石井式漢字教育
色々なことで引用されるので、どんなものか、手にとってみた。
ちょうど娘も、文字に興味をもってきた頃なので。
●幼児期に教える意義
表語文字を学んだ人と表音文字を学んだ人とでは、当然頭の働きが違ってくるわけです。しかも、それは幼児期に学んだ場合に、大人になってからその差がはっきりと出てくるのです。
三歳から十分な漢字教育を受けた子どもは、平均知能指数が低い場合でも、130になります。130というのは、英才とか秀才と称せられる知能をもった子どものレベルです。
子どもの知能を伸ばすには、読書力をつけることが必須です。就学前から本を読んでわかるという状態にしておけば、教科書の理解力も高まるわけで、その後の学校での学習にもとても効果的でしょう。
言葉を知っているということは、ものを見るときに言葉を通してみるということです。言葉を通さないと意識になりません。言葉がなければ、ただ黄色い色を見たからといって、黄色だったという記憶は起こらないのです。言葉があって初めて「ああ、黄色い」という記憶が残るのです。いくら体験を積んでも、それを言葉を通して認識するということをしないと、知識に蓄積されないのです。
なぜ、早い時期に言葉を教えることが重要なのか、それをひと言で言い表している。これ以上にわかりやすい説明はないだろう。
ただし、左脳による識別の段階を早めることで、右脳による直感的な芸術的センスの育成に何らかの影響を与えないのか、それがちょっとだけ気になる。
●ひらがなではなく漢字
「学問、音楽、学校、楽器」と表記すれば、「学問」と「学校」、「音楽」と「楽器」が関連することはすぐにわかります。しかし、これを「がくもん、おんがく、がっこう、がっき」とひらがなで表記するとどうでしょう。音が同じですから、「がくもん」と「おんがく」、「がっこう」と「がっき」を同じ仲間として子どもは関連づけたくなるものなのです。
私たちは絵本はひらがなと思い込んでいますが、そこに大きな誤りがあるわけです。絵本も漢字まじりのものを選ぶべきです。ひらがなだらけの絵本でしたら、上から紙を貼って漢字で書いてみたらいいでしょう。
これは全く同感だ。そして今まで気づかなかった。ブーブー→車 ワンワン→犬と二度教える無駄を省くために、最初から正確な日本語を教えるという話が一般的になりつつあるけれど、ひらがな→漢字というのも、これと似た話だと思う。
●教え方(工夫)
名刺やカルタ程度の大きさのカードを用意します。そこに日常生活の中で幼児の目に触れるものの名前を漢字で書いて貼っておくのです。机、椅子、冷蔵庫、花瓶、何でも貼っておけば、幼児は興味を示してきます。そうすると子どもは質問して来ます。「これ、なあに?」そうしたら読んで教えてやればいいのです。より興味を引くため、子どもの好きなきれいな色のペンを使って書いたり、色とりどりの紙で漢字カードをつくったりすることも一つの方法です。
字はなるべく太く大きく書いたほうがいいでしょう。線が細いとはっきりしませんから、カードにふさわしい太さで書きます。その際に筆を使うと、字の縦横の太さにおのずから強弱がつきますから、よりわかりやすいと思います。筆で書くのが一番いいのですが、もちろんマジックでもかまいません。ただし、その場合は、筆でかかれた字を手本にするのがいいと思います。
ドーマンメソッドのカード作成方法と、この石井式でいう方法の合わせ技で、かなりいける感じだ。さっそく石井式の方法も取り入れてみようと思った。
知能は幼児期に形成されます。つまり家庭教育が一番大事なわけです。家庭教育さえしっかりやっていれば、今の普通の小学校の教育はバカバカしく感じると思います。たとえば欧米でノーベル賞をとるような学者は、小・中学校には行っていない人が多いのです。また、十二、三歳で大学に入学しています。入学試験さえ通れば年齢を問わず入れてくれるわけです。数年前の話になりますが、イギリスのケンブリッジ大学を十六歳で卒業したという少女がいました。数学科を何と主席で卒業しているのです。そしてこの少女をアメリカのハーバード大学が教授に迎えたというのです。驚いたことにこの少女は、小学校、中学校、そして高校には1日も行っていないというのです。父親が家庭で教育したそうです。この父親というのがなかなか面白い人で、自分の子どもは個性が強いから、学校へやったらダメになってしまうと思って、自分で教育する決心をしたそうです。もともと普通のサラリーマンだったのですが、奥さんに「すまないが働きに出てくれないか。私は家にいて、炊事洗濯から子育てまで全部やるから」と言って、夫婦の分担をちょうど逆にして、この少女を教育しました。私もこういった教育法には賛成なのです。
子どもがもっと小さい時には、寝かしつけるときにお話をしてやったものです。とにかく毎晩毎晩話をしてやることが大切だと思い、続けました。何の話をしてやったらいいかわからない、という親もいますが、適当な作り話でいいのです。小さいうちは、親の作り話でもいいのです。昼間庭で遊んだことを話題にするのもいいし、何でもいいのです。年齢に応じて段々とストーリーのある物語りに進んで行けばいいのです。次は、夜、何時になったら本を読み聞かせると決めます。長い物語りになると途中で切ります。もっと聞きたいと言っても、「このお話はまだまだ続きが長いから、今日はこれでおしまい」というようにします。すると子どもは、どうなるんだろうと思いながら次の夜を待つわけです。そこでお話を続けます。そういう繰り返しで、自分自身で本を読みたいという気持ちが起こってくるものです。
寝る時の即興のお話というのは、毎晩自然にしているな。子どものことを真剣に考えてたら自然にそういう発想になる。そして、学校にやるよりも自宅でという話も、実はこれも自分と同じ。仕事のために実行にはうつせていないけれど、育児と家事を全部自分がやるというのも、実はやってみたいことの一つだったりする。
●教え方(NG)
牛乳パックには「牛乳」と書かれていますが、「牛乳の『牛』という字はうしとも読むし、『乳』はちちとも読むのよ」などという教え方をするのは避けるべきです。実体に則して、動物の「牛」が来たら「うし」と読み、「牛乳」のときには「ぎゅうにゅう」と読んで教えてやればいいのです。それをあわせたりしてはよくありません。実在から離れた知識を与えると、子どもの頭が混乱し、かえって覚えにくくしてしまうのです。
○面白いね、そうだね
×違うだろう、そうじゃないよ
勉強というのは、課せられた仕事、つまり責任を果たすために努力することです。本当はやりたくなくてもそうせざるを得ない、それが勉強の本来の意味です。勉強は学習に比べて効果は少ないということを知ってください。学問というものは自分から進んでやらなくては効果がうすいのです。
しかし、詰め込みはいけません。また、先走ると失敗します。聞かれたときは教え、聞かれないときは教えない – これが基本です。教えるということは、子どもが解決するという力を使わないことになります。自分が求めて知るのと、与えられて知るのとでは天地ほどの違いがあります。
子どもの興味をそらさずに、負担にならない程度で進めることが大切です。肝心なのは、何字教えるかではなくて毎日続けることです。
つい、あせって知識の詰め込みをしてしまいそうになるので、注意しなくてはいけない。求められないときに教えるというのは、無意味なだけでなく、子どもをうんざりさせてしまう。
●外国語学習と日本語の特徴
中国では、日本人より流暢な外国語を話す人が大勢います。中国語は、言葉の音韻が多いことがその理由です。日本語は語彙は多くても、発音の単位が世界で一番少ないため、音韻の区別を聞きわけられないのです。
日本語の足りないところを中国語によって完全に補うことができたことが、日本語を素晴らしいものにした最大の要因です。どういうところが両極端かといいますと、まず言葉の基本になる音韻の単位が、世界でいちばん少ないのが日本語であって、逆にいちばん多いのが中国語です。日本語には同音異義語が相当ありますが、中国語ではそれをすべて異なった音で言い分けているのです。日本語は非常に抽象性に富んでいます。
日本人教師に頼んでは意味がありません。むしろやらないほうがいいくらいです。要するに、幼児期に聴く耳をつくればいいのです。聴力をつけておいて、後になって英語を聴いたときに、どんどん吸収できる耳にしておけばいいのです。この耳を育てるのは、幼児期しかありません。
これも偶然だけれど、英語の他に中国語の音声を聞かせるというのも、価値があるんだなと気づいた。ただし、本当は機械の音声(CD)ではなくて、人の会話の方がいいんだけども。何かそういう場があるといいなぁと思う。
●その他
スメール人は、今から4000年前、歴史の舞台から忽然と消えているのです。消えてはいるけれども言葉は残りました。そしてそのスメールの言葉に一番近いのは、なんと日本語なのです。私はひそかに、われわれ日本人はスメールの子孫であると思っているほどです。
知能テストというのは、練習しないものについて、それを解決するのにどれだけ時間がかかったかで測るものです。このような問題で知能を測定することは、結果があやまって出てしまう場合もあります。こういう問題が入試問題になると、たしかに練習を積んだ子どもはいい点が取れるでしょう。しかし、それが子どもの本当の能力を測定したことにはならないのです。
七田のプリントや家庭保育園の知能指数測定にちょっと違和感を覚えたのは、ここのところだった。パターン認識の力を使って訓練をすれば、どの子でもいい点がとれる。それを評価結果として、統計的に有意な結果が得られるのかどうかに疑問があったのだった。そのことをずばり言葉にしてくれて、すっきりした。自分は、それぞれのよいものだけを取り入れて、直接自分でやっていくつもり。ビッテだってドーマンだって、探せば情報は出てくるものだ。