0歳からの母親作戦

子どもの心と能力は0歳で決まる

前作「幼稚園では遅すぎる」を読んで、ちょっと興味をもっていた。
この方、鈴木メソードの鈴木さんや人間能力開発研究所、などともつながりがある。
ということで、やはりおさえておく必要があるなと思い、読んでみた。


前作では、三歳までの接し方で、厳しく叱ることがよいかのような印象をうける記述があり、その部分がいまひとつ腑に落ちなかったのだけれど、今回のこれで「パターン時代」は好き嫌いの別が無いので、この時代にパターンをどんどん入れるという意味だという趣旨の内容を読み、納得できた。そういうことなら、とってもしっくりすっきりくる。
●パターン認識時代の教育
> パターンとして与えるものは、なにも英語とか音楽の天才をつくるためのものばかりではないということです。現在の私はむしろ、人間としてもっとも当たり前の基本的な生活習慣とか、生きていくうえでのルールこそ、幼児に与えるパターンとして尊重していただきたいと思っています。
> たしかに、子どもに新しい知識を与え吸収させるうえで、単なる押しつけや丸暗記より、その内容を理解させ、本質を把握させるほうが身になることはわかります。しかし、それは子どもがある程度論理的な思考力のできてきた年齢になってはじめて通用するもので、二、三歳の幼児にはとても通用しません。
> 結論をいえば、三歳ぐらいまでの子どもには、押しつけでも丸暗記でもいいから、どんどんこれだと思うものを与えていくべきだと考えます。この年齢は、理解や納得がなくても、あらゆるものを一まとまりのパターンとして、どんどん吸収していってしまえる時期なのです。
> よく、二、三歳のときに厳しいしつけを行うと、悪影響が残るのではないかと心配する母親がいますが、むしろ形ができあがっていないのに、四歳になったからと厳しくすれば、母親に対する不信感がうえつけられ悪影響を及ぼすといえます。
> 教育といえば、すぐに分析、理屈、理解と考え、理解することが最優先の目的であるかのこどく誤解されていますが、分析的教育は「パターン時代」が終わって、分析能力が備わってからやればいいのです。
> たとえば紐結び一つとってみても、これを言葉で伝えようとしたら、どうでしょう。
→ 冒頭に書いたのはこのあたりのこと。いわゆる「育ち」関係する習慣、生活のリズム、根本的な良心・公徳心については、パターン認識として理屈抜きで教えるということ。叱りつけてやるかどうかということは、必ずしも関係しない。
●母親の意義、父親の役割
> 俗に、「出産は女性にとって最大の仕事である」といわれます。しかし私にいわせれば、子どもを産んだあとにこそ、母親にとってはもっと大きな仕事が待っているのです。かりに専門家になるにしても、育児さえしっかりできない人にりっぱな仕事ができるはずはないとも思うのです。
> 幸いなことに、人間の赤ちゃんは未成熟な状態で生まれてくるからこそ、母親は教育者・栄養士・デザイナーどころか、医者にも宗教家にもなることができるのです。
> 母親の役割を父親が肩代わりすることをもって育児の協力というのは、協力のはきちがえではないかと思うのです。
→ そう、どんなに頑張っても、父親に母親の代わりはできない。それよりもむしろ、父親にしかできないことをするべきだ。自分はここを取り違えないようにしなければ。「プロフェッショナル・ファザー」とは何か、そのあたりのことを再考するきっかけを与えてくれた。
●子どもに敬意を払う
> スイスの雑誌より
・言葉の意味はまだわかるまいとたかをくくるな。幼児の驚くべき記憶力は、いつかそれを理解するまでしまいこんでいる。
・くだらぬ流行語や下品な表現の乱用は、国語の正しい品格への鈍感さを育てる。
・他人を厳しく批判しないこと。とくに子どもが尊敬すべき人物、たとえば先生をおとしめるのは厳禁。
・近親の悪口をいわぬこと。
・子どものまえで子どもの欠点を人に語らぬこと。
・うそをいわないこと。幼い純な感受性は、偽りを容認できない。
・不安、恐怖を与える話を避けること。
> 子どものやったことを何でもほめればよいと考えている母親も少なくありません。子どもは鋭い直感力で、それが母親の”お世辞”であることを見抜いてしまっているのです。こうしたほめ言葉は、子どもの頭にほめられることは当たり前のように考える配線をつくり、ほめられなければ何もしない子どもをつくる恐れがあります。ほめられなければ満足しない子どもに、進歩はありません。
> 子どもがほんとうに母親からいってほしいのは、うまい、へたという評価よりも、「よかった」という母親の喜びの言葉なのです。うまい、へたにかかわらず、子どものやることを母親が喜ぶことこそ、子どもの意欲を高める何よりの促進剤になるのです。
> ほめてやらなければならないのは、子どものやったことそれ自体なのです。
→ 要は、バカにするな、ということだ。子どもというのは潜在意識でありのままにいきている。だからこそその微笑による癒しの力はとてつもなく大きく深い。このような潜在意識で生きている子どもは、神の子だと思って敬意を払うべきで、決して、だますべき相手ではない。
●権威を保つことの重要性
> 「ごめんなさい。お母さんが悪かった。ほんとうにすみません」などと、子どもに他人に対するようにあやまったり、長い言い訳をする母親がいます。こういう母親の子どもほど、自分の思い通りにいかないことは、すべて親のせい、大人のせい、他人のせいにする考え方がしだいに身にしみてついてしまうのです。
> テレビのチャンネルは、子どもに支配させない
→ 敬意を払うということと、卑屈になるとか、付き従うということは違う。勘違いしないようにしなければならない。
●スキンシップの工夫
> 美智子皇后陛下が、まだ皇太子殿下の小さかったころ、海外へ出られるときに、やはり録音テープに五字分でお伽噺を吹き込んでいかれたのは有名な話です。
> 幼稚園などの生活指導でも、いままでは「手を洗いましょう」のように、先生が子どもの耳にだけ訴えていたものを、同時に「手を洗う」と黒板に書くことを提案しています。そうすると、子どもは「手を洗う」という言葉を、目と耳の両方で印象づけられ、受け入れが五、六倍は違うといいます。
> “いない、いない、ばあ”という遊びは、それとなく母親の不在を教える、幼児期の最初の訓練だというのです。
→ いないいないばぁの効果にはびっくりした。知らなかった。確かに考えてみればそうなのかも知れない。このほか上二つについてもさっく自分もとりいれて実行しようと思う。
●好奇心を育む
> 赤ちゃんが何かに興味を示しているのに、おむつを取りかえる時間だから、授乳の時間だからといって、興味を中断させることもあります。興味こそが、子どもの能力を育てる最良の栄養剤であるとすれば、どんなに食生活などに細かな注意を払っても、精神面での”栄養失調”は、興味に対する中断から起こる恐れがあります。
> おむつの取りかえにせよ授乳にせよ、母親が子どもに何かの働きかけをするときは、そのときの子どもの状態をよく観察し、少なくとも興味を中断させないような配慮が必要です。
> 母親にとっては、整理整頓された部屋は快適な空間かもしれませんが、子どもにとって、果たしてそれが快適な環境といえるでしょうか。興味の対象を大人の感覚だけで、取り上げてしまっていいのでしょうか。とかく教育に熱心な母親ほど、危険だとか不潔だとかいって部屋の中を片づけたがるようですが、きれいすぎる部屋は、子どもの頭の中を空っぽにする空家同然なのです。赤ちゃんのつきることのない探究心や想像力の芽をつみ取ることにつながります。きれいに整頓された部屋よりも、散らかり、汚れた部屋のほうが、赤ちゃんにとってははるかに興味をかきたてられる対象であることはまちがいないでしょう。
> 私のいう”働きかけすぎ”とは、オモチャでも教育機器でも、あるいはスキンシップにしてしも、子どもがほしがるまえに先に与えてしまう傾向を指していることはいうまでもありません。鈴木先生の指導法のように、ほしくてほしくてたまらなくなってから与えるのではなく、子どもの欲求を先取りし、これでもかこれでもかと与えてしまうのが日本の母親の欠点だと私は思っています。与えるまえにどうしてもほしくなるという、欲求に対する”飢餓状態”を子どもの心の中につくってやってあるかどうかです。
> 子どもにとって必要なのは、理解することではなくて、せっかくもった好奇心の種をだいじに育てるための親の努力です。それには、理解させようとするよりも、まじめに答えようとすることが先決なのです。
→「なんで」「どうして」がはじまった自分の子との接し方について、あらためて注意しようと思った。内容そのものよりも、姿勢の方が大切なのだ。
→ またオモチャや教材についても、与え方についてちょっと失敗している感じがしていた。改めて読み、納得した。すべてのオモチャは、ドーマン方式を適用するのがよさそうだ。

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