シュタイナー自身による「シュタイナー教育入門」
わかりやすくその真髄に迫る絶好の基本図書
全面新訳
子育てとしてのシュタイナーを理解するために、
色々なシュタイナー本を読んだ。
けど、最初にこっちを読んでおくべきだった。
というのは、シュタイナー本人が書いたものの方が、わかりやすい。
10代、精神世界にどっぷり浸かってた自分のような人間だからだろうか。
●七歳まで – 原則
・七歳までの時期に教育者がゆるがせにしたことを、その後になって取り返そうとしても困難である。生まれる以前には、母親が身体のための正しい環境を作ってくれたが、生まれたあとは教育者が正しい物質的な環境を用意しなければならない。
・世界中を旅行したとしても、そのすべての世界旅行よりも、生まれてからの数年間に乳母から学んだことの方が、あるかに大きい
・思春期になって初めて、人間はこれまで学んできた事柄について自分で判断を下すことができるまでに成長したのである。あまりに早い時期から自主的な判断をさせようとするくらい、人間に悪い影響を与えるものはない。自分自身の中に、まず判断や比較のための材料を十分に貯えたとき、初めて人は判断を下すことができる。それ以前に自立的な判断をしようとしても、そのための基礎が欠けているのである。
・シュタイナーによれば、早期教育を受けて、四歳、五歳のときに文字を強制的にたくさん憶えさせられた人が、40代になってからリューマチのような肉体の障害に悩まされることがあるというのです。
・ゼロ歳から七歳までの子どもは、いわば催眠術の被術者の状態で外に向かっていると言えます。
早期教育という言葉の定義をまず行う必要がある。
シュタイナーがどのような理由でどのような早期教育を否定していたのかを考えれば、
早期教育そのものを無条件に否定するのではなく、
模倣されるに価値のある環境を与えるような早期教育というものなら、
それは肯定されうるということが、わかる。
うわべだけの知識で判断するのは、危険だ。
●七歳まで – 模倣される
・子どもに正しい働きかけができるのは、道徳的なお説教や理屈にかなった説明などではなく、周囲のおとなが子どもの眼の前で行う行為なのだ、ということが分かる。お説教では肉体の形態を作り出す働きにならない。
・愛情に包まれて、健全な手本を模倣することができるとき、子どもは正しい世界の中にいる。子どもに模倣させられないような事柄を子どもの環境の中に生じさせないように、できる限りの努力を払わねばならない。「そんなことをしてはいけないよ」と子どもに言わなければならないようなことを、われわれ自身が子どもの前でしてはならない。
・意味によってエーテル体に働きかける教育は、エーテルの外皮が子どもから抜け落ちる、歯の生え変わりのあとになってから行う方がよい。模倣による言葉の学習を七歳以前に始めるとき、子どもは聴きながら語ることを学ぶ方がよい。文法の規則から入る学習は、決してよい結果を生み出さない。幼児期のために特に重要なのは、たとえば童話のような教育手段を通して、できる限り調和した言葉のリズムを感覚に印象づけることである。意味よりも、むしろ美しい響きに価値を置かなければならない。何かによって眼と耳に新鮮な印象を与えることができればよいのである。たとえば音楽のリズムに従って、踊りの動作をすることは器官形成を促す大きな力になる。
・もしも子どもの頃に、あらかじめこのような形象を通して、魂の不滅を受け容れることがなかったとすれば、あとになってこの事実を知的な概念だけによって受け容れることは難しいであろう。言い換えれば、この比喩は、われわれの知性に訴えかけるのではなく、感情と感覚に、そして魂全体に訴えかける。自然法則や宇宙の秘密を物語るとき、教師が比喩を自由に用いるのは非常に重要なことなのである。
・周囲の人びとの一挙手一投足が、無意識的に、自覚されずに、微妙に、そして内密に知覚されます。子どもの周囲に怒りっぽい人がいて、いらいらした感情を動作に表し、子どもにそれを、先ほど述べたような仕方で、無意識に知覚されますと、、たとえ無自覚であったとしても、子どもは道徳とどこかで結びつけて、その動作を受けとります。
・善いこと、悪いことを掟として教え込み、そうすることで幼児に何かをしてあげられた、と思うのは、まったくの幻想です。私たちにできるのは、子どもの前に模倣すべき手本を示すことだけなのです。
このあたりは、モンテッソーリの話ととても近いものを感じる。
言葉で伝えるのではなく、態度で示すことが重要。
ちょっと自分、言葉が多かったかなと反省。
それよりも日常生活の一挙手一投足、いや発言や感情の動きすべてが、
子どもに重大な影響を与えていると覚悟する必要がある。
逆にいえば、子どもを怒るということは、
自分が怒られるような行動をどこかでしているということを意味する。
●歯の生え変わる時期 – 感情にはたらきかける
・幼児にとって模倣と手本が教育のキーワードであるとすれば、今問題にしている年頃の場合には、つき従うことと権威をもって臨むことがそのようなキーワードとなる。
・子どもの間違った習慣や傾向に対して警告を発することは、ほとんど意味を持たない。けれども、悪い人間の生なましい姿が子どもの想像力に訴えかけ、それによって、悪行に陥った者が、現実生活の中で、どんな目にあうかを示すことができるなら、多くの悪弊が克服できるであろう。発達しつつあるエーテル体に対しては、抽象的な観念ではなく、心の中に生きいきと現れる形象だけが影響を及ぼせるのだ、ということである。できるだけ生きいきと物語らなければならない。すべての成果は物語る仕方そのものにかかっている。だからこそ、お話をする代わりに、本を読ませればいい、と思ってはならない。
・エーテル体にとりわけ強い印象を与えるものは、永遠なる大宇宙の根拠を感じさせ、体験させてくれるもの、すなわち存在に対する畏敬の感情である。人間はこの年頃にそのような深い宗教的な体験を持つことができなければ、決してその意志も性格も、健全な発達を遂げることができないであろう。
・降りてきた霊的 = 魂的存在の個性が強ければ強いほど、第二のからだは個性的な形姿を示します。その個性が弱ければ弱いほど、できるだけモデルに忠実に従おうとします。
・歯が生え変わるまでの子どもは帰依する態度で環境の生活表現を直接模倣するのですが、歯の生え変わりと思春期との間では、教育者が権威をもって語る言葉を帰依する態度で受け容れます。先生は世界秩序の代表者です。成長しつつある子どもはまず信頼できるおとなを通して、世界を知るようになるのです。
・七歳までの幼児は、環境に帰依し、環境とひとつになっていました。この帰依する態度は、「宗教感情」のこの世での現れである、とも言えます。子どもが七歳を過ぎますと、全身で環境に帰依する代わりに、自分の魂の力で他者の魂に帰依するのです。先生が子どものところへ近寄ります。子どもは先生を見上げて、この人は何が善くて何が悪いのかをすべて知っている、と当然のように思います。それまでは周囲の人びとの身振り、人びとの動きに従っていましたが、今は先生の言うことに従うことが、子どもの魂にとって必要なのです。七歳から十四歳までの子どもは、当然のように、権威に従いたい、という道徳的な願いを持っているのです。ほぼ七歳から十四歳までの子どもが、先生から教えを受けるとき、これはいい、これは正しい、これはよくない、これは間違っている、と知的に判断しないで、先生がいいと言っているのだから、これはいいことだ、先生がきれいだね、と言っているから、これはきれいなのだ、と思うのは、人生における自然法則のようなもので、子どもの成長にとって必要なのだ、ということなのです。
感動、伝記、ワクワク、畏怖、原体験、
そのようなところが、キーワードになるのかも知れない。
そして帰依という言葉による説明が、とてもわかりやすい。
●歯の生え変わる時期 – 記憶にはたらきかける
・感情や感覚や心情によっても、知性によるのと同じように、事柄の本質が理解できる。概念は世界を理解する諸手段の一つであるにすぎない。知性を世界を理解するためのただ一つの手段であると思うのは、唯物論的な立場だけに生じる誤解である。
・子どもは文法規則を知的に理解しないでも、言語を自由に話すことができる。同様に、子どもは、あとにならなければ、概念的に理解できないような事柄をも、記憶力を働かせてあらかじめ学んでおく必要がある。それどころか、純粋に記憶だけで身につけておいたものこそ、あとになって最上の仕方で概念的に把握することができるのである。すでに話すことのできる言語の方が文法をよく理解できるのと同じである。理解できない内容を記憶させるのはよくないという非難は、唯物論的な偏見にすぎない。
・もしも記憶力を育てるべき時期に、あまりにも子どもの知性の働きに頼ろうとするなら、子どもに対して罪を犯すことになる。魂の働きの中でも、知性は思春期になって初めて生み出される。したがって思春期以前に、外からこの働きに影響を与えてはならない。思春期以前の子どもは、記憶力を通して、人間精神の遺産を受けとるべきなのである。あとになって、概念によって把握できるように、あらかじめ記憶に刻印づけておくことが、子どもにとっては大切なのである。
・私たちは歯の生え変わりから思春期までの義務教育期間の子どもを、まだ主知主義的な仕方で教育してはいけないのです。道徳教育をするときにも、まだ道徳を知的に教えてはなりません。
フラッシュなどの方法論は、むしろこの時期にやるのがよさそう。
理由や、概念や、背景にこだわらなくてもいいのだ。
自分は、そのあたり、ちょっとこだわりすぎていたかも知れない。
大人の場合には、「どうして」タイプと「行動」タイプと「どのように」タイプがあるけど、
子どもの場合は、必ずしもそうではないということなのかも知れない。
●教育者のマインドセット
・われわれが比喩で誰かに語りかけるとき、われわれが語ったり、示したりすることだけがその人に影響するのではなく、語りかける人から或る微妙な、霊的な流れが、それを聴く人の方ほ流れていくのである。語り手自身が、自分の比喩に信頼の感情を持つのでなければ、それを受けとる者にどんな印象をも与えることできない。
・幼児教育者にまず求められるのは、まだエーテル体組織のすべてを自分の中に担っている時期の身体組織というものがどんなものなのかを、自分で体験してみることなのです。このことだけが幼児であることの意味を理解させてくれるからです。抽象的な教育理論だけからでは何も始まりません。
・教育者のなすべきことは、真なるもの、善なるもの、美なるものを子どもの前に提示するだけでなく、本当にそうなのだという実感を伝えることです。彼の存在そのものを子どもに流していくのです。彼の教える内容をではありません。すべての教えは本質的に範例となって子どもの前に提示されねばなりません。
・植物の種の中に、根を張り、のちに花を開き、実を結ぶものがすでに存在しているように、歯の生え変わるまでの子どもの中に、–子どもはこころの動きを全身で受けとめるのですから–幸と不幸、健康と病気の種が、死ぬまでの地上生活のすべての種が播かれているのです。
・私が四年間幼児のそばで語ったり行ったりしたことは、その子が60歳になっても、その子の中に生き、そして最晩年になっても、それが自分の運命として感じられるのです。
・何かを教えるために幼稚園があるのではなく、模倣運動と感覚体験を個々の家庭でやるよりももっと自由に、危険でなくできるための環境を与えるのが幼稚園なのです。
・幼稚園の先生という仕事は、シュタイナーによれば、あらゆる職業の中のどれよりもこれからの社会に大きな影響を及ぼす大事な職業なのです。
教師の存在。そして言霊の力。
なんだか、マネジメントのことを言われているような気がする。
この重要な意味をもつ、影響力の大きい仕事が、現代ではあまりにも軽視されているような気がする。
この状況をなんとかして変えたい。
●その他
・いわゆる「きれいな」お人形本物そっくりの髪の毛や、きれいに塗られた頬のお人形…将来の美的感覚を損ないかねない、とさえ言うことができる。一枚のナプキンをたたんで作ったお人形を人間として見るために、子どもは自分の想像力で補足しなければならないが、想像力のこのような働きは、脳を形成するのに非常に有益であり、脳はそれによって健全な発達を遂げる。腕の筋肉がふさわしい運動をすることによって発達するのと同様である。
・興奮しやすい子には赤か橙色で周囲を取りまき、そのような色の着物を着せてやらなければならない。これに反して不活発な子には、青または青緑色を選ばなければならない。大切なのは、子どもの心の内部に、反対色として、生み出される色なのである。
このあたりは、他のシュタイナー本でもよく書かれるところ。
全体的な感想としては、
霊性を理解している人が、
才能低減の法則や、あるいはモンテッソーリのいう敏感期の考え方等を
ふまえて子育てを考えるとき、こういう形として整理される
という印象がある。それらとの矛盾も、ない。
大脳生理学が注目されているようだけど、
私からするとそれらはちょうど、近代科学の発展により
急速に工業化が進んで効率化と文明の発展が進んだけれど、
同時に公害をたくさん生み出した時期と、似てている。
脳の構造が解明されはじめた今の時期、
子どもの力をむりやり引き出す、テクニカルな活用方法が流行る。
しかし少し時間が経ってから、その副作用や、リスクが次々と明らかになる。
そして、より安全なかかわり方が、理解されていく。
いつも同じそのようなプロセスが、子育ての世界でも、くりかえされる。
私としては、シュタイナーこそが
最先端に最も近いところにあるのではないか、
と思う。