生きがいの創造決定版

スピリチュアルな科学研究から読み解く人生のしくみ

愛する人に先立たれた人、
深く傷つけられた人、
死にたいぐらいつらい状況にいる人
そんな人たち全てにおすすめ。
直感的にビビっときたり、何となく気になったら、
その時が、読み時なんだと思う。
完全版というものがこの後に出ているので、
これから買う人はそちらがよいかも知れない↓

●生きがい・人生の意味について

・光に聞いてください。「今回の人生は、誰が計画したんですか?」
 「あなたが、自分自身で計画したのです」
 光に聞いてください。「今回の私の人生の目的は、何でしょうか?」
 「生きることだ」
 「生きることって、具体的には、どういうことですか?」
 「やり抜くことだ」
 「何を、やり抜くんですか?」
 「生まれる前に、自分で決めたことを」
・光さんに聞いてください。「そんなことが、私にできるんでしょうか?」
 「あなたの人生は、あなたが計画したのです。あなたにできない問題を、あなた自身が選ぶはずがありません」
・どの選択肢を選びながら生きていくのが最も理想的な人生展開なのかは、その人生を終えるまでは知ることができません。なかには、ある大切な人と、ある場所でちょうど隣り合わせになるなど、その人生で、たった一度だけ、ほんの数十秒間しか出会わないように仕組んでおく場合もあり、その数十秒の間に特定の言動をするかしないかによって、その後の人生展開が大きく変わってしまうのです。たとえば、勇気を出してその人に声をかけるとか、困っているらしい姿を見て助けてあげるなどの言動が、人生の分岐点で、「運命」という名のスイッチを入れることになるわけです。
・常識的にわかるのは、「常に、より愛のある、創造的な選択をしていくこと」こそが、最も理想的な選択肢を選び続ける鉄則だということです。人生が、自分で自分に与える試験問題の組み合わせであり、問題集であることを考えれば、これ以上の「必勝テクニック」は存在しないはずです。
・「生きがい」は、本来、何か自分の外部にある源泉からもたらされるものではなく、あくまでも「クリエイティヴ(創造的)に生きたい」という自らの意志の有無が問題であるはずです。したがって、大切なのは、「より価値ある人生を創造したいという意志を持っているかどうか」ということであり、家族や趣味や生きる目標のような「生きがいの源泉」を明瞭に自宅していなくても、そのような意志さえ持っていれば、「私は生きがいをもって生きている」と宣言しても良いはずです。生きがいは、「自分には価値があり、その価値をもっと高めたい」という意志を持った瞬間に生じるものであり、その源泉が何かということは、重要な問題ではありません。
・「俺の生きがいは、釣りをすることだ」などと、「生きがいの源泉」を明確に自覚している人よりも、「何が生きがいなのかと聞かれてもはっきりしないけれど、とにかく、僕は生き生きと生きたいと思っている」という人の方が、特定の関心ごと意外の広い分野に対して創造的であったりします。「釣りが生きがいだ」ということは、「釣り以外のことに対しては興味がないので、創造的に取り組むことができない」ということかもしれないのです。このような現象からも、「生きがい」という言葉が、「何か特定の物事」(源泉)を指すのではなく、「あらゆる物事に対して創造的であろうとする意志」を指しているのだということを、ご理解いただけることでしょう。
・成長と進歩の程度は、その意識体が、「自分をみがいて成長したい」という、強い意志を持っているかどうかということによって、決まるのだそうです。
・D「それでは、仕事の価値の差は、いったい何によって決まるのですか?」
 C「その仕事に呼ばれているかどうか、ということだ。それぞれの人が、それぞれに適した仕事に呼ばれている。だから、自分が呼ばれた仕事を、一生懸命やっていくことが大切なのだ」
 D「どの仕事が、どの人を呼ぶかということは、どうやって決まるんですか?」
 C「それぞれの人間が、その時点で学ぶべきことを持っている。したがって、それぞれのむ人間の学びに適した仕事が、最適な人物を呼び寄せるのだ」

この内容と、以下のブレイクスルー思考が、この本のキモとも言える部分だろう。
この分離された、不自由な肉体 という姿の中で、学ぶこと。
成長課題と正面から向き合い、そして成長すること。
そのことそのものが、意味だと考える。
自分を押し殺して生きたり、現実から逃げたりするのであれば、
生まれてきた意味・チャンスを失ってしまう。

●ブレイクスルー思考について

・「挫折から立ち上がろう」「不運だったが乗り越えよう」と考えているかぎり、「失敗して失った価値を、何とかして取り戻そう」という「修復作業」の水準にとどまってしまい、「試練そのものに大きな価値を感じて、何事も楽しみながら前進しよう」という建設的な生き方にはつながりません。
・「ブレイクスルー思考」の基本は、「私たちは決して挫折することはなく、不運に見舞われることもない。一見、挫折のように見えることも、不運のように感じられることも、実はすべて、『順調』そのものなのだ」という大前提です。このように考えるためには、これまでのような、「目の前の壁(一見、無価値なように思える問題や障害物)を、プラス思考で乗り超える」という言い方の根拠となっている、フレームワーク(枠組み)そのものを、変えてしまわなければなりません。次のようにして、「そもそも、壁そのものに価値があるのだ」と、考えれば良いのです。
1)「マイナス」「プラス」という見方をしないで、「すべての物事はプラスであり、本質的にマイナスなものは存在しない」と思い込む。
2)「目の前の壁(無価値な問題)を解決することが、乗り超えることになる」と考えるのではなく、「目の前の壁(貴重な試練)そのものに価値があり、価値のない問題など存在しないのだから、その試練に挑戦するだけで、もう乗り超えたのと同じ価値があるのだ」と考える。

トランスパーソナル思考と生まれ変わりの概念前提とすれば、
自然に導き出されるのが、このブレイクスルー思考という現実認識(世界観)。
この思考ができる人は、確かに強い。

●ソウルメイトについて

・ソウルメイトは、今回の人生ではじめて出会った瞬間から、もうずっと前から互いに知っていたかのように、深いつながりを感じる相手であることが多いのだそうです。「数人の被験者から中間生での体験を聞いて、私たちは生まれる前に、その人生での家族を自分で選択するのだと、私は信じるようになった。私たちは、自分に最大の成長を与えてくれる人生パターンと、そのための状況、そしてそれを最も効果的にもたらしてくれる仲間の意識体たちを、自分で選び出すのだ。そして多くの場合、その意識体たちは、かつていくつもの人生で出会い、さまざまな形でおたがいに影響を与え合った意識体たちなのである」「お前たちは、肉体を持って物質界に生まれた時にしか、ほかの意識体に対する借りを返すことができない。もしもその人生で借りを返すことができなければ、お前たちはその人生を反省するために、あの世に戻らなければならない。そこで、借りを負った相手の意識体が戻ってくるまで、待っていなければならないのだ。借りた側と貸した側、二つの意識体が同時期に物質界に生まれることができる時に、お前たちは、戻ることが許される。戻る時期は、自分たちで決める。借りを返すために次の人生ですべきことまで、きちんと決めてから生まれるのだ」
・ツインソウルの相手に出逢った場合には、その人生で初めて、疑う余地のない絶対的な一体感を感じることができるので、お互いに、すぐに「この人だ!」とわかることでしょう。逆に、「この人、私のツインソウルなのかしら」と迷ってしまうようでは、ツインソウルである可能性は低いはずです。ツインソウルの圧倒的な吸引力は、たとえ互いに別の結婚相手や恋人がいたとしても、理性では抑制できないほど激しいものだからです。自分の分身、もうひとりの自分に出逢うという体験は、それほど強烈な、その人生で最もドラマティックなひとこまになることでしょう。
・確かに、自分の過去を反省することも大切ですが、悔いるばかりで暗く落ちこんでいるのでは、人生がただの「苦行」になってしまい、俗世間に背を向けて山にこもるしかなくなります。しかし、私たちがわざわざ、この物質世界に肉体を持って生まれてくる大きな理由が、「人間関係を学ぶこと」であることがわかった今、俗世間から遠ざかるのではなく、多くのソウルメイトたちと再会し、あらたにソウルメイトとなってくれる人たちと出会うことこそが、「楽しみながら学ぶ」という意味であることは明らかです。「人づきあいは面倒だから」といって敬遠しているかぎり、意識体としての進歩はのぞめず、わざわざ地球に修行に着ている意味がありません。

私は、子どもが生まれてからは、この子たちと過ごす時間を最大にするために、
あえて、友人や、仕事関係も含めた、「家族以外の人との接点」を
可能な限り限定的なものにしぼっている。
フェーズが変わると、自然にその状況もまた、かわってくるのかも知れない。
家族以外でプライベートのつながりがある人は、本当に限られている。
習い事などするようになると、また少し増えるのかも知れないが…。
どんな、まだ見ぬ友人との出会いがあるのか、楽しみだ。

●愛について

・第四に、「愛」を実行するためには、ある時点で、「その相手を愛そう」という明確な決断を下さなければなりません。決断を伴わない「感情」は、時とともに変化してしまうからです。
・第九に、「愛」は「決断、意志、能力に支えられた行為」です。「恋」とは違って、単なる「感情」ではありません。「感情」というのは、自然発生的に生まれるものであり、一時的であって、永続性は保証されません。したがって、「あの時には好きだったけど、今はもう、好きではなくなった」という時、私たちは、「恋」という感情について語っているのです。また、「これまで、あなたを愛していたけれど、いまは愛せなくなった」というのは、正確にいうと、「これまで、あなたを愛していると錯覚していたけれど、本当は愛してなどいなかったということに、いま気づいた」ということを意味しているわけです。

この辺りは「ソウルメイト」にも詳しく書かれていたが、
これもまた、トランスパーソナルな世界観から導き出される話だ。
そして、同意できる内容。

●死後およびトランスパーソナルについて

・もともとトランスパーソナルな存在である私たちは、この物質世界を訪れてひとつの肉体に入ったあとでも、肉体的な制限は受けながらも、やはりトランスパーソナルな存在として、心の奥ではつながり合っているというわけです。たとえば、ある磁石(私)と別の磁石(あなた)が、間に一枚の紙(肉体)を置いても引き付け合うように、物質的には紙(肉体)によって遮断されているかのように見えても、実は磁力(見えないコミュニケーション)によって結ばれているのです。
・また、この証言によると、人生を終えたあとで、すでに先立っていた人々の意識体とコミュニケーションをとり、その人生での人間関係の秘密を理解して互いに許し合うという、一種の儀式のような過程が待っているようです。このような証言は実に多いため、人生で出会う人々は、親友も、宿敵もみな、深い理由にもとづき、必然性があって出会っているのだということがわかります。
・Dあなたの遺体は川べりに横たわっているというのに、奥さんは何も知らない。あなたはその時、どんな気持ちでしたか?
 C妻を守ってやりたい、と思いました。
 Dそれからずっと、スピリットとして、奥さんのそばにいたんですか?
 Cええ、彼女がもう大丈夫だとわかるまで。
 D奥さんが、あなたの死のショックから立ち直るまで?
 Cそうです。
この被験者は、かつての人生の最期に、自分の死を自覚して受け入れたあと、自宅で夕食の支度をしていた妻のもとへと、飛んで帰っています。しかし、自分にはもう物質的な体が無いため、妻には自分の姿が見えないことを知り、直接的なコミュニケーションをとることは、あきらめたようです。そこで、この意識が感じたのは、「妻を守ってやりたい」ということでした。このように、人生を終えたあとでも、物質世界に残した愛する人たちのそばにいて、意識体の姿で見守っていたという記憶が、催眠状態で次々に出てきます。このような記憶からは、私たちにとって、「別離」という言葉が幻想にすぎないことがわかります。私たちは、愛する人たちと、心の奥で、永遠に「つながって」いるのです。

飯田氏の書く本の全ての前提となる部分。
たぶん、ここを理解できないと、それ以外の全ての話が理解できない。
そしてこの前提はまた、仏教における空の理論等を知ってると、より深く理解できる。
いずれにしても、とても安心を与えてくれる話しだ。
何も、心配する必要はないんだ。

●チャレンジ および 情緒障害について

・「多くの情緒障害は、現在の人生よりも、むしろ過去生の体験にその根を持っており、それらの症状は、その原因となっている過去生の体験を再体験すると、すっかり消滅するか軽減されるのである」
・重い病気やハンディキャップを持ちながら生きる人は、決して「運の悪い人」ではなく、しばしば5回されるように、「過去生で悪いことをした報いを受けている人」でもありません。なぜなら、意識体としての自分が宿る肉体そのものに試練を与えながら生きるというのは、この物質世界で人間として生きるうえで最も困難な挑戦課題のひとつであるため、それほどの試練に挑戦するに値する、よほど発達した意識体のみに、そのチャンスが与えられるはずだからです。したがって、重い病気やハンディキャップを持つという高度な試練に挑戦している人は、人間としての卒業試験を受けたり、卒業論文を書いているような、それほどの学びを積んだ素晴らしい人であり、勇気あるチャレンジャーなのです。
・このような人間観をもとにして、現在、欧米では、このような勇気ある人々を「病人」や「障害者」と呼ぶのは止めて、「チャレンジャー」(挑戦者)と呼ぶ習慣が広がりつつあるそうです。この言葉には、「それほどの高度な試練に果敢に挑戦している、素晴らしい人々」という、尊敬の念が込められているのです。

情緒障害と肉体的な障碍はまた別だということになるのだろうか。
肉体的な障碍があっても精神的には優れた人物である場合もあるけれど、
情緒障害と肉体的な障害の両方をもっている人はどう考えればよいのか。
ひとつのものの味方としてはよいのだけど、
書かれているのは、科学的といより、道徳論のような感じがする。
このあたりは、少し考察が浅いと感じる。

●生まれ変わりの実在について

・「生まれ変わりが真実だという証拠については、そのほとんどが状況証拠ではありますが、きわめて有力なものがそろっている現在、理論的にこれを認めることに、特に問題はないと思われます。」
・研究者の多くは、現在では「生まれ変わり」に触れることを敬遠しているキリスト教の信徒であるため、子供のころから教えこまれてきた教義に沿わない研究結果を、勇気を持って公表しているのが実態なのです。ただ、決して、教祖のイエス自身が間違っているということではありません。キリスト教にも、イエスが生きていた頃に近い原始キリスト教の時代には、「生まれ変わり」を認める宗派があったことが知られています。ある時に、当時主流であったキリスト教の宗派が、天国のすばらしさと地獄のおそろしさを強調することにより、一般の人々に「死後の世界」をわかりやすく説明しようとして、「教団としては、生まれ変わりを積極的には認めないことにしよう」と、話し合いで決めただけなのです。
・退行催眠で過去生を思い出しながら、今回の人生では知ることのできない言語をしゃべりはじめる被験者は数多く、その言葉は世界中の広い範囲にわたっており、古代中国語や、ジャングルで使われる方言までもが含まれているそうです。
・被験者たちが実際に会うことができるのは、被験者自身が「この人に会いたい」と願った人物とはかぎらず、むしろ先方(現在は他界して意識体の状態でいる故人)が、再会を強く望んでいる場合に現れてくることがわかりました。しかも、まだこの世に生きている人物や、いったん他界して現在はふたたびこの世に生まれ変わっていると思われる人物は、当然ながらいくら願っても現れてくれず、代役の意識体が「あの人は今、来ることができないんです」と伝えてくれました。これらの事実から、被験者たちが故人に会った体験は、精神の錯乱や空想、あるいは本人が「あの人に会いたい」と思う願望の投影ではないことが証明されたのです。

退行催眠の実施状況や、被験者の価値観や宗教観などの
前提条件を詳細に示したレポートがないと、統計的に意味があるのかは
なんともいえないけれど、まあ、これはこれで興味深い。

●生まれ変わりの証明について

・本書の目的は、スピリチュアルな現象(たとえば「死後の生命」や「生まれ変わり」)の存在そのものを、証明することではありません。これらについて、あらゆる人を100%認めさせることができるように証明することは、この世に「ポリシーとして否定することに決めている方々」がいらっしゃるかぎり、どのような方法を用いても不可能だからです。
・目の前の現実を信じたくなければ、いくらでも無理な理屈をつけて否定することができます。全員が幻覚を見ているのだ、脳のいたずらによる錯覚だ、テレビ局のトリックだ、物理学の法則には当てはまらない、とにかくバカバカしい、などと主張していけば、最後まで否定し続けることは可能ですし、そう思いたがるのも、まったくその人の自由であり、権利なのです。
・平安時代の人がスペースシャトルの原理やしくみを理解しようとしても不可能であるように、現代を生きる私たちの科学では、この「意識体」の正体や原理やしくみを明らかにするのは無理だからです。私自身、数多くのトランスパーソナルな(個を超えた)超常体験をしているので、「この体験を科学の水準で解明するためには、少なくとも科学があと数百年ほど進歩しなければ不可能だろうし、結局のところ、物質世界に住んで三次元(縦・横・高さ)の感覚しか知らない人間には、永遠に解明できないだろう」ということが、実感としてわかるのです。

確かにこれは、そのとおりだろうな。
思い込みのある人には、たとえ物理的に視覚器官がとらえたものであっても、
脳で歪んだ処理をされてしまう。
つまり、意識が見えないと錯覚させるケースはある。

●その他

・「私に影響を与えたのは、福島大助教授、飯田史彦氏の著書『生きがいの創造」でした。魂が地獄へ転生するという教義に縛られている***の現信徒、元信徒に是非読んでいただきたい。***の何が間違っていたのか、その本質に触れ、真の反省とは何かを感じ取ってもらいたい。そして一日も早く、目を覚ましてほしい。私のような過ちを、君たちに歩ませたくありません。」

***になってるのは明らかにオウムだろうけど、
伏字にする意味があったのだろうか。
というか、これを書いたのはどの犯罪者だろう。

タイトルとURLをコピーしました