14歳からの哲学

考えるための教科書

著者があとがきで書いているように、
使われている言葉、語りかけが平易なだけで、その内容のレベルは高い。
人にもよると思うけど、哲学というのは、
世の中を純粋に見つめることができる10代の多感な時期の方が、
深い理解ができるのかもしれないなと思う。
自分の子が理解できる年頃になったら、
ソフィーの世界と一緒にプレゼントしたい。

●存在

・生死の不思議とは、実は、「ある」と「ない」の不思議なんだ。人は、「死」という言い方で、「無」ということを言いたいんだ。死は、「ある」のだろうか。「ない」が、「ある」のだろうか。死は、どこに、あるのだろうか。
・君は、たぶん、死ぬのを怖いと思っているだろう。死んだら何もなくなるんじゃないかって。でも、何にもなくなるということは「ない」はずだ。なぜって、「ない」ということは、「ない」からだ。じゃあ、なぜ、「ない」ものが怖いんだろう。ないものを怖がって生きるなんて、何か変だと思わないか。
・感謝という感情があるね。君は、人に何かをしてもらった時、感謝して「ありがとう」と言うね。あの「ありがとう」とは、もともとは、この奇跡の感情を言うものなんだ。在る理由のないものが、なぜか在る。この驚きに発するものなんだ。だから、存在への驚きを知る人や敬虔な信仰をもつ人は、苦しみにすら感謝して、「在り難う」と言うだろう。
・時間というものは、本来、流れるものではないんだ。過去から未来へ流れるものではなくて、ただ「今」があるだけなんだ。だって、過去を嘆いたり未来を憂えたりしているのは、今の自分以外の何ものでもないじゃないか。

この、時間にたいする認識と、宇宙の存在を問う姿勢、
子どもの頃に感じた、あの不思議な感覚を思いした。

●複雑なものには命が宿る

・食べて、消化して、排泄するまでの全部の過程を、詳しく点検してごらん。君がああしようこうしようと思ってしていることなんか、たったひとつでもあるかしら。複雑な消化酵素のたった一成分でも、君が作ったものかしら。まさかだね。だとしたら、これはやっぱりすごいことじゃなかろうか。君は、自分が呼吸して、自分が食べるから、自分が生きているんだと思っている。でも、呼吸も消化も、全然君が意志してやっていることなんかじゃないんだから、その意味では、君が意志して君を生きているというわけじゃないんだ。じゃあ誰がこの体を生きているんだろう。
・とくに現代は、そういう自然の姿が少なくなったから、自然は遠くへ探しに出かけなければ見つからないものなんだと人は思っている。でも、そうじゃない。最も身近な自然を、人は忘れてしまっているんだ。それが、この体だ。体は自然が作ったものだ。

無意識にしている、ということは、逆に言えば、
それぞれの組織規模の単位で、もしかすると意識をもっているのかも知れない。
そう考えると、人があつまる社会という組織や、
地球という塊にも、もしかすると意識があると考えても、不思議ではない。
地球という規模からいうと、個々の細胞である人の活動というのは、
無意識なのかも知れない。
集合的無意識の話と、複雑系の話は、つながっている。

●科学の限界

・嬉しいという感情と、エンドルフィンの分泌と、どっちが先なのだろうか。嬉しいからエンドルフィンが分泌されるのだろうか、エンドルフィンが分泌されるから嬉しいのだろうか。
・科学は、目に見える物によって目に見えない心を説明しているにすぎないということを、常に忘れないようにしよう。説明は決して解答じゃないんだ。
・どのようにしてビッグバンが起こったのかは、難解な計算によって説明することはできるんだ。でも、なぜビッグバンはそのようにして起こったのか、起こる理由があったのかを理解することは、科学にはできない。
・科学にとっては、人間が生まれるということは、精子と卵子の結合であり、生まれた子どもに自分という意識が宿るのはずっとあと、自由意志をもつのもその時からと決まっている… しかし、裏返ししてみれば、これは完全な運命論なんだ。人がその性格や能力、顔かたちなのは、DNA、両親のDNAによって決定されているのだからどうしようもないと宣告しているからだ。なぜ君のDNAはそのDNAとして決定されているのかという問いは残る。それを決めたのは、「誰」もしくは「何」なのか。

科学と哲学は両輪。
どちらかだけを学ぶという学校の
教育カリキュラムや選択のあり方は、やめるべき。

●精神と哲学

・感情は感じるもので、精神は考えるものだ。心のこの部分があるからこそ、人は、変わらないと思っている性格を変えることもできるのだし、その時その時の気分や感情に流されないですんでいるんだ。もしも心を大事にするということが、その時その時の気分や感情にまかせてしまうことなのだったら、ちっとも心を大事にしていることにはならないじゃないか。だからといって、気分や感情はいけないもの、つまらないものだというわけでもない。
・考えるということは、多くの人が当たり前と思って認めている前提についてこそ考えること
・賢い人々が考え抜いてきたその知識は、新聞にもネットにも書いていない。さあ、それせはどこに書いてあると思う? 古典だ。古典という書物だ。いにしえの人々が書き記した言葉の中だ。何千年移り変わってきた時代を通して、まったく変わることなく残ってきたその言葉は、そのことだけで、人生にとって最も大事なことは決して変わるものではないということを告げている。
・絶対に間違いがないのは、だからこそ、古典なんだ。古典は、考える人類が、長い時間をかけて見抜いた本物、本物の言葉なんだ。消えていった幾千の偽者、人の心に正しく届かなかった偽の言葉の群の中で、なぜその言葉だけは残ってきたのか、はっきりとわかる時、君は、いにしえの賢人たちに等しい知識を所有するんだ。
・精神は、考えることで、自分の思い込みから自分を解き放つ。
・「読む」ということは、それ自体が、「考える」ということなんだ。字を読むことなら誰だってできるさ。でも、それこそ何もわからないだろ。字を読むのではなくて「本を読む」ということは、わからないことを共に考えてゆくということなんだ。

高校生の選択授業としての倫理ではなく、
中学生の道徳の時間に、道徳というよりは哲学をやった方がよさそう。
哲学を「教える」というのではなくて、哲学的な考え方を学ぶ。
先生の知的レベルがそこまで追いつかないのかな。

●観念 思い込み 善悪

・「社会」というのは、明らかにひとつの「観念」であって、決して物のように自分の外に存在している何かじゃない。だって、何かを思ったり考えたりしているのは自分でしかないのだから、どうしてそれが「自分の外」に存在しているはずがあるだろう。社会という現実は、皆が内で思っているその観念の、外への現れだ。観念が現実を作っているのであって、決してその逆じゃないんだ。
・「社会」なんてものを目で見た人はいないのに、人はそれが何か自分の外に、自分より先に、存在するものだと思っている。思い込んでいるんだ。それが自分や皆でそう思っているだけの観念だということを忘れて、考えることをしていないから、思い込むことになるんだね。
・法律はそれを「してはいけない」としているのであって、「悪い」としているわけではないということだ。
・よく「どこが悪いの? 法律にある?」って屁理屈言う子がいるだろ。そんな子は、逆に、法律の決めることが必ず正しいと思っているというわけだ。じゃあ、社会が決める法律には正しさは必ずしもないとすれば、正しさはどこにあるか、わかね。そう、自分にあるんだ。善悪を正しく判断する基準は、自分にある、自分にしかないんだ。
・もし自由の権利が天与のものなら、それは国家の憲法に保障される必要などないということだ。善悪を判断する権利は自分にある、生まれつきすべての人がもっているはずなのだからだ。けれども、多くの人は、その権利を自ら放棄しているんだ。そして、自由というのは国家や社会や法律が与えてくれせるものだと思い込んでいるんだ。
・何であれ、「自由」というのは、それを自由だと主張することによって自由ではなくなるんだ。「私は自由だ」と他人に対して主張するということは、その人が不自由であるからに他ならないね。つまり、「私にはしたいことをする自由があるのに、したいことをする自由がないのだ」と。
・自由というのは、他人や社会に求めるものではなくて、自分で気がつくものなんだ。

法律に書いてあることはが「正しい」わけではないということは、
逆に言えば、法律で禁止されていることは、何でもやっていいというわけでもない。
コンプライアンスの本来の意味とは何かという話ともつながるけれど、
正しさというのは、法律に書かれているのではないわけだ。
ルールブックと良心に従った行動はまったく関係ない。

●自由 仕事

・理想の反対は現実ではない。
・理想を語る君に対して、「もっと現実を直視しなさい」と諭すようになるだろう。でも、見えるものとして現れた現実だけを見て、見えない現実を見ていないのは彼らの方なんだから、適当に聞き流すがいいよ。
・正しい仕方で理想をもつということは、とても難しいことだ。それが目に見えるものとして、実際に実現するかどうかということの方に、どうしても人は捉われてしまう。そして、理想というものは、見える現実を動かす見えない力として刻々として働いている、まさにそのことによって現実なんだという事実を忘れてしまうんだ。
・生きることを自分の自由で選んでいるのだから、本当は、「生きなければならない」ではなくて、「生きたい」と言うべきなんじゃないだろうか。本当は自分で生きたくて生きているのに、人のせいみたいに「生きなければならない」と思っているのだから、生きている限り何もかもが人のせいみたいになるのは当然だ。
・自分が本当にしたいことが自分でわかってないから、それを家族と仕事のせいにしているだけなんだ。
・そんなことでは生きてゆけないよって言われたら、何のために生きてゆくのって、問い返せばいい。お父さんは、仕事をするために生きているの、それとも生きるために仕事をしているの、どっちなのってね。
・精神の自由とは、何よりもまず「怖れがない」ということだ。怖れがあるところに自由はない。「したいけれどもできない」と言う時、したいことをできなくしているのは、その人の怖れ以外の何ものでもない。言いたいことを言えないのは、他人にどう思われるかということへの怖れだし、イヤな仕事を辞めたいのだけれど辞められないのは、生活できなくなること、つまり死ぬことへの怖れだ。
・君の親は、君が生まれることで、初めて親になったんだ。生まれた時から親だったわけじゃないんだ。

理想と現実は対義語ではないんだ。この発見は大きい。
現実と裏側に理想があるというイメージ。
理想を投影したものが現実だ、というイメージ。
ちょうど11歳, 12歳の頃に考えた、
「仕事とは何か」「親は何のために働いているのか」「自分は何をして生きたいのか」
そういう感覚を、ここにきてライフワークを考える中、
もう一度自分に問うている。
こういう本を、もっと早くに読みたかったなと思う。

●個性

・個性とは、個性的になろうとしてそうなるようなものであるなら、そこには必ず他人との比較があるはずだ。人と同じようにはするまい、人と同じようにはなるまいという、他人を気にする気持ちがあるはずだ。だったら、どうしてそんな人が個性的であるはずがあるだろう。個性的であるということと、人と違おうとするということとは、まったく逆のことなんだ。
・自尊心を持つ、ということと、プライドがあるということは、間違いやすい。他人に侮辱されても腹は立たないはずだよね。なぜなら、自分で自分の価値を知っているなら、他人の評価なんか気にならないはずだから。もしそうでないなら、自分の価値より他人の評価を価値としていることになる。するとそれは自尊心ではなくて、単なる虚栄心だということだ。
・他人の仕事やその姿に感動できるためには、その人も、その人と同じ自分を超えた何か大きなものを知っている、共にそれを感じているのでなければならないね。感動するということは、共感するということに他ならないからだ。だから、ある天才の仕事に感動できるとしたなら、君は、天才だ。天才が何をしようとしていたのかを理解できるなら、君は天才だ。問題は、君が天才と共に天を見られる人であるかどうかということだ。天を見るとはちっぽけな自分を捨てることだ。無私の人であることだ。君が自分を捨てて、無私の人であるほど、君は個性的な人になる。これは美しい逆説だ。

無私→個性的という言葉は、田坂さんの仕事の思想や使命感の話に通じる。
自尊心と虚栄心の違いは、他人の評価を気にするのかどうか。
そして、個性的であることは、天邪鬼であることとは、違う。
私は、人と違おうとしすぎてきた。そしてそれは単なる虚栄心だったのだ。
その自尊心は、自分の個性をどう考えているのか。
もう一度、ゆっくり考えたい。

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