またまたバイブル級の本に出会った。
早教育に関しては、ほかにも七田式や家庭保育園系の出版社のもの、
最近では久保田系のものも色々ある。
でも、それらすべての元ネタ本ともいえるのが、これ。
多くの本から引用されている、原点。
これ一冊あれば、その他はいらないかも知れない。
今の時代の常識とは違うけれど、自分は疑問に思っていたこと、薄々感づいていたことことなどを、はっきり言い切っていて、心強い。
フランクリンに限らず、頭を盛んに使う人はすべてここに注意する。ところがヴィッテの父は百年前に、これを子供に適用した。彼は子供精力が、消化にばかり費やされるようでは、とうてい頭がよく発達することができないと考えた。だからヴィッテを育てる際、胃袋を過労させるな、必要以上に食わせるなという主義をとった。
もちろん子供の成長は迅速なものであるから、大人とひとしなみではいけない。盛んに栄養をとらなければならない。しかし多くの子供は、いわゆる必要以上に食って胃袋が過労している。だから頭が鈍くならさせるを得ない。
子供にはたくさん食べさせなければならないという、表面的な観念を捨てよう。
いけないことは初めからいけないとすれば、子供に苦痛がない。子供をよく躾けるには、親たる者は物事の善悪に関して、首尾一貫した定見をもっていなければならない。無定見は子供の教育にも大禁物である。また父と母が同意見でなければならない。慈母厳父というが、もしこれが二人の意見が違うことなら、寛厳一致しないことなら、この主義は決してよい主義ではない。
厳しくするのではなく、初めから一貫性をもてばいいのだ。ただそれだけのこと。とくに難しいのは、夫婦の一致よりも、父親の実家の考え方と、母親の実家の考え方。彼らとの接点をどう乗り切るかの方かも知れない。
彼は子供の理性を曇らせないこと、子供の判断力を狂わせないことを、教育上最も大切なこととした。だから彼は、子供を叱るのに、子供がなぜ叱られるか分からないような叱り方をしなかった。親が事実を見誤って子供を不当に叱ることは、教育上きわめて悪いことである。また親の叱責や禁止が正当でも、子供がその理由を分からなくてはやはりよくない。これがすなわち専制であって、子供の理性を曇らせ、判断力を狂わせるのはこの専制である。
この説明として書かれていた、ヴィッテ父子の会話はとても興味ぶかく、わかりやすく、すばらしいものだった。見習おうと思う。
子供は野放しにして置くと、相手を選ばずどんな子供とでも遊ぶから、いろいろな悪徳を覚える。例えばすれっからしになる。時には手淫を覚える。彼は子供が賭博をしているのを、路傍で絶えず目撃するといっている。また、彼らがけんかをしているのを、幾たび仲裁してやったか分からないと言っている。
いったい子供がほかの子供と遊ばなければ、楽しみがないと思う考えは、きわめて間違った考えである。なるほど子供は、子供らだけで遊べば、言いたいことを言い、したいことをし、勝手気ままができるから、それを好むのは当然である。人々はこういうことを、子供の楽しみというのだろう。しかしこんな楽しみは、むしろ無い方がよい。われわれが子供のような心になって、一緒に遊んでやれば、子供は楽しく、しかも無害有益に遊ぶことができる。
ジャネットドーマンの講演でも幼稚園と社会性についての批判的な話があったが、やはりここでもこの話が。やはり自分の直感は正しいのかも知れない。幼稚園、本当に行かせる必要があるのかどうか…。
ヴィッテの父は、ヴィッテの「行為録」というものを作り、彼が善いことをすれば、これにそれを書きつけて、永く記念するようにした。
子供を育てる時に、その経過を記録に留めておくことを勧めている。これは、毎日書くのが一番よい。その記録の内容は、子供に何という言葉を新たに教えたとか、子供が何という言葉を初めて使ったとか、どんな事に興味を持ったとか、どんな悪い傾向を表したとか、どんな事で叱ったとか、どんな事で褒めたとか、どういう智能を表したとか、どういう知識を与えたかというような事である。
今からでも遅くない。これをつけて、将来の子供にプレゼントできたらいいなと、思った。
ヴィッテの父は、聖書中の話や、古今のいろいろな話や、詩中の話等を引き合いに出して、ヴィッテの善行を勧めるのが常であった。彼はこのために、ヴィッテに幼い時から、これらの話をよく覚えさせたのであった。だから彼が、「カール、誰それはこういう時どうしたか」と言えば、ヴィッテは直ちに悟って、あるいは悪事を止め、あるいは善行を励むのであった。
これもさっそく実践しよう。まずは自分がいろいろな伝記を図書館から借りてくることから!
ある人の調べによると、天才の平均寿命は71歳である。要するに、天才は大抵長命である。ただ、音楽の天才には、短命が多かったようである。
夭折という言葉があるが、天才は必ず病弱で薄命であるという誤った観念を植え付けられているとしたら、大変危険だ。ばかげた観念にだまされてはならない。
早熟な子供の陥りやすい禍は自惚れである。自惚れに侵されれば、どんな天才児でもだめになってしまう。私の父は、私がこの害毒に侵されないように非常に苦心した。彼は常に、人々の讃辞を私に聞かせないように注意した。彼自身も決して私を褒めなかった。だから私は自分の学力が、年に比べて異常であることを知らないでいた。
褒めすぎが害であるということにはじめて気づかされた。よかった。今の時代、褒めて育てることの重要性ばかりが叫ばれているので、ここ、要注意かも知れない。
ゲーテの教育には、彼の母の功績を見逃してはならない。彼女の功績は、父のそれに決して劣らなかった。彼女は非常にお話の上手な婦人で、ゲーテが二歳のころから、毎日日課のようにお話をして聞かせた。たびたび言うように、子供の教育に一番大切なことは、早くからその語彙を豊富にして、いわゆる訳が分かるようにすることである。早教育の根本は実にここにある。
子供の精神の発達をはかる手段とは、子供に早くから言葉を教えることである。人々は、このことについて全く間違った考えをもっている。言葉は思想の道具である。だから、子供が六歳になるまで一生懸命に正しい言葉を教えるならば、その子供は必ず、ほかの子供がどうしても追いつけぬほど先に進んでしまうであろう。
そうか…やはりポイントは言葉だったんだ。私は間違ってなかった。今までどおり、まずはここに注力しよう。
大学者も多くは早熟であった。カントは七歳で教壇に立って生徒を教え、ローマ法王レオ十世は、やはり七歳で僧職についた。
ちょっと気になっていたカント。私の好きなカントも、そうだったということ、初めて知った。
子供の幼年時代は、一般に無為に浪費されるのが常であるが、私の受けた教育から推して考えるのに、この一般に無為に浪費される幼年時代に、子供は実に驚くべく多くの知識を学び得るものである。
財産の相続は現なまであるが、能力の遺伝は現なまでない。親から子に遺伝する能力は、いわゆる可能能力であって、そのままでは効力がない。それが発揮されて初めて効力を生ずるものである。
いくらたくさん勉強しても、興味をもって進んでいるのであれば、神経は決して害われない。嫌や嫌やながら、無理に勉強する時、その害は現れる。このことからも、今日の教育こそ、子供の神経を害するものであることは明らかではないか。
子供の二、三歳から教育すると、子供は喜んで、進んで勉強するようになる。この結果、十歳ぐらいになれば、はや優等の大学卒業生に劣らないほどの学力を得てしまう。しかも、身体がよく発達し、精神の障害などは起こらない。
ところが、わが国の子供は、小学校で八年も費やし、まだ読み書きさえ満足にできない。
学校に入る前の幸せな時間に、親子で楽しく遊びながら世界を知る日常。そして10歳ぐらいでそれを終えてしまって、あとは好きなことをする人生と、学校にあがってから、毎日苦労しながら大学受験までを勉強漬けで乗り切る人生、いったいどちらが子供にとって幸福なのか。考えるまでもない。
子供の時に入った恐怖や迷信などは、病菌と同じように精神に故障を起こす原因となる。だから、子供には決して幽霊、悪鬼、地獄、妖怪などの話を聞かせてはならない。まして、これらによって恐喝することは、特に悪い。
世には子供が寝る前に、一日の締めくくりとして叱ったり無恥ったりする母親があるが、これは非常な誤りである。子供は顔に微笑みをたたえながら夢の国に行かなければならない。
胃袋に、よく吟味した食物が必要なように、頭にも、吟味した食物が必要ではないかと。子供に養分のある消化し易い食物を与えるように、どうして我々は、子供に精選した知識を与えなくてよいのかと。全く、我々は、子供に養分のある消化し易い食物を与えるように、彼らに有益な知識を、わかり易く調理して教えなければならない。知識は精神の食物である。子供に知識を与えないでその精神の発達を望むのは、いわゆる木によって魚を求めるようなものである。
世間では、三種混合などの予防接種はするし、インフルエンザの予防や子供の衛生面には非常に気を遣う。でも、子供の心に有害な「情報」…例えば悪習を持つ他の子供との接点や、暴力や低俗なメディアに対しては、ほとんど無関心。平然と子供をそのようなウイルスに曝してしまっている。早く寝かせるためにお化けを使うなんていうのも、もってのほかだ。この意味で、私はせなけいこ氏の書く本が嫌いだ。
子猫が親猫の尾にじゃれるのは、将来鼠を捕る能力を発達させるためである。また、子犬が親犬と咬み合いのまねをするのは、将来野獣を咬み殺す能力を発達させるためである。子供も同様に、将来用いる能力を発達させるために、遊びをしなければならない。そして、その遊びは将来用いる能力を発達させるという目的に適ったものでなければならない。だから、子供の遊びは放任しておかないで、親が必要に応じて指導しなければならないことは明らかである。犬や猫でさえ、子の相手になって遊んでやるではないか。親たる者は、喜んで子供の相手になって遊んでやって、その身体の発達と、知性と徳育の発達をはからねばならない。
世間には子供の品性を養成する機関がないから、この任務は言うまでもなく母親の任務である。だから子供の品性の養成を怠る母親は、母親の義務に不忠実な母親である。
子供の心は不思議な畑であって、思想の種を蒔けば行いの収穫を生じ、行いの種を蒔けば習慣の収穫を生じ、習慣の種を蒔けば品性の収穫を生じ、品性の種を蒔けば運命の収穫を生ずる。だから子供の運命は母親の手のうちにある。
子供との遊びというものは、子供への最高の贈り物。これを他人に任せるなんて、絶対にできない。仕事をしてなかったら、妻とともに自分が毎日、子供との時間を過ごしたいぐらいだ。
子供が怪我などした時、あまり労わりすぎてかえって子供を不幸にする母親があるが、これは非常に間違っている。こういう時は、怪我の話は早く切り上げて、子供の心を他のことに転じ、痛みを忘れるようにしなければならない。
私は子供に姉や兄のお下がりを着せることはよくないと思う。家庭によっては止むを得ないであろうが、できることならこれは止めたほうがよいと思う。子供の自重心はこういうことによって、驚くほど害されるものである。
食事の時の話は、彼女のわかる話題を選んで、対等に語り合う。
これも、ちょっと気をつけなければ。
子供には臆病者の常套語である「できません」という言葉を言わせてはならない。
これは、自分の接し方が間違っていなかったと再認識できた。子供は、できないのではなくて、ただ、やり方がわからないだけなのだ。それは大人でも同じこと。世の中に、できないことなんて、何もない。
子供がどんなに馬鹿らしい質問をしても、決してそれを嘲笑してはならない。嘲笑しないで親切にそれに答えてやらなければならない。子供の質問を嘲笑すると、子供は恥ずかしがって質問しなくなる。質問は子供が知識を取り入れる窓であるから、大いにこれを利用して、その心に知識を入れてやらなければならない。自分の知らないことを尋ねられた時は、人に聞いたり研究したりして答えなければならない。
もちろん私は笑ったりしない。でも、周囲の大人が笑うということは、あるかも知れない。そんな時には、静止しなくてはならないな。そういう人も多い。気をつけなくては。
心理学者の言う視覚型とか聴覚型とかいうことも、後天的なものであって、決して先天的なものではない。
NLPでいうところの視覚・聴覚・体感覚のVAKの話というのは、結構昔から言われていたんだな。下手にNLPを知っていると、子供までそれにはめこんで考えてしまいそうになるから、要注意。可能性は無限大だ。遺伝のせいにしてはいけない。