マイケル・サンデル大震災特別講義 私たちはどう生きるのか

「日本の人びとが表した美徳や精神が、世界にとって、大きな意義を持った」
NHKで放送され大反響を読んだ特別講義。
ハーバード大学での講演も併載

・この試みは社会学的な実験ではありません。私たちが行いたいと考えているのは、いわゆる「グローバルな教室」を作ることができるか、ということなのです。もしこのようなグローバルな教室によって、学生たちが倫理・政治・哲学上の難問について共に論理的に考えて議論を交わし、時に反駁し合いながらもお互いの考えに耳を傾け学び合うことができるのであれば、それがやがてグローバルな公共の空間へと発展し、国境や文化の壁を越えた、私たちがこれまで経験してこなかったような議論をも可能とするかもしれないのです。
・そもそも哲学的な議論とは、論理と理性だけで語られるべきであり、感情や感覚から切り離すものだと考える人たちがいます。彼らによれば、哲学の究極の目的は、私たちの感情や感覚、信念を置き去りにして、それらを矯正するためのある種の理性に辿りつくことです。しかし私は、哲学をそのようなものだとは思いません。私が関わっている哲学、つまり政治哲学、道徳哲学では、人間の関係性や義務、責任について扱います。少なくとも、この分野の哲学では、論理と理性を一方に、そして共感や理解を他方に、というように分けることは不可能だと思います。最良の政治哲学は、西洋ではソクラテスに遡り、それは対話と議論、理解と反論を伴うものでした。人が理解し、反論するということの中には、理性だけでなく情熱や信念というものが当然含まれるのです。ですから、私が提案しているグローバルな対話の場においては、人々の信念や文化、伝統や情熱や感情から切り離された、貧弱な論理や理性を目指してはいません。むしろ、いかにしてそうした信念や伝統、情熱や感情が反映された熟慮を重ねることができるのか。それが目的です。

この言葉に、サンデルさんの人気の秘密があるのだろうと思った。

●サンデル

・私たちがグローバルに、公共の場での対話を積み重ねていけるかどうかにかかっています。そして、そこでは単なる共感を超えたものが必要となります。もし私達が共感だけに頼るのであれば、アダム・スミスが言ったように、それは一過性のものに終わってしまうでしょう。
・今回のことは民主主義に対する究極のテストだと思います。人々にとって最も重要な問題、最も熾烈に争われるような問題が、公然と敬意をもって議論できるかどうか。ですから、日本でこの議論が真剣に行われることを期待します。

これが、もっとも重要なところ。私達の世代に与えられた課題の本質だろうなと思う。
確かに、震災から二年たった今、当初の感覚、
当初人々の中にあった意識は、もはや薄れてきているように思う。
少なくとも東北以外では、いつもと変わらない日常に近づいている。
それは、共感と感動が、議論に深まっていないからだ。

●原発についての議論

・石田衣良)僕が一番怖いのは、今回の震災や放射能事故のせいで、人が進むことを止めてしまうことだと思います。その場に座り込んでしまうこと。火を発明した時、鉄を発明した時、自動車や飛行機を作った時、必ず最初は危険でしたね。その危険をすべて乗り越えて、少しずつ前進してきたのが、人類の歴史だと思っています。
・ナディーム)空を飛ぶことには常にリスクはつきまといますから、飛行機も危険です。でも、ある時飛行機が墜落して、その結果大きな災害が起きたとしても飛行機を使わないわけにはいきません。時には、それが唯一の手段の場合もあるのです。原子力も同じことだと思います。
・ジャン)原子力の問題については、災害の規模と範囲が他とは全然違うと思います。飛行機などと比べている人がいますが、スケールが違いすぎて同じには考えられません。これはもう、日本だけの問題ではありません。日本の放射能事故の影響は中国ヤアメリカにも及ぶわけですから、世界中が関心をもって取り組まなくてはいけない問題なんです。

贅沢をしている人に注目している人は、生活レベルを落として原発を止めろという意見になるし、貧しい人に注目している人は、限定された範囲での原発利用はやむを得ないという意見になる。対象を限定しないと、意見は平行線になってしまうのだろうな。

●日本人の対応について

・ローラ)私は、今回の震災のような人間性が問われる局面で日本人の素晴らしい対応を知り、同じ人間として誇りに思うことができたのです。

震災の話とは直接関係しないのだけど、
自分が映画やドラマで感動して涙するのは、この部分だ、
なんてことに、この人の発言で気づいた。

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