ふれあいの家庭教育
目に見えない子どもの心 大切に育ててほしい
親だからできる「心の教育」
どの本も書いてあることはほとんど同じだけど、それでも何度も読む。
Mindsetを私の中にインストールするために。
●安定している子どもと不安定な子ども
・この頃、子どもの描いた絵を見ると、のびのびした心をもっているか、萎縮しているか、大体の見当がつくようになります。のびのびしている子どもは、紙いっぱいに大きく描き、色調も明るいものが多いのです。ところが、萎縮している子どもの絵は、紙の隅っこに小さく描かれていたり、色調も暗かったりするものです。子どもの心が萎縮しているのは、厳しいしつけを受けていたり、お母さんの温かさを感じ取っていなかったりということが多く、人格形成に問題が生じているのです。スキンシップを多くして、子どもの心を温め、解放してあげる必要があります。
・子どもは大人以上に情緒の安定が大切なのです。子どもの場合には、大人と違って不安定な情緒を処理する能力が極めて低いので、それが攻撃的な行動やその他様々な異常行動となって現れてくるのです。
忙しくて心の余裕がなくなってくると、寛容な対応がしずらくなる。
でも、子どもからするとそれは関係ない話。
心の余裕を一定に保つためには、外的な条件なんかに左右されない器の広さ(=強さ・ストレス耐性)が必要。
それは子どもに求めるのではなく、大人である私の方が身に付けるべきもの。
●思いやりを育むには
・「思いやり」とは、相手の立場に立って考え、相手の気持ちを汲むことを言います。私達は「共感性」とも呼んでいます。「思いやり」のあるお母さん・お父さんは、子どもの立場に立って考え、子どもの気持ちを汲むことができますから、子どもをたたくことはもちろん、叱ることもほとんどありません。
・「思いやり」の心は生まれつき備わっているのではなく、親から「思いやり」を受けることによって子どもの心に芽ばえ、徐々に育っていくものです。お母さんが「これ、ママの大事、大事よ」と困っていることを情緒的に訴えると、子どもはその声を聞き、じっとお母さんの顔を見つめて、漠然とですがお母さんが困っているのだな、と感じ取ります。そして、お母さんが困るからこれをいじるのはやめよう、とだんだんに思うようになるのです。これが「思いやり」の心を育てることになっているのです。この時に、もしお母さんが「だめっ、いけません!」とこわい顔をして叱れば、子どもはそのいたずらをしないようになりますが、それは叱られるのがこわいからしないだけであって、お母さんが困るからしないでおこうという「思いやり」の心は育ちません。
・食事時の世間話では、よく他人のうわさをすることがあります。その時に、他人を「思いやる」話し方をするのと、悪口ばかりを言っているのとでは、子どもの「思いやり」の心の発達が違ってきます。悪口ばかりを聞かされている子どもは、友達を見る目も冷たいものとなってしまいます。
・「いじめ」をする子どもは、幼い頃に親から「思いやり」を受けてこなかったかわいそうな子どもであることは、忘れないでほしいのです。いじめっ子は、大人達からの「思いやり」を求めている子どもなのです。
子は鏡。親である私の方に思いやりがなければ、子どもたちに思いやりが育つはずがない。
私は、私の子どもに対して思いやりを持てているのだろうか。
私は、周囲の人に対して思いやりのある態度で接しているのだろうか。
子どもは、親を無条件に尊敬する。だから、親のそれを全部みて、真似をする。
●話をきくこと 遊ぶこと
・お母さん・お父さんが、子どもの話そうとすることをうるさがって、聞いてあげないことが続きますと、子どもは、だんだん話すことに意欲を失い、無口になっていきます。そうなりますと、社会性、洞察力、自発性といった子どもにとって大切な能力の発達にも支障をきたします。子どもの話をよく聞いてあげるということは、子どもの心の発達にとってとても大切なことである – ということを、お母さん・お父さんは心に留めておいていただきたいと思います。
・いっしょに遊んでくれるお父さんの場合には、子どもの心にその楽しいイメージが刻み込まれます。これが父子関係にいい影響を及ぼしますし、後の思春期の危機を乗り越えるためにも大きな意味をもっているのです。子どもが好きで、子どもとよく遊べる男性には童心があります。童心があるというのは、子どもの気持ちが残っているということです。子どもの気持ちが残っている大人は、子どもの気持ちを汲むことができます。それは子どもへの「思いやり」に通じるのです。
・「子どもの遊ぶ時間がない」とか、「どうやって遊んでいいか分からないし、苦手だ」と言うお父さんもいるでしょうが、少しずつでもいいのですし、うまくできなくてもいいのです。子どもと遊ぼうと努力してみることが大切なのです。子どもは遊びの天才ですから、逆にお父さんを遊ばせてくれるかもしれません。まずは、子どもの相手をすることを楽しみましょう。そうすれば、子どももそれを楽しむようになるでしょう。
たぶんここのキーワードは
「丸ごと全部受け止めること」
「丸ごと全部受け入れること」
だろうと思う。
話している内容、みえている世界、
嬉しいこと、楽しいこと、おかしなこと、不思議なこと、寂しいこと、怖いこと、いやなこと、ドキドキしたこと、恥ずかしいこと
それらすべての感情を、批判も、評価も、非難もせずに、ただただ、丸ごと全部。
●スキンシップの重要性
・乳幼児期にスキンシップが不足していた子どもは、その後においては、体も大きくなり、年齢が上がると共にますますその不足を取り戻すことがむずかしくなります。このようなことから、「思いやり」の心が順調に発達しない例が多いのです。ですから、最も自然にスキンシップを楽しめる乳幼児期に、お母さん・お父さんは子どもと十分に遊んでほしいと思います。
・お母さんにスキンシップを求め、それが受け入れられることで子どもの情緒は安定し、眠りにつくのです。情緒の安定は子どもの心の発達に欠かせない大切なものです。ですから、子どもがスキンシップを求めてきた時には、お母さんは十分にそれを受け入れてあげるといいのです。
・子どもが大きくなるにつれて、お母さんは「甘えないで」と言って、そうした体での甘えを拒否することが多くなります。しかし、体での甘えは、ためらわずに受け入れてあげていいのです。小学生であっても、中学生になっていても…。それによって子どもの情緒が安定するからです。
・体で甘えることに似た甘えで、夜寝る前などに、「そばにいてほしい」とか「お水ちょうだい」とか「本読んで」などと言って、お母さんに何かをしてもらいたがることもあります。このような甘えも十分に受け入れてあげるといいでしょう。それによって子どもの情緒は安定します。
・私達は、友達への意地悪や攻撃は、「私を助けて」とか「もっとかわいがって」というシグナル(赤信号)だとさえ言っています。そのような子どもへの対応としては、両親を始め周囲の大人達が「思いやり」をもって温かく接し、まずスキンシップを多くすることです。そして意地悪や攻撃に対しても、それを叱らないようにして、むしろ子どもの淋しい気持ちを汲んで、抱いてあげるようにします。そのような子どもは初めそれに抵抗するかもしれませんが、回を重ねるうちに子どもの方からスキンシップを求めるようになり、それに伴って子どもの攻撃的行動は少なくなってきます。
スキンシップというと、文字通り肌と肌のふれあいを意味するけれど、
形を変えた行為として「お水ちょうだい」「本読んで」などがあるのだという事実。
「そばで見てて」「一緒にいて」「きて」などもこれに入るのだろうと思う。
自立というのは、自ら立つことであって、強制的に立たせられることではない。
自ら立とうとした時に、杖を渡してその力を奪い取ること(過保護)は避けたいけど、
まだ自ら立とうとしていない子を、ムリやり立たせるのは違うと思う。
親が自立を急がせようとして、ただ厳しくすればよいと勘違いすると
不足した愛情を。ゆがんだ形で満たそうとすることになる。
羽の伸びていない雛を高いところから落としたら、ただ死ぬだけ。
●きょうだい
・(六歳から七歳頃)きょうだいのそれぞれが両親からかわいがられていると信じている場合には、きょうだいの仲もよくなり、下の子は上の子を慕い、上の子は下の子のめんどうを見たりするようになります。
・きょうだいはそのような連続性の中で生活しているのです。ですから、その一部分を取り上げて裁くことはできないのですし、そもそもきょうだいげんかを裁くということ自体が誤りなのです。裁けば、どちらかを悪人にしなければなりません。しかし、親だけはわが子を悪人にしてはいけません。
・初めての子どもですと、初めてのことで緊張や不安が多く、育児書に頼って子育てをしても、育児書に書いてある通りには子どもは育ってくれない – ということで、いらいらしながらの子育てになってしまい、子どもとの間がしっくりいかなくなるという場合があります。ところが、二番目の子どもになりますと、最初の経験が役に立って、子育ては育児書通りにはいかないこともわかり、ゆとりをもって育てられますので、子どもとの情緒的な結びつきもしっかりできるということになります。このような場合には、上の子とお母さんとの間の情緒的な結びつきをしっかりつけるために、私は、お母さんと上の子だけで一泊旅行をしたり、一日ゆっくり遊んでくるようにすすめています。また、その子どもが一人でいる時に、ゆっくりあいてをすることも大切です。いずれにしても、その子とお母さんと一対一で親しくふれあうことが必要です。二人だけでいる時には、その子が実に落ち着いた状態になることを経験するでしょう。そうしたことを何度かくり返すうちに、子どもには、自分はお母さんからかわいがられているのだという確信が生まれ、お母さんを信頼するようになり、それとともにお母さんをいらいらさせるような行動も消えていきます。
「親だけはわが子を悪人にしてはいけない。」この言葉にはっとさせられる。
裁くということは、どちらかを悪いと断定するなりやすい。
どちらかの「行為を」悪いといえばまだ救いがあるのだけれど、
兄弟げんかでどちらかの「行為を」悪いと言ったとしても、
それは限りなく人格否定に近い印象となってしまう。
●かんしゃく
・(一歳半から二歳頃)自分の思い通りにならないと、かんしゃくを起こすことがありますが、これは発達段階において通らなければならない状態ですので、叱らずに静まるのを見守ってください。走ったり、高い所へ登ろうとしたり、動きが活発になります。事故やけがが起きないように見守りながら、できるだけ子どもの冒険を許容することが、子どもの意欲や積極性を養うのに役立ちます。
・子どもが歩き始める頃から、子どもは何でも一人でやりたがる自発性(意欲)が芽ばえてきます。たとえば、食事の時にお母さんが食べさせようとすると、その手をおしのけて自分で食べようとします。そうなるとスプーンがまだうまく使えませんので、食べるよりこぼす方が多くなり、結局は手づかみで食べることになりますが、それも自発性(意欲)を育てるためにはまかせることです。自発性が芽ばえた子どもは、大人の目で見るとまだ無理だと思うようなことでも一人でやろうとするでしょう。そしてうまくできないとキーキー声を出したり、ひっくり返ってバタバタしたり、物を投げるといったかんしゃくを起こします。お母さんとしては大変扱いにくた時期です。そこで一人でやろうとする子どもに「だめ!」「できないんだから、やめなさい」と叱りつけることになってしまいます。しかし、この「一人でやろうとする気持ち」は自発性(意欲)の発達の現れです。お母さんとしては一歳児はこういう子どもであることを承知して、一人でやりたがる時にはやらせてみることが必要なのです。そして、思い通りにできなくて子どもが大騒ぎしても、さらりと受け流す大人の対応が必要です。
普段、ちょっとしたいたずらや間違いを受け流せる、心に余裕のある人でも、
かんしゃくを起こした子どもに対しては、怒ってだまらせようとしてしまうケースは少なくない。
(というかそれ私のこと…)
かんしゃくを起こしている子どもに対しても、
それが通り過ぎるのを待つことができてはじめて
「寛容」という言葉がふさわしい大人になるのだろう。
お店や公共の場で静かにさせる必要があるなら、いったんその場を離れればいいだけのこと。
黙らせようとして怒ると、火に油を注ぐことになってしまう。
●親の過ち
・子どもから「お母さん、お父さん」と呼ばれるようになりますと、謙虚な気持ちがどこかへ行ってしまって、「親の言うことを聞きなさい」と言って、いばるようになってしまうのはなぜでしょうか。それは、「育ててやっているのだ」というような傲慢な心があるからです。その傲慢な心が、子どもを自分の思うように支配しようとする育て方につながり、子どもの人格形成に歪みを生じさせてしまうのです。
・子どもがお手伝いをしたがった時に、お母さんが「じゃまになるから」と言って拒否しますと、子どもは家事のお手伝いに興味を失い、お母さんがお手伝いをしてもらいたい時がきても、それに応じないようになってしまいます。
●過保護・過干渉
・親から過保護・干渉を受けている子どもは自発性の発達が遅れています。そのような子どもは「おとなしい、よい子」にされてしまっているのです。そのことに気づいたら、お母さん・お父さんは過保護・干渉をやめ、子どもに自由を与え、子どもにまかせて、自発性の発達を促がす必要があります。自発性の発達が遅れている「おとなしい、よい子」は、思春期になって自己決定を迫られるようになると、それができなくて様々な問題を起こすことが多いのです。
・未経験な子どもが何か新しいことに挑戦する場合、うまくいかないことの方がむしろふつうです。しかし、そのつらさに耐えるという体験をすることが必要なのです。その点で、子どもに失敗をさせないようにと、先回りして手を貸してしまうお母さんは、この適応の能力を育てることができません。また、生活習慣の自立も適応能力の一つとなります…(洗顔、歯みがき)
・どうして、このように子どもの姿が変わってしまったのかを考えてみると、安全教育という名目のもとに、幼稚園・保育園でも小学校でも、冒険を禁止してしまったからなのです。
・過保護のために友達と遊ぶことのできない子どもの場合には、過保護をやめるために、子どもに手を貸さないように努力しましょう。今まで通りやってもらおうとして、子どもは「やって」と言ってくるでしょうが、「自分でやってみようね」と言って、絶対に手を貸さないことです。この場合も、子どもは初めは戸惑いますが、自発性はどの子どもにもありますから、だんだんに自分の力でやってみようと挑戦し始めます。
・大人の介入なしで、子ども同士が集まって遊ぶことで、子どもは自然に人間関係の基本を身につけるのです。仲間の子ども達が何を考え、どういう感じ方をするのか、自分の言動に対してどんな反応を返してくるのか、といったことを体で覚えていくのです。小さい頃にそれをしてこないまま思春期になった子どもは、友達を最も必要とする時期に、悩みを相談する友達がいないために一人で悩みをかかえ込んでしまうのです。そのことを考えるならば、子ども同士が群れて遊ぶことができるようにするためにはどうしたらいいか、大人達が真剣に考える必要があるのです。
・「いたずら」を悪いこととして禁止された子どもは、自発性の発達が遅れ、三歳、四歳になっても友達を求める気持ちが現れません。しかも、友達がいたずらをしていると、それを悪いことのように思って、そのような子どもと遊ぼうとしないのです。三歳になって、幼稚園に通園し始めても、友達の遊びを傍観しているだけで、仲間に入ろうとしないのです。
この現代社会では、
自然が減り、車が増えた。
口うるさい老人との接点が減った代わりに、犯罪者が増えた。
ガキ大将はいなくなり、陰湿な集団いじめが増えた。
働き尽くめで家にいない父親は減り、子どもの行事に付き合うDQN親が増えた。
だから、子どもにふさわしい冒険 といっても、それが難しいという現実がある。
ちょっとの怪我、少しだけ危ない冒険 ではなくて、
目を離すと、大怪我と生死にかかわる命をかけた冒険 になってしまう。
これを解決するには、都会型の生活では、難しいのだと思う。
プレーパークのようなところに、かろうじて残っているのかも知れないけれど、。
命の危険を考えると、どうしても
「やや過保護」に偏るのは止むを得ないような気もする。
おとなしい、よい子 にしたくはないのだけど。
●テレビ
・テレビを見るのも遊びですが、これは子どもとしては受け身の遊びですから、自発性の発達している子どもは長時間見続けることはないものです。ですから、テレビに長時間かじりついている子どもは、それだけ自発性の乏しい子どもと言えるでしょう。
そして、子どもはテレビとゲームに接する時間が増えてしまう。
なんとかならないのかなと、思う。