親が知識として教えてしまわないということです。子どもに自分の頭で考える癖をつけてあげるのが目的ですから、教えてしまっては意味がありませんし、逆効果となります。親は知識を植え付けているつもりでも、子どもにとっては洗脳と同じ可能性が高いのです。
・知識は「グーグル」にでも任せておいて、あなたのお子さんには自分の頭で考える力、問題解決能力、抽象度の高い思考をする能力を身につけさせてほしいと思います。
・日本の教育では知識量が頭のよさのバロメーターのように扱われていますが、これは大きな間違いです。知識など頭の中になくても、グーグルなどで検索すればすぐに答えが出てきます。頭がいいかどうかというのは、抽象度を上げた思考ができるかどうかです。
・よく昨日の夕飯のメニューを思い出せないのは、脳が老化している証拠だなどと言う人がいますが、これは誤りです。単純に、昨日の夕飯に興味がないから思い出せないだけです。
・東大を出た官僚たちが日本をよくすることができない現状を見れば、いい学校に受かることと頭がいいこととはイコールではないことは明らかですし、ましてやいい学校に受かることと幸せになることはなんら関係がないはずなのです。
子どもが「どうして?」と聞いてきたときに、
時間がないとか面倒だからと、簡単に「答え」を与えて洗脳していないか。
頭が悪くなるような接し方をしていないか、ちょっと振り返ってみよう。
反省反省。
●お金を求めてしまう理由
・農耕・牧畜文化以降であっても、人類が餓死しないだけの食糧、生きるに足る栄養を確保し、まんべんなく行き渡らせることができるようになってきたのは、せいぜいここ数十年の話です。だから、遺伝子レベルでは、明日餓死するかもしれないという危惧のなかに未だにいると考えられます。
・ダイエットは秋より春にやれという話も同様です。秋になると、食糧がなくなる冬に備えて体に脂肪を蓄えようとするといわれています。遺伝子がこの情報を覚えているのです。この遺伝子レベルでの恐怖心をそのまま煩悩に転化して、「お金持ちになって飢え死にしないようにしよう」とか「自分の子どもだけは飢え死にしないようにいい学校に入れよう」というレベルの煩悩を「夢」と称して躍起になるのはどうにもいただけません。
・「自分の子どもたちをちゃんとまともな大学に行かせて、まっとうな人生を送れるようにしてやることが俺の役目だ」なんて言っている人は、単に子孫を残すため、自分の遺伝子を残すためだけに生きているような人です。利己的な遺伝子に支配されたまるっきり空っぽの箱、単なる遺伝子運搬装置に過ぎません。
つまり、お金ばかり追求するとか、
ぶくぶく太るというのは、お猿さんとか、爬虫類とか
そんなものと一緒だということの証明。
●利己的・煩悩的な潜在意識メソッドが危険な理由
・あらゆる存在はゲシュタルトですから、「私」なるものも関係性によってその意味は変わってくることになります。つまり、自分だけが自分勝手に「なりたい私になる」などと言ってみても、他との関係性によって意図したものとはまったく異なる「私」になってしまうことがあるのです。「私はハ長調の主音である『ハの音』になる」と思っても、曲全体がハ長調じゃなければ、自分だけが主音だと勘違いしながら不協和音を発し続けることになってしまうわけです。「自己実現(自己だけ実現)」とか「なりたい私になる(私だけが勝手になりたいものになる)」という考え方がいかに無意味であるか、いかに間違った考え方であるかを「空」「ゲシュタルト」という概念とともにもう一度見つめ直してほしいと思います。
・自分やそのまわりしか幸せになれないちっぽけな夢、生命維持や子孫を残すことなどの本能的欲求を人間としてのIQで乗り越えて、大きな夢を抱いてください。
「全ては縁起している 相互依存している」という仏教的な感覚を
西洋哲学的にいうと「あらゆる存在はゲシュタルト」というとになるのだろう。
これはとてもわかりやすい。
●その他
・一般的に西洋の数学的、哲学的には上に開いていると考えるのが一般的です。つまり、抽象度は無限に上げ続けることができると考えられていたのです。ですが、私はここでこの考え方に歴史的な一石を投じたいと思います。抽象度を上げるのには限界があり、その限界とは「空」であるということです。これこそが「空」の数学的定義であると言ってもいいでしょう。
・国の論理はこういうことでしょう。「富の再分配をするものとして最も優れているのは国である。俺たちが税金としていったん集めて、上手に再分配してやる。だから文句を言わずに税金を払え」
・「お前はアメリカンショートヘアだ」「お前はロシアンブルーだ」と競い合っても、抽象度を上げて「ネコ」という視点で見ることができれば「おんなじネコじゃん」となって競う理由がなくなるでしょう。