14歳までのシュタイナー教育
つづけて欲しいシュタイナー教育。
知恵を磨くことは私の喜び。私は世界と結ばれる。
松井るり子さんは、好き。
前の「七歳までは夢の中」に続く一冊。
早いもので、娘も来年には小学生だ。
●七歳までの教育と一四歳までの教育
・幼児に知的教育をしませんが、学齢期には積極的に知恵を磨きます。その目標は問題集が解ける力にとどまらず、これまで誰も解いたことのない人類の難問を、将来解いてゆく力をつけることです。
・十四歳までの子どもに働きかけるのは「抽象的な原理や理念ではなく、イメージ(心像)なのである。教師は、授業の中で、いつでも子供の心の前に人間の存在や態度の具体的イメージを展開して見せる機会を持っている。そのようなイメージを手がかりとして道徳的共感や反感が引き出されてくる」
・私が感心するのは、こういうところだ。幼稚園で自然素材のおもちゃに囲まれて暮らしているのを見ると、行く末は文明を拒否した閉鎖的な集団要因にするつもりかな? と、少し心配になったりする。しかし、八年生(中二)までの数学の総仕上げとして、お金の計算をして実社会で役立つ人間になろうという姿勢を示し、工場見学をしてこの社会の文明の姿を知り、受け入れようとするところを見ると、心配やミーハー気分は消えていく。
・彼らに不思議のベールをそっと持ち上げて見せ、手足と頭と言葉を使って、世界の美しい秩序と自分との間に、確かなつながりをつけさせるのが勉強です。勉強をするなかで、世界と私がいい具合に結びついているということを納得し、さて自分はどう働こうかを見付けるのが、大人になるまでに子どもがやっておく仕事です。大人は子どもの代わりに勉強してやることはできませんが、世界と自分の間に、何か明るい結びつきが持てないと不安だよね、ということを、子どもと一緒に味わってやることはできます。
・花を彩る色がどこから来るのか、月の満ち欠けがなぜ起こるか、蜜蜂はどうやって生きているかということを知った前と後とでは、後の方が世界の美しさに対する畏敬の念が増していることを、子どもと一緒に味わうことができます。
七歳までは夢の中 に書かれてある内容を誤解しないように注意したい。
中途半端に聞きかじった人が、シュタイナーを文明の拒否ととらえるのは誤りだ。
とくに宗教アレルギーのある日本人や、LOHASという言葉に
ネガティブな意味で過激に反応したような人は注意が必要。
むしろ、天才をつくる真の統合学習に近いのが、シュタイナーなのだ。
おそらく七歳までのベースがあるからこそ、その後の成長が著しいものとなる。
そして逆に、七歳を過ぎて十四歳までは、通常よりもたくさんたくさん学ぶ。
マインドマップやフォトリーディングのような加速学習のツールも、
七歳からスタートするのがよさそうだ。
●子どもとの接し方の大原則
・「能力以上のことを要求された子どもは暴力的になる」というシュタイナーの言葉
・五年生のコーラスの時間に、女の子二人が髪ずもうをしてさぼっていた。それを見つけた先生は「面白そうね。授業の後で私も入れてね」とおっしゃった。そして、授業が終わったら「先生はホントーに、自分の髪を抜いて髪ずもうをやったの。ただやめさせるために言ったんじゃなかったんだね」とびっくりしていた。次のコーラスの時間は、髪ずもうをする子はいなかったそうだ。
・幼稚園の先生に、簡単な折紙を「素敵ね」と誉められて折り図を差し上げたら、「あなたから習いたいわ」と言われて驚いた。「人から習う」ということは、人との間をつなぐものだ。
・なぜ体育が好きになったのか聞いてみた。「マラソンがない」「タイム測らない」「テストしない」「比べて成績付けたりしない」「しくじっても責められない」と、矢継ぎ早に答えてくれた。ボールを落としてもチームメイトに「グッドトライ!」と、にっこり励まされるそうた。
・シュタイナー学校の「成績つけない。テストしない」は、「子どもの野心や恐怖心を利用して教育をすることは不毛である」という宣言なのだろう。
・勉強をするのは個人的な損得の問題ではなくて、最終的には宇宙的な貢献であるという思想が、シュタイナー教育にはある。シュタイナーは子どもに向かって、次のように言う。
「善いものと美しいものが、人間を育てる」
「<勤勉さ>と<注意深さ>の二つの翼に乗って自由に飛翔できる」
「学ぶことで初めて、精神の本質が目覚める」
「子どもは働くことを学んで初めて人間になれる」
七歳までは子どもが感覚を通して学ぶ過程を壊さないよう、頭に直接標準語で訴えることは注意深く避けられてきたがね学齢期の子どもには、こういうことを言葉で語りかけることができると知ってうれしかった。難しいと思われるようなことも、噛み砕かずにずばりと伝えてしまう。そのときすぐにわからなくてもいいのだ。こういう話を避けて通ると「勉強はつまんない」とふくれ返ったまま、可能な限り怠けて学齢期を過ごすという、寂しいことになりそうだ。子どもたちに少し話してみたところ、予想よりずっとまじめに聞いてくれて、もしかすると彼らはこういう話を待っていたのかもしれないと思った。
・親は自分の持っている数少ないよいものだけはせめて子どもに伝えたいと、いつも焦っている。焦りのあまり、自分が茂らせている枝や葉っぱをそのまま、「抽象的な原理や理念」の形で子どもに埋め込もうとする。でもそういうやり方をしたものは、たいてい腐ってしまう。親は子どものなかに、考え方の「種」のようなものしか、埋めておくことはできないと思う。
この「種」を植えるという感覚、
子どもに、誠実に宇宙の神秘について語るという姿勢が、とても美しい。
●統合学習
・オーケストラの演奏を聞くときに、さまざまな音色を聞きながら一つの音楽を感じるように、絵や詩や歌や先生の長いお話から、私もその時代の気分を受け取った。
・シュタイナー教育では、これに近い「天才秀才の摩訶不思議な方法論」を、目に見える合理的な形で教育の場に下ろしてきたのかと思うことが、しばしばある。シュタイナー学校の子どもたちは、体の動きを使って算数を学び始めるし、イメージの上での計算、つまり暗算にひどく強い。それは我々が紙の上でしかやったことのない計算を、視覚や聴覚と結びつけて考える人が優れた能力を発揮するのと、もしかすると近いことなのかもしれないと思って、授業を見ていた。
・中学、高校で少しでも馴染んだ経験のあることは、大人になってから着手しようとするときに、「私はこれをやったことがある。きっとできる」という自信につながるという。この歳になって、本当にそうだと思う。
・「理性によるとき、自然は単に理解されるにすぎません。芸術的に感じることで、自然は体験されます」と、シュタイナーは言う。(『シュタイナー学校の芸術教育』より)
・だから、絵を描くことがエポック授業のなかに溶け込み、詩の暗誦やリコーダーや歌ともゆるやかにつながって、全体ができていたのだと思い当たる。子どもが世界を理解するのは、芸術的に体験されたときであるという考えで、授業の科目の壁がなく、手工芸が大事にされる。「子どもは役に立つ人間になりたいと願い、自分が正しく育てられることを望んでいます。遊びそのものが真剣な仕事であった幼児期を過ぎて、学齢期となったとき、かつて遊びに向かったのと同じ真剣さで、学習に向かえるような手脱怪我必要になります。そのために本物の仕事を与えます」(『教育と芸術』より)
・こうしてノートを眺めてみると、ここまでお絵描きしたら、整理した情報を試験のためにポンと頭にはめこんで終わりということにはならないだろうと思う。虚構の知識の一シーンを、自分で絵にして実体化すれば、知識が将来有機的な知恵に変わっていくための助けとなりそうだ。
エポックノートを少し簡略化したのがマインドマップになりそうだし、
音楽を使うメソッドや、五感を活用する方法なども一致する。
ピータークラインのいう統合学習は、この時期にとてもフィットする。
●情操と道徳
・「お母さんに、今まで一番うれしかったのはいつだったかを聞いていらっしゃい」という宿題が出た。私が「そりゃあ、あんたが生まれたときだよ」と言うと、にっこくり笑って訳を話してくれた。学校で、先生が「お母さん蜂は、可愛いウジ虫をたくさん産む」とおっしゃると、クラスのみんなが「ウエー」と言って気味悪がった。「お母さん蜂にとってウジ虫は、世界中で一番かわいい赤ちゃんです。だから、お母さん蜂はうれしくてたまらなくなります。みなさんは今日家に帰ったら、お母さんが今までで一番うれしかったのはいつだか、尋ねてごらんなさい。そうして『あなたが生まれたときよ』という答えが出るまでに、何秒かかったか、測っていらっしゃい」。という訳で、この宿題が出たらしい。
・パステルカラーに染めた小さ目の蚊帳布(チーズクロス)を一枚ずつ末っ子の身体にふんわりかぶせながら、子どもたちが贈ってくれた言葉のプレゼントはこうだった。
「キャンディーで一杯の壺が来るように」
「百頭の小馬と三百個のチョコレート」
「願い事が何でもかなう指輪がはまるように」
「Mの誕生日に、虹の七色から毎年違った色のお花が来るように」
「金のハートのMに、金の花と金の蝶が来るように」
最後に先生がしゃがんで、末っ子の膝に手を置いてしばらく考えた後におっしゃった。
「Mの勇気が、愛のために使われますように」
私はこの贈り物を忘れないよう、毎年彼の誕生日に彼の膝に手を置いて繰り返すことにしている。
・「粗野なやり方で、ありとあらゆる機会に<道徳的教育の適用>を強行すれば、たとえそれがその瞬間には効果を上げ得たかに見えても、長い目で見た場合、本来目ざしていたものは生み出さない」(『教育と芸術』より)
他のシュタイナー本(七歳までは夢の中だったかな)でも読んだけど、
誕生日に、物ではなく思いとイメージを贈るというこれ、とてもいいなと思った。
私も、子どもの誕生会には、そして妻の誕生日には、それをしてあげよう。
●地に足のついた実学
・シュタイナー学校ではお金に関しても勉強と同じく、真っすぐに具体的に考えて、「お金は社会をぐるぐるめぐる血液のようなもの。必要なところて生かされるのがいい」と言う。算数で一通りの計算ができるようになった子どもは、利息や為替の計算をし、簿記の勉強をする。
・今この社会にあるものは、何らかの必然性を持って現われてきたものである。いいものばかりではないかもしれないが、それも未来につながる何かよいものの種となるかもしれない。きちんと見てよい方向に持っていくために、今あるこの世と調和しようよと言っている気がする。私はそういう考え方が好きだ。
・コンピューターに関しても積極的で、高校(日本の中三からの四年間)では、たいてい一人一台で学ぶ。八年生(中二)までは、それ以前のセンスの方を磨いておく。教室では触らない。
・学校で手芸を学ぶのは「私は働く手を持っている。世の中の役に立つ人間になることができる」と、実感するためだという。そのためには、作ったものを使って、役に立つという体験もしてみなくてはならない。
これは料理でも同じだ。作ったものを食べる。
工作好きな娘との遊びでも、作ったものを使うというのも、面白いかも知れない。
シュタイナーに偏見をもっている人などは、このあたりの記述に驚くかも知れない。
お金に関する教育をしているという点で、
日本における教育よりはるかに現実的で地に足がついていると、思う。
●算数
・そのうち二飛びを覚え、五飛びを覚え、位取りを教えろと言い、そのうち「二と二で四、四と四で八、八と八で十六、十六と十六で三十二…」と続けて、32768まで暗算するようになった。
・まず黒板に大きな六角形を描いて、それぞれの辺の外側に、時計回りに番号を打った。「今日は六をします」と言って、先生は養蜂農家からもらったおいしそうな蜂の巣を手に持って、席に着いた子どもたちにゆっくり見せて歩く。
・輪の中に鉛筆や小枝、どんぐりや定規やはさみなど、物を数個置いてよく見る。皆が後ろを向いている間に、一人の子どもが二つを隠す。「なくした物何だ」と当てるわけだ。つまりさっき見たものを頭のなかに思い浮べ、今見えているものと比べて、その違いを口に出す。これも暗算練習で重視されていた「注意深く見る」「イメージする」練習の一つだろう。
・先生が「六十」と言いながらAさんにボールを投げると、Aさんは「十二掛ける五」と言いながら先生に投げ返す。もちろん「六十一引く一」でもいいし、「三十足す三十」でも何でもいい。わからなかったら、誰か他の人に投げてしまってもいい。
・五年生は、「五を思い浮かべて下さい。十二倍して、四を引いて、七で割って、三を足して、二倍して、八を引いたら?」というような暗算をする。わかったら黙って挙手し、指さされた子どもが応えて、皆がそれでいいという答えになったら、計算の経過を最初から繰り返す。
・輪になって歩きながら「二、四、六、八、十…」と唱え、後ろ歩きで「二十四、二十二、二十、十八…」と唱える。
ここに書かれてあるような遊びはさっそくやってみよう。
うちの場合は、道路にチョークで書いて遊んだら、楽しそう。
・「数学を学ぶことで、真実を見る一つの目が開かれる」
「問題を解くことで、自分自身の思考への信頼を得られる」
「生徒が自分の力で数学の問題を解きたいと願うとき、彼は自分の自主性を守る」
「数学は物事を分析的に見る力、思考の創造性、成熟した判断を下す力の助けとなる。学校は子どもにそのような力を付けて、社会に送り出さねばならない」
(『シュタイナー学校の数学読本』より)
数学をこのように捉えるのは、
公文式の学習で、少し自学自習の習慣こそが金であるというのと、同じだ。
●語学
・「日本のことを何でもいいから話してもらえない?」と先生に頼まれた。「うう…」と詰まり、「私の英語では…」と尻込みすると、「あなたの英語を理解しようと努めるのは、子どもたちにとってよい経験です」とおっしゃった。「アメリカの子は、世界中で英語が通じて当然と思っている。でも実際には違うのです」。
・慕わしい相手に習うこと。ある言語を、その言語によって習うこと。まず現実の体験があって、それに言葉をかぶせていく方法を取ること。これはシュタイナー学校の低学年の外国語の授業と共通する。低学年では”desk”を決して「desk→机」と翻訳しないで、”desk”は”desk”として改めて覚える。それによって「外国語のなかに自分を浸すことを学ぶ」という。(『教育の根底を支える精神的心意的な諸力』より)
・先日オリバー・サックス『手話の世界へ』を読んだ際、手話を勉強したら、外国語を学ぶのに近い脳の柔軟性が育つのかもしれないなあと思った。
語学学習に対する考え方も、最先端だ。
文明の拒否どころか、脳の構造にマッチしたとても科学的な方法だ。
●自然科学・人文科学・社会科学
・私の勉強に欠けていたのは、火山の断面をイメージしながら、自分の内にある火山を感じ、納得のいく火山を描いて外に出して眺めることだったと思う。自分の足の下が熱く燃える地殻につながっていて、頭の上には層をなす大気圏があって、それさえ途切れるところが星の世界の入り口につながっているということを、手を動かしながら感ずることだったような気がする。
・シュタイナーが「古典は心の母乳です」と言うのは、外側の古語や外国語の勉強のことでなくて、古典の内容に触れることを言っているのだろう。長い年月にわたって人々が何度も繰り返し語ってきた物語を追体験しながら大人になるという必然性が感じられる。
・津守房江さんのご本に、宿題の「これからはしっかりやりたいと思います」方式の作文を、明るい態度で何度か素直に書いていた子どもが、ある日こういう作文を書くのはもう嫌だと言って、さまざめと泣く場面が出てきた。
・「オハイオ州観光課御中 拝啓 このたび私たち五年生は、アメリカの地理を学ぶことになりました。つきましては貴州の案内書をお送りくださいますよう、お願い申し上げます。 敬具 ウォルドルフスクール五年 松井✕✕」 このような実用手紙を万年筆で書いて、宛名を書いて自分で投函する。中身は豪華な地図と名所案内とクーポン綴りだった。旅行の予定がおありなら、試みられるとよいかもしれない。
・シュタイナー学校の五年生のレポートの課題は、「その州にゆかりのある人物の伝記を読んでまとめる」「その州の山、川、植物、動物について調べる」の二つだった。「ゆかりのある人物」は先生が指定して、本を貸してくださる。山、川、植物、動物を調べるためには、学校の図書室から百科事典を借り出して、自宅に持ち帰ることができる。
・「先生は『インディアン』って言わないで、必ず『ネイティヴアメリカン』って言うの。どうして?」と娘が聞いてきた。「我々はインド人ではなく、アメリカ先住民族だから、そう呼んで欲しい」と宣言されたのを知っていたので、そう伝えた。確か「生肉を食う人」という意味のエスキモーは「イヌイット」に、「追われる者」という意味のラップ人は「サーメ」に呼び変えて欲しいと言っていたのを読んだことがあるので、それも話した。
旅行に行く時に自治体に手紙を出すというのは、
子どもにもやらせてみたい。
日本にも、心ある役所は、あるのだろうか。
●静けさ
・シュタイナー学校のいいところは「静かなこと」で、日本の学校のいいところは、「外靴で教室に入らないこと」だと言っていた。
・子どもたちが静かなのは多分、テレビ、ビデオをはじめとして映画、ラジオ、CD、コンピューターゲームなどは、週日は避けるようにという指導がなされ、守られていたからではないかと思う。しかし週末にここぞとばかりテレビを見た子どもたちが、月曜の午前じゅう落ち着かなくて…と、六年生の先生がこぼしておられた。
・学生時代、一人暮らしを始めた友達が、「気が付いたら、テレビに向かってお返事してた」と笑っていたが、彼女はむしろ健全で、「お返事もなしい」「相手の言葉を聞き流す」訓練が、テレビによって知らない間に確実になされてしまうのは、考えてみたら怖い。週にたった一時間お習字を習った子どもが、半年もすればかなり整った字を書くようになる。その子が週に一時間しかテレビを見ていなくても、「話の聞き流し癖」はお習字と同じくらい上達することだろう。
・息子は「拍手をはやーく何回か回して、最後は先生が自分の所に回ってきたのを、ポケットに入れちゃったの」と言った。その後手をたたく人はいなかったそうだ。一生懸命音をつなげてきた後で、主人公たる拍手がポケットにしまわれて生まれた静寂を、子どもたちは大事にしたかったのだろう。そこからすっと勉強に入って行けそうだ。
シュタイナーの学校で学ぶ子どもといえども
さすがにアメリカのような国では、六年生にもなれば週末はテレビを見るのか。
あまり厳密・杓子定規に押さえつけているのではないのだなと、
この部分のエピソードは、かえって安心できる記述だった。
●歌
・歌は元来、世俗の言葉にするにはあまりに高貴なことを、詩として歌わずにはいられなかったのが始まりだという。人間にとっての歌の必然性を思い出したとき、シュタイナー学校で聴いた歌が、なぜあのように真っすぐ心に染み通ってきたかがわかる気がした。
・三十本のプラスチック笛は耳ざわりだが、三十本の木の笛は耳に柔らかい。
・高校の生物で「個体発生は系統発生を繰り返す」と習ったことを思い出す。身体が系統発生を繰り返すように発達するのならば、頭も同じ道をたどりたいのではないだろうか。学問も、人類の文化の発展をたどる形でなされるのが自然であると言われる。
・音楽にも、より素朴な形から複雑なものへと発達してきた歴史がある。子どもたちは、あちこちでポップミュージックの鳴り響く中に生まれてきた。子どもための音楽でさえ、ポップ調に作られる傾向がある。しかし、幼い子どもがまず必要とするのは、自然発生的な素朴な音楽であり、少し複雑になっても、感傷に走らぬ音楽であろう。その観点からふさわしいものを、なるべく子どものまわりに置きたいと思う。
・「人は自分のなかに音楽を持っていて、外からの音が内からの音と一致するときに、音楽的な至福を感ずる」。(『音楽の本質と人間の音体験』イザラ書房)
この意味で、いきなりテレビの歌謡曲にふれるのではなく、
また逆に早期教育の下心でクラシック漬けにするのでもなく、
童謡を歌って聞かせることが、とてもいいことなのだということが、わかる。
この意味で、うたって育ててくれる祖母との関わりはとても大事だと思った。
●教師の意義
・シュタイナーは子どもに向かって、何度も繰り返して直接こう言ってしまう。「皆さんは先生を好きですか?」あるいは「お友達や先生を愛していますか?」子どもたちは「はい」と返事する。ここまであっけらかんと、ド真ん中をスポーンと言ってしまったと知ると、いろんな心配がふっとんでしまう。一番大事なことを伝えるのに、手加減は不要らしい。順番を整理すれば、「先生が大好きならば、先生が導いてくださる世界を好きになることができる勉強の内容に興味を持つことができれば、子どもは喜びのうちに学び、能力を伸ばして、隣人のために働く人間になれる」となろうか。これは至極まっとうな論理に思われる。お友達と先生が好きで、大苦手の体育さえ好きになり得た娘を見てそう思う。
・私たちはつい、先生も人間だから完璧ではありえないとか、相性というものがあるでしょうとか、余計なことをぐじゃぐじゃ言いたくなってしまうが、これまで子どもに愛してもらった自分たち親のことを考えてみると、どうだろう。子どもはこちらの至らなさも性格の相違も、全て含んで丸ごと愛してくれた。こちらの考えなしやヒステリーを、何度無条件で許してくれたことだろう。それと同じく、学齢期になってこれからものを学ぼうとする子どもには、先生を愛することから学びましょうと言ってしまう。言われてみると、本当にそれが大事だったなあ、親が子どもの前で、先生に対する感謝と謙虚さの手本を示してきただろうかと、思わず自分の傲慢を振り返って恥じ入る。
この部分、とても重要だ。
親である私自身が、子どもの先生にどう接するか、それを子どもはよく見ている。
親が先生を批判したりすれば、子どもは先生から得られるものを失ってしまう。
先生に敬意を払い、そのいい面を称賛すること。そのことこそが大切。
先生を神のようにあがめよということではない。
先生の優れた面を称賛し感謝しようということなのだ。
それなら、誰にだってできる。
●シュタイナーの読み方
・おどろおどろしさを濾過するように読んでいくと、音楽を聴くときの、言葉にできない心の働き、絵を見るときに感ずる、絵の向こうの魂に近いものを、シュタイナーは語りたがっているのだなあと思います。それはお化けやいんちきが棲みつく暗い世界とはちがって、冷静な知性の光に照らされる、明るい世界です。
・「これは疑ってかからなくては」と思っていた部分も、「誠実に語ろうとしたら、こういう表現でしかやりようがなかったんだろうなあ」と納得します。多分たくさんの誤解もしながら、薄紙を剥ぐようにわかってくるのがシュタイナーです。
精神科学を否定する人に、
この部分は是非感じ取ってもらいたい。
●その他
・アメリカでは大人子どもを問わず、手紙をたたむにも、レポートを綴じるにも、わざと角を外したような折り方、重ね方をする人がいる。パッチワークやキルトの作品を見ると、とても不器用とは思えないが、小さい頃に折紙で遊ばなかった彼らの生活に、折紙的几帳面さが浸透していないのかも知れない。
・スワヒリの神話では、闇の虚空に光が必要と考えた創造神が、光を生みだした。神は光のもっとも明るい部分を手に取って、そこから天使と人間の魂を絞り出した。次に神は光の下に空を広げて造った。夜になると空にとばりが下げられるが、とばりに開いたいくつもの小さな穴からもれる光が、星としてまたたく。
とばりに開いた穴 というこの捉え方、美しいなと思った。
でも、夜空に星のみえない現代では、その穴が塞がれてしまっている
ということでもあるんだよな。。