自助論

スマイルズの世界的名著
365日を好転させる力 – 人生は自分の手でしか開けない!

現代まで読み継がれる古典というのは、
やはり読んでおくべきだなと、思った。
明治の青年たちに、福沢諭吉の学問のすすめと並び広く読まれた一冊。
“天は自ら助くる者を助く”で有名なあれ。


●知識と学習の大切さ

・何エーカーもの土地は親から譲り受けられるかもしれないが、知識や分別はそうはいかない。金持ちは、他人に金を払って自分のために働かせることはできても、他人から自分のためになる思慮分別を買い取れはしないのだ。
・人は、正しい知識が多くなればなるほどうぬぼれの心が消えていくものなのだ。
・毎日一時間でいいから、無為に過ごしている時間を何か有益な目的のために向けてみるがいい。そうすれば、平凡な能力しかない人間でも必ず学問の一つくらいはマスターできるようになる。そしてどんな無知な人間でさえ、十年もしないうちにみちがえるほど博識の大人物に変わっていくはずだ。
・ベーコンは数多くの草稿を残して死んだが、それには「執筆用に書き留めた断想」というタイトルがつけられている。パイ・スミスは、若いころ父親のもとで製本工の見習いをしていたが、当時から自分の読んだ本は抜粋して写し、自らの批評も書き留めるという習慣を養った。

自分の努力も、
いつか身になるときがくる。
●貧困に負けない努力

・科学や芸術で大きな業績を収めたのは、大学で学び博物館や美術館などに出いれできるような恵まれた環境に暮らしてきた人間ではない。偉大な技術者や発明家は、決して専門の研究所で教育を受けてきたわけではない。この意味では、便利な施設や設備よりも、むしろ必要こそが発明の母であり、困難こそが偉大な成果を生むための真の学校であるといえるだろう。すぐれた研究者の中には、実にありきたりの器具しか持っていなかった者も多い。
・ワットは、計算器具の製造に携わるかたわら化学と力学を独習し、スイス人の染物師からドイツ語を教わったという。蒸気機関車を発明したスチーブンソンも、炭鉱で器具を運用しながら非番の夜は算数と測量術を学んだ。昼間も、食事どきのわずかな暇を惜しんでは、石炭車の壁を黒板代わりに白墨で計算の練習を積んだ。

よく考えてみれば、道具にこだわることなく、
ノートPC一つで億を稼ぎ出すXも、このスタイルに近い。
自分は、環境と道具にこだわりすぎなのだ。
●仕事・商売のかたわら

・ギリシアの七賢人の第一にあげられるタレスや、アテネの第二建設者のソロン、そして数学者のヒュペラテスなどは、みな商人だった。卓越した英知ゆえに神とまであがめられたプラトンにせよ、エジプトに旅行した時には道中で油を売買して旅費をひねり出している。また哲学者のスピノザはレンズみがきで食いぶちを稼ぎながら哲学の探求を続け、大植物学者リンネは靴づくりのかたわら勉強に励んだ。シェークスピアは、劇場の支配人としても成功を収めている。彼などは、戯曲や詩を書く才能よりもマネジャーとしての実務的手腕をむしろ誇りにしていたのかもしれない。大科学者アイザック・ニュートンにしても、一方では有能な造幣局長官であった。

そうか…このスタイルは可能なんだ。
まだあきらめなくてもいいんだと、勇気をもらった。
できればシェークスピアのスタイルが良さそう。
●娯楽読書の注意

・金持ちが必ずしも寛大ではないのと同様、立派な図書館があり、それを自由に利用できるからといって、それで学識が高まるわけではない。立派な施設の有無にかかわらず、先達と同じように注意深くものごとを観察し、ねばり強く努力していく意外に、知恵と理解力を獲得する道はない。単なる知識の所有は、知恵や理解力の体得とはまったくの別物だ。知恵や理解力は、読書よりもはるかに高度な訓練を通じてのみ得られる。つまり、いくら万巻の書物を読もうとも、それは酒をちびちびと飲むような知的たしなみにすぎない。
・著述家ジョン・スターリングも同じ趣旨のことを語っている。「現代人、とりわけ成長期にある若者にとって、雑誌や小説は疫病以上に恐ろしい新たな精神の病だ。それはきれいな水を腐らせ、家庭をむしばむ害虫のようなものだ」重労働の気休めや息抜きに、大作家のすぐれた物語を読むのは、確かに高尚な知的楽しみである。適度な読書の楽しみは決して奪われるべきではない。しかし、寝食を忘れてまで書物にのめりこむのは考えものだ。くだらない本をむさぼり読み、そこに描かれる常識はずれな人生模様に感激して余暇の大部分を過ごす人間も多い。だがそれは、時間の浪費にとどまらず人間の精神にも有害な影響を与える。小説に読みふけり、まやかしの感情に支配されると、健全な心はゆがみ、精神の麻痺する危険が大きくなる。本を読んで憐憫の情をもよおしたからといって、それが実際の行動につながるわけではない。本の中の事件に心を動かされたとしても、それは現実の自分が困る問題ではなく、自分が犠牲を強いられることもない。だからフィクションにばかり感動していると、現実に対してしだいに無感覚になってしまう。精神という鋼は徐々に磨耗し、弾力性というかけがいのない特性もいつのまにか失われていく。

これは、書籍におけるフィクション小説にはまることよりも、
現代においては、とくに
テレビ、そして2ch、あるいは動画サイトサーフィンのことを言っている。
現代人は、毒されている人が7割といったところだろうか。
若者というより、既に歩き出したばかりの子どもの頃から毒されている。
将来のこの世界が心配だ。
●何を模範とするか – 環境の重要性

・とくに幼少時代にはこの傾向が強く、「目は知識の専用の入口だ」といっても過言ではない。子供は、見たことを何でも無意識に模倣する。
・人格教育の成否は、誰を模範にするかによって決まる。われわれの人格は、周囲の人間の性格や態度、習慣、意見などによって無意識のうちに形づくられる。よい規則も役には立つが、よい模範にははるかに及ばない。よい模範の中には、実際の行動を通した教え – 生きた知恵が含まれているからだ。
・作家エッジワースの説によると、「若者はとくに朱に交われば赤くなる性質が強いから、いちばん模範となる友人を選ぶべきだ」という。ちなみに彼のモットーは「よき友と交われ。さもなくば誰とも交わるな」であった。海軍将校コリングウッドは、若い友人に宛てて次のような手紙を送った。「つまらぬ友と付き合うくらいなら一人で生きよ – これを処世訓として肝に銘じておきなさい。」
・したがって書を読む場合も、交友関係と同じように良書にふれ、その最良の部分を見習うことが大切だ。
・ある少年は、誰もいないところでさえナシを盗んだりはしなかった。その理由を聞かれて、彼はこう答えた。「いいえ、そこには人がいました。ぼくが自分の目で見ていたんです。ぼくは自分が悪いことをするところなんて見たくはありませんからね」

幼稚園については、いつも悩む。
娘の通うところはまだこのあたりでは善い環境だと思う。
けど、できることならシュタイナーのようなところに通わせたかった。
自分が育児リタイアしていれば、
幼稚園なんて要らなかったかも知れないとも、思う。
●その他

・政治とは、国民の考えや行動の反映にすぎない。どんなに高い理想を掲げても国民がそれについていけなければ、政治は国民のレベルにまで引き下げられる。逆に、国民が優秀であれば、いくらひどい政治でもいつしか国民のレベルにまで引き上げられる。つまり、国民全体の質がその国の政治の質を決定するのだ。
・真の人格者は、自分より恵まれない境遇にいる人の弱さや失敗や過ちには寛大な心で接しようとする。
・ある時、ベネチアの貴族がミケランジェロに自分の胸像を依頼した。涸れは十日でその像を作り上げ、代金として金貨五十枚を請求した。貴族は「たかだか十日で仕上げた作品にしては法外な代金だ」と抗議した。だが、ミケランジェロはこう答えた。「あなたはお忘れになっているのですよ。胸像を十日で作り上げられるようになるまでに、私が三十年間修業を積んできたということを」

ピカソと似たようなエピソードが、ミケランジェロにもあったのか。
この話は、芸術家だけにあてはまる話ではない。
コンサルタントだったり、開発者だったり、
何がしかの専門家であれば、それらには全て、あてはまる。

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