NHKテキスト2016年10月 100分de名著
決めるのはあなたです。
何が与えられたかではない、それをどう使うかだ。
Eテレで偶然みたアドラーの四回の放送
とってもよい内容だったので
テキストも買って読んでみた。
とてもよい内容だったので、ところどころ一緒に読んで
妻とも内容をシェアした。
●決定論ではなく目的論
・われわれは自分の経験によるショック-いわゆるトラウマ-に苦しみのではなく、経験の中から目的に適うものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって、自らを決定するのである。特定の経験を将来の人生のための基礎と考える時、おそらく、何らかの過ちをしているのである。意味は状況によって決定されるのではない。われわれが状況に与える意味によって、自らを決定するのである。
・自分の怒りが何を目的にしているのか、その目的を達成するためにより有効な方法があることがわかれば、怒らないですみます。怒りを抑えるというよりは、怒りの目的を知ることで、怒りに代わる方法があることがわかれば、怒らなくなります。
・アドラー心理学は「所有の心理学」ではなく「使用の心理学」だと言われるように、何が与えられたかは重要ではなく、それをどう使うかが大切なのです。
与えられた環境 というところの 環境そのものはどうつくられるのか
そこの深い仕組みを理解するためには、仏教を学ぶとよくわかる。
●不幸な理由・成功できない理由
・多くの人は「わざわざ未知の世界に足を踏み出すよりは、今のままのライフスタイルに固執したほうがいい」と思ってしまうのです。つまり、変われないのではなく変わりたくないのです。「できない (can’t)」のではなく、「したくない (won’t)」と考えて、変わろうと思えば変われるのに、変わらないでおこうという選択をしているのです。
・決心するだけでは何も変わりません。まずは、無意識に身に付けてしまった自分のライフスタイルを意識化してみる。その上で、それまでとは違うライフスタイルを選び直すのです。そのためにはどんなライフスタイルを選べばいいのかを知っておかなければなりません。
アドラーが、近代成功哲学の源流であるという意味が、よくわかる。
仏教における明知(リクパ)にも通じる。というかそのまま。
若い頃に原始仏教の瞑想を学んだことが、自分がアドラーの考え方を
身近に考えられる理由の一つになっていることが、よくわかる。
●劣等コンプレックスと優越コンプレックス
・劣等コンプレックスとは、「AであるからBできない」、あるいは「A出ないからBができない」という論理を日常生活で多用することです。このAとしてトラウマや神経症など自他ともに否定できないことを持ち出し、だからBができないのだと主張するのです。
・それなのにそういう努力をしないとすれば、やればできるという可能性の中に生きたいからであり、現実的な努力をして結果が出ることを怖れているからです。そのような人は、可能的に自分は優秀なのだと思いたいのであり、優越コンプレックスを持っています。
・いじめや差別も、優越コンプレックスの特徴である価値低減傾向がある人が引き起こすと考えていいでしょう。いじめる側、差別する側の人は、強い劣等感を持っています。だからこそ自分より弱い人をいじめたり差別したりすることで、相対的に自分を上に位置づけようとするのです。
・後ろからくる人に追い抜かれてはいけないとは考える必要はありません。誰かと競争しようとはせずに、自分がただ前を向いて確実に一歩前に足を運ぼうと意識して歩いていれば、それで良いのです。
・アドラーは、神経症者について、その症状の目的(おねしょと同じで、注目され、他者を支配すること)が同じ限り、その症状が止むことはなく、たとえ一つの症状がなくなっても、「一瞬の躊躇もなしに、新しい症状を身につける」といっています。子どもにはオネショなどしなくても、親が自分を見てくれているということを学んでほしいのです。
神経症に限らず、全ての病気も、実はまさにこのコンプレックスによって
その仕組みを解き明かすことができる。
これはまさに、空即是色「全ては心の現れである」というところの意味だ。
●甘やかされた子どもと承認欲求
・甘やかされた子どもは、自分の願いが法律になることを期待するように育てられる。その結果、自分が注目の中心でなかったり、他の人が彼〔女〕の感情に気を配ることを主な目的にしない時には、いつも大いに当惑することになる。
・「もっと食べないといけないよ」と親にいわれている限り、子どもは自分が親に注目されていることを知り、「自分は世界(家庭)の中心だ」と感じます。ところが、何もいわれなくなると、状況は一変します。自分が世界の中心ではなくなったと感じた子どもは、戸惑います。
・介護は承認欲求がある人にとっては辛いものになります。なぜなら「ありがとう」という言葉を親からかけられることを期待できないからです。同じことは子育てにもいえます。子どもが親に「ありがとう」ということは、期待できないからです。では、どうすれば良いのでしょうか。介護も子育ても「ありがとう」という言葉を期待するのをやめればいいのです。感謝されようがされまいが、親に貢献できていると感じられれば、それでいいのです。「ありがとう」を期待するのではなく、逆に、今日も一日、親と一緒に過ごせたことに対して「ありがとう」と思えればそれで十分なので、親から感謝されなければ満足できないというのはおかしいでしょう。
・貢献感を持てるようになれば承認欲求は消えます。
・承認欲求や、世界の中心に自分がいるという意識から脱却するための三つの方法を紹介しましょう。まず、他者に関心を持つことです。自分にしか関心がない人は他者に関心を持つことはありませんし、もしも自分だったらどうするだろうかという他者の発言や行動を見ても、そこに自分の考えを反映するだけなので、多くの場合、正しく理解することはできません。次に、他者自分の期待を満たすために生きているのではないことを知ることです。自分も他者の期待を満たすために生きているわけではありません。他者からよく思われないことを怖れて他者の期待を満たそうとする人は、自分の人生ではなく、他者の人生を生きることになってしまいます。自分の人生を生きようとすれば、他者との摩擦は必ず起こり、自分を嫌う人も現れるでしょう。しかし、自分の人生を生きる決心をすれば、他者から承認されようとも思わないでしょう。承認される必要がなければ、承認する他者に依存する生き方をしなくてすむわけです。他方、もしも自分が他者の期待を満たすために生きているのではないとすれば、同じ権利を他者にも認めなければなりません。他者も自分の期待を満たすために生きているわけではないということです。このように考えれば、他者が自分の思いどおりのことをしないとしても、そのことを不愉快に思ったり、憤りを感じることはなくなります。第三に「課題の分離」です。
・子どもが自分のライフスタイルを決めるのが十歳前後であるとすれば、早い時期にライフスタイルの誤りを是正する必要がありますし、それは子どもの頃であれば比較的容易です。
妻が夫に尊重されていないと感じて寂しさを覚えるとか
あるいは夫がATM扱いされて疲弊するとか、
そういうものも承認欲求の問題と関係があるといえそう。
マハーヤーナが苦しみを滅尽するもっとも早い道であるというところの話。
●対等であること
・アドラーが親に向ける目は厳しく、教師は、家庭における親の誤った教育の結果である子どもを学校で引き受け、家庭での教育の誤りを教師が補わなければならないといっています。親は「再教育」が必要だともアドラーはいっていますが
・ほめることができるとすれば、その人の、他者との対人関係の構えが上下関係であるということなのです。子どもでも大人でも、対人関係の下に置かれることを好む人はいません。
・今でも多くの人は、子どもや若い人、部下を当然のようにほめたり叱ったりしていますが、そのことは、人を支配し、操作することに他なりませんし、そうするときに築かれる対人関係は対等の横の関係であるとは言えません。
世の中、ほめて育てるマネジメントとか
そういう操作主義な人がほんとうに多い。
きっとそういう人は家庭でもそう育てているし、育てられてきたのだろう。
うんざりだ。
自分もそれをやってしまわないように、
あらためて気をつけようと思った。