ビックリ! インド人の頭の中

超論理思考を読む

この分野の素養がないと少し難しいかも。
でも、好きな人にはとてもおもしろいはず。
非我なのか無我なのか。

以下、心に留まったところ

●インド哲学のすごいところ 西洋哲学との違い

・古く論理学を樹立した民族は、ギリシア人とインド人だけである。だから、世界の哲学は、ギリシア哲学とインド哲学を起源とする。ゆえに、近代にいたるまで、たとえば中国思想や日本思想はあっても、中国哲学や日本哲学はないのである。
・西洋的なものの見方では、いつも刺激は外からやって来る。受動的(パッシブ)だから感情(パッション)なのである。一方、インドでは近くは受動的ではない。多くの学派は、私たちの奥底に自己の存在を認めている。その存在が認識の過程を西洋哲学とはまったくちがったものにしている。知覚は能動的である。ヨーガ学派では、ヨーガの行法に八つの階梯を説くが、その中に「制感」という階梯がある。これは感覚器官をその対象から引き戻し、感覚器官が対象に向かうのを押さえることである。
・現代科学や哲学が、自分を制御できずキレてしまう人々に有効なアドバイスを施せず、「キレるな」とすら言えないのは、そうするだけの思想がないからである。「自己」の存在を知るインドの人々だけが苦もなく彼らにこう言いうるのである、「キレてはいけない。自らを制御しなさい」と。
・わが国の若者たちは、「再生」ということに期待をいだいているのであるが、インド人はそうではなかった。インド人は論理的なので、そのような目先のことで喜びはしなかった。かれらは「再死」に目が釘付けになったのである。人生は苦しいことの連続で、その果てに最大の苦しみとしての死がある、その死を無数回これから繰り返すというのは恐怖以外のなにものでもない、と考えたのである。輪廻はおぞましいものである。だからこそ、かれらは、人間の最終的な目標は、輪廻転生の世界から永遠におさらばすること、つまり解脱し、安寧平和な涅槃の境地に入ることであるとした。

インド哲学の深みを知ると、
神田昌典さんの「2022」やそのベースの概念を提供している「3つの原理」にあるように、
インドを含む宗教ベルト地帯がこの後数十年の文明の中心に返り咲く
という話は、納得できる話。

●西洋哲学との違い

・インド哲学の常識として、自己は心や身体とはまったく異なる。インドの哲学者たちは、デカルトのように、心を自己と見なすような軽はずみなことはけっしてしない。熟睡しているのは、あるいは失神しているのは心と身体であり、シャンカラ流でいう見る者、見ること、つまり認識主体である自己は、熟睡中でも失神中でも、つねに目覚めているのである。だから認識主体である自己はいかなるときにも断絶がないのであり、したがってわれわれは、安心してそれが常住であることを確信できるのである。
・西洋の哲学者の思想は単発的であり個別的であって、その時代がもつ社会情勢や時代精神といったものの影響を色濃く受けている。もちろん、彼らもまた社会に影響を与え時代の精神をつくっていく側でもある。ある意味、個々の哲学思想それ自体が歴史の申し子なのである。だから、時代が変化していくと、時代に合わなくなった思想は著者とともに忘れられ省みられなくなる。一方、インドでは、学派に所属するかぎり、哲学思想の基本的な問題は時代とは関係なく一貫している。テーマが一定であれば、思考というのは時代に大きく左右されるものではない。人間の内面的な部分というのは時代の社会的変化とは本質的に関係がない。
・インドにおいては、学問的な真理と私たちのいかに生きるべきかということについての真理とは一致している。合理的、論理的であるからこそ信じられる世界は、ただ一つあるだけである。ところが、現代は、学問の探求と私たちの生きるべき道の探求とが大きく離れているように見える。科学的な知識には倫理的な思索がなく、信仰の世界には合理的思考が欠けている現代。二つの道は二本のレールのように平行線をたどっているのが現代である。

もう、デカルトに始まった文明・価値観の時代は終わりつつある。
西洋と東洋の中間にある日本人あたりが
東西哲学のエンゲージメントの触媒になる。
そんな必要があると思う。

●ブッダの視点

・仏教の開祖であるゴータマ・ブッダは、経験的事実を出発点としないいわゆる形而上学的とされるいくつかの問い(十難)にはけっして答えなかった(無記)。その問いのはじめの二つが、まさに、「世界は時間的に有限であるか」と「世界は時間的に無限であるか」というものであった。経験論の立場から不可知論を展開したわけで、この点にかぎってみれば、ゴータマ・ブッダとカントの視点には大いに共通性がある。
・ゴータマ・ブッダが経験論を採ったのは、水かけ論争で時間を無駄にすることなく、苦からの超脱を目指して実践修行に専念すべぎてあるという、弟子たちへの教育的配慮によるものであるから、…

とくに日本人は、仏教を宗教だととらえる見方を、まず捨てる必要がある。
仏教をなのる非論理的な宗教が多い今、それを求めるのは難しいのか。
仏陀の教えを、仏教ではなく、例えばゴータマ哲学とか、何か、
別の呼称をつけるのはどうなのか。

●宇宙の始まり

・二元論的流出説を唱えるサーンキヤ哲学であった。この哲学は、精神原理である自己と、それと本来無関係な非精神原理である根本原質との二元を立てる。その根本原質は、純質、激質、暗質という三つの要素からなり、自己から関心をもたれたとき、その三要素のバランスが崩れて流出が始まり、しかるべきプロセスを経て世界が成り立つとする。
・二元論では、精神原理である自己(真実の自己)が、非精神原理である根本原質に関心をいだいて眺めることが、世界が流出を始めるきっかけであると説明される。しかし、かつて根本原質に関心をいだいたことのなかった自己が、なぜ世界の始まりとなる時点ではじめて関心をいだくことになったのであろうか。自己はなぜ永遠に自己の内に沈潜していることができなかったのであろうか。そうするとまた、自己が自己完結できなくなるようなさらに別のものが必要となり、二元論は崩壊する。
・キリスト教も神による世界創造を唱えるが、これにも、今述べたような難点がついてまわる。世界創造以前、神はなにをしていたのか、また、なせせ神は世界を創造したくなったのか、これはおいそれと答えることのできない難問である。
・ビッグバン宇宙論が、科学の装いをとりながらも、きわめて神学的な態度を取るというのも、その理論が流出説であるからにほかならない。

真我が三グナに干渉されて~ というストーリーは、
私も過去に学んだことがある。
いずれにせよ、まずはラージャヨーガでも何でもいいから、
自分で経験してみるのがよいのだとは思う。

●非我と無我について(真の自己 アートマンはあるのかないのか)

・インドで「存在する」か「存在しない」か大問題になったのは、自己(アートマン)である。
・ゴータマ・ブッダの仏教は、苦観を中心に据える。…四聖諦としてそれを観察し考察しつくす瞑想に打ち込むことが、もっとも重要な修行であった。そして、こうした苦の観察、考察を補助する瞑想として、無常観が、また無常観を補助する瞑想として、非我観が説かれた。非我観というのは、われわれの心身を構成するどの要素も、常住不変の自己ではなく、頼むにあたいしないものだということを観察、考察する瞑想のこどてある。ところが、ゴータマ・ブッダの滅後しばらくすると、ゴータマ・ブッダの経験論的立場を理解しない仏教徒たちが、ならばそもそも自己なるものなどないのだと軽はずみにも考え、典型的な形而上学説である無我説を唱えてしまった。この無我説が、その後の仏教の特色ともなり、同時に泣きどころとなったのである。無我説を理論的に展開した文献のおそらく最初のものは、『ミリンダ王の問い』である。
・無我説は、インド哲学、思想の流れのなかでは、きわめて例外的なのであり、また、実際のところ、理論としてはまったく破綻している。
・自己がなければ困る第一の理由は、行為(業)の責任を負う一貫した実体が必要だというこどてある。とくにインドでは、輪廻転生、因果応報、自業自得は、いかなる哲学にとっても前提となる必須のテーマである。
・かれ(ヤージュニャヴァルキヤ)の議論の内容は多方面にわたっているが、なかでも精力を傾けたのは、真の自己(アートマン)とはなにかという問題であった。ウッダーラカ・アールニの「有の哲学」やヤージュニャヴァルキヤの「自己の探求」、このふたつが古いウパニシャッド文献群における白眉であり、後世に与えた影響力には計り知れないものがある。

非我説をとるのか無我説をとるのか。
これも、経験をすればわかるということで、
禅定に入ることができるレベルになるまでは、頭の隅に置いておくのもよいのかな。
でも、このあたりは本質にかかわるところなので、
誰がどういう理由でどういうことを言っているのか、
少なくとも仏教者は理解しておく必要がありそう。

●その他 正しい理解

・ガーンディーの「サッティヤーグラハ」という語は、しばしば安直に訳されるように、「真理の把捉」「真実の把持」などといったわけのわからないものではなく、「真実への執着」「立てた誓いへの固執」、つまり、運動は絶対に非暴力・不服従という方法によるのだという誓いを立て、それをいかなる困難があっても守り抜く、ということを意味しているのである。

それから、この本の巻末の参考書籍一覧と、
著者の一人である石飛さんのサイト(下記)の紹介が、うれしかった。
http://homepage1.nifty.com/manikana/