子どもの自信をつける言葉トラウマになる言葉

毎日の何気ないひと言が大切な理由
The reason why everyday words mean so much
本当に心の強い子を育てるヒント

親業の本を読んで「これはすごぃ!」と思ったばかりだけど、
根本的な心構えを理解せずに、あの強力なテクニックの部分だけを取り出すと
どんなに危険か、それがこの本を読むことで理解できると思う。


この本から学んだことは
・自分の存在価値を子どもによって確認するという恩着せがましい接し方をしたり、子どもをコントロールする目的で「わたしメッセージ」を使うのは絶対にいけない。
・肝心な時、本当に助けが必要な時に、子どもの自主性という言い訳に逃げる形で放任をしない。それは部下の失敗を部下のせいにするダメ上司と同じ。
・父親のあり方の理想的なモデルは、よきリーダーシップではないかという直感
だ。
・メランコリー親和型の人の特徴
●無意識レベルの・巧妙な精神的虐待

・いじめには肉体的虐待の他に情緒的虐待がある。この側面は、子育てに重大な意味を持つにもかかわらず案外無視されている。
・交流分析の大家ムリエルによると、この「存在するな」のメッセージに対する子どもの最も一般的な反応は、受け身と鬱であるという。
・自分は人の迷惑になる存在だと思えば、自信を持って人とつき合えない。だからこの破壊的なメッセージを与えられて成長した人は、大人になっても友だちができない。「おまえのために頑張っている」と言う恩着せがましい親は子どもの心を傷つけながら、自分の心のキズを癒しているのである。
・プレッシャーをかける親は、先に書いたようにプレッシャーをかけることで自分の心のキズを癒しているのだから、うまくいかなくなれば、逆に「ダメねー」とかいう言葉を平気で言う。今度は子どもに「ダメねー」と言うことで心のキズを癒しているのである。
・×「お母さんの立場はどうなるの?」子どもは誰も信じなくなる。子どもは親は子どもを守ったのではなく、親自身を守ったのだと知っている。
・母親から「誰と遊んだ?」と検察官のように詰問されたら、恐ろしい。そして「○○君と遊んだ」と答えるような会話は、子どもの心を成長さるような会話ではない。子どもが外から帰ってきて、遊んだ友だちのことを自慢するのに、母親が「そうなのー」とか「楽しくてよかったねー」とあいづちを打つのが親子の会話である。
・奥さんがサラリーマンの夫に「給料上がった?」とか「課長になれた?」とか聞くのと同じである。夫にとってそこはもう人生の港としての家庭ではない。「宿題したの?」という言葉には「やるべきことをしていない立派でないあなた」というメッセージが隠されている。大人でいえばサラリーマンの夫が奥さんから「今週は帰りが遅いわね」と言われるみたいなものである。
・子どもが学校から帰ってくる。母親が「今日はどうだった?」と聞く。母親が不安だから聞く。そう聞かれると「強く優れていることを期待されている」子どもは責められていると思う。だから母親は自分が不安だと思うならあまりしつこく聞いてはいけない。「今日は、けがもしないで帰ってきてよかった」と言えばよい。「今日は元気そうで、お母さんうれしいわ」と言えばよい。それに子どものほうが答えなくても、そのほうがかえって心は通じ合っている。

妻から、帰宅時間が遅いことに対して罪悪感持て という意味に取れる束縛を無意識レベルで受けていることにきづいた。
勉強をしろとも言われたことがない自由な環境に育った自分としては、これはとてつもない束縛であり不自由だ。
そして昔、それについて口を出さないで欲しいとという話をしたことがあるのを思い出した。
●親の問題

・親は自分を受け入れる程度にしか子どもを受け入れることはできない。
・家族を愛しているから家族を維持するための労働は喜びであり、それが喜びであるから、家族は幸せになれる。家族を愛していないならば家族を維持するための労働は苦痛であり、それが苦痛であるから、家族は不幸せになる。しかし、今の日本の多くの母親はこのような心理状態になっていないように見受けられる。
・今日父親は友人である。なぜなら彼らが父親である勇気を持っていないからである。
・子どもから親になるということは「愛」と聞いたときに、愛されることではなく、愛することをイメージするような人間に心理的に成長していなければならない。しかし、愛することができるためには愛されることの欲求が満たされていなければならない。相手を理解するのは愛情飢餓感がなくなってからである。つまり愛情飢餓感がある親は、子どもを理解することはできない。
・心に葛藤がある親は子どもの変化に気がつかない。自分の心の葛藤の解消に関心がいって、子どもには関心がないからである。子どもに関心のある親は子どもをほめる機会が増える。人に関心を持ち、人を心からほめることは心理的に安定している人にして初めてできることである。
・最近、若い母親がきれいになったが子どもが汚くなった。

大人が幼児化しているということは薄々感じていた。愛情飢餓感をかかえたまま親になっている人が増えている。子どもたちが、とても哀れだ。なんとかできないものかと、考えている。
●子どもが求めていること

・一口で言えば殿様にしてあげることで、子どもは機嫌よくなり、甘えの欲求を解消でき、まともな大人になっていく。
・「お母さんに聞かせてね」と言われる子どもと、「声に出して読みなさい」と言われる子どもの違いである。「お母さんに聞かせてね」と、子どもの音読を恩に着て、喜ぶ親の気持ちで子どもは伸びる。したがって逆に「たったことれだけ?」と言われるとものすごく不満になる。ふくれる。
・鬱病者が「好調になる雰囲気」
 1. 自分が理解されていると感じるとき
 2. 自分が中心になっている
 3. 忘我の雰囲気
 4. 役に立っていると感じるとき
 5. 他社より優位に立っていると感じるとき
ここに挙げられている雰囲気を見てみると、これは三歳の子どもが求める雰囲気である。こうした雰囲気の中で三歳の子どもは躍動感を持つ。三歳の子どもはこの雰囲気で心を満足させてあげればいい。
・子どもを受け入れるとは子どもの話を聞くことである。子どもの言いなりになるということではない。
・「あー、そうだったの」という言葉が子どもにはうれしい。
・親が子どもに残すことのできる最大のものは「一人で生きていける知恵」である。それがないと他人に心理的に依存する。
・ただ「塗りなさい」と言うから子どもはいよいよ塗る気をなくす。「何で塗らないの?」と責めるから、子どもは塗る気をなくす。→「これも、塗りたくないときの工夫よね」
・もし子どもが「僕、友だちから十万円借りちゃった」と言ったら、「え? 大変だ」と真剣になってあげることである。
・今の母親は、最大のほうびはおだてるか、物を与えることだと思っている。
×「何か用?」
○「暑いわねー」
大人だって「雨だねー」「そうねー」という会話をする。しかしこの会話で情報は何も伝わっていない。ここで大切なのは情緒の共感である。この人間社会で生きていくには、コンピューターの操作や語学の能力よりも共感能力の方が大切である。その大切な能力が小さい頃、母親との関係で育まれるのである。母親が子どもの気持ちに共感することで、子どもの共感の能力も育まれる。

子どもが傲慢になのではないかという考え方から、子どものこの恩に着せたい感情を意図的に無視する親もいる。親である自分の方はとっても恩着せがましいのに。社会の風潮に流されないように、改めて、自己点検が必要だと思った。
●子どもに甘えている状態(子どもにとっては負担)

・「かわいいー」というのは、眼を細めて子どもがこちらに来るのを待っているときに使う表現である。向こうから歩んでくる子どもに使う言葉である。まず眺めて、そしてふれたいと思う気持ちを表現しているものである。自分が好きでこちらから行く行為のときに使う言葉ではない。
こちらから「かわいいー」と行くときには、相手に迷惑なことが多い。こちらから行くときには、「好きよー」であり、母親のほうが「自分がしたいことをしている」ことが多い。母親が幼児期にされなかったことを子どもとの関係でしようとしていることが多い。そして自分の心を満足させようとしている。母親はそれに気がつかない。
・子どもに学校に行ってほしいのに、「学校、行かなくていいのよ」「いいわよ、じゃー勉強やめましょう」と言ったことはないか。これはいじめである。恋愛を考えればわかる。「今度の日曜日、会ってくれる? どうする、いいわ、会わなくて」というようなことを言うときには、恋人は不安である。だからまずこのようなことを子どもに言うときには、母親は自分が不安なのだと理解することである。だから子どもに「行くよ!」と言って欲しい。しかし子どもが「行かない」と言ったときには、どうするか。そのときには、「じゃー、遊ぼうか」と言うことである。そう言えば子どもは自分で考えるようになる。やってはいけないことは、子どもを学校にやることで安心しようとすることである。子どもを怒ることで不安を沈めようとしてはいけない。
・「あなたさえ幸せなら、お母さんはどうなってもいい」と言われたのでは子どもは憎しみをぶつけにくい。しかもこれを言う母親は、手抜きしている上に憂鬱な顔をしていることがほとんどである。そしてもう一つ、子どもとの関係ばかりでなく、夫とも、親戚とも、友人とも、近所のつき合いも、すべての人間関係がうまくいっていないことが多い。この種の母親は「立派」であるにもかかわらず、不幸である。そして自分の気持ちを「どうしてわかってくれないの」と怒りを感じている。自分はこれほど尽くしているのに、相手は自分の期待とは違った反応を示しているのだから。

私も、子どもに甘えていた部分があるかも知れないと気づいて、束縛をしないように反省したことがある。この部分、とくに女性は気をつけるべきだろうな。かわいいー 抱っこさせてー といいながら、自分が子どもに甘えている。そんな光景をよくみかける。
●恩着せがましい親とは

・子どもが何も言っていないのに「好きなだけ十分に遊んできなさい」という母親がいる。これは子どもにとって気分のよいものではない。なぜだろうか?子どもは何となく恩着せがましさを感じるからである。ただ「いってらっしゃーい」とだけ言う母親のほうが子どもは気が楽である。子どもが「いつまで遊んできていい?」と聞いたときに、初めて「好きなだけ十分遊んできなさい」という言葉が意味を持つ。たとえば「お金いらないわよ」という女性は、たいていお金を欲しがっている。
・×「どうして食べないの。せっかく作ってあげたのに」
・子どもの体調を考えて料理を作らない親がいる。そして自分が好きな料理を作り、子どもに「おいしいから食べなさい」と押し付ける。そのうえ「栄養があるのよ」とつけ加える。子どもを自分の延長と見なす親である。それで子どもの健康を助けていると思っている。これもまた子どもに関心のない親である。
・愛情のある親は子どもの好きなものを何とか捜そうとして、買い物に時間をかける。子どもを自分の延長と見なす親は、自分が好きな料理を子どもに「おいしいから食べなさい」と押しつける。子どもが「好きでない」と言えば「そんなはずはない」などと言う。子どもは自分とは別の味覚を持った人間であることが認識できない。
・子どもを分裂病などに追いやるような母親は「子どもの要求のうち自分の要求と合致したもののみを認知する」と言われる。

ここも、自己点検。言葉の裏にどんな意図があるかについて、注意する必要がある。
●メランコリー親和型/好意的サディズム

・本当に「あなたのために」している人は「あなたのために」とは言わない。自分を持っていない人は無理をして相手に尽くす。そして感謝を要求する。
・「あなたのためなのに」という交流をする人は、交流分析のほうでは強い自己肯定・他者否定の構えがあるといわれる。「こちらが助言や援助を与えれば、相手はありがたがって、それを受けるものだ、と決め込んでいるのです」という。
・「どうしてふくれっ面しているんだ」とか「どうしてニコニコしていないんだ」とか「何で言うことを聞いてくれないの?」という言葉は親が子どもに愛情を求めているのである。子どもがつも母親にニコニコしていてもらいたいのと同じである。子どもはあまりにも求められすぎてプレッシャーを感じている。
・「あなたさえ幸せならお母さんはそれでいいの」これは子どもに対して、「あなたはこんなよい母親をもって自分を幸せと思え」という強制でもある。明らかに相手の心の自由を奪うものである。この言葉を言う母親の心理と恩着せがましさの心理は深くかかわっている。まさに「支配の意図」と「自己不在」が共通である。「私はどうだっていいの」と言う人は決して「どうだってよくない」。本当にどうだっていいのなら「私はどうだっていいの」とは言わない。
・子どもが早く家を出たくなる言葉 : 「うちでは、うちでは」という言葉を、子どもは無意識にイヤがる。親は無意識にこの言葉で子どもを束縛しようとしている。さらにこういう親は自分のほうは家のために努力をしていない。通常子どもは、「うちでは、うちでは」ではなく「あなたは」にしてもらいたい。こういう「うちでは、うちでは」という言葉を連発されて育った子どもは通常は大人になれば早く家を出たいと思う。しかしなかなか家を出られない。それはその子どもが心の底まで家に縛られているからである。そして自分が縛られているということすら意識できないことが多い。
・自分自身が空虚だから相手を喜ばそうとするのと、相手を愛するから相手を喜ばそうとするのでは違う。つまり自分自身が空虚だから相手を喜ばそうとするのは、喜ばせることで自分が満足しようとしているのである。自分自身が空虚だから相手を喜ばそうとしているときには、相手が喜ばないと不満である。相手が自分の気持ちに応えてくれないと不満である。それは「これだけ自分がしてあげているのに、その態度は何だ」という恨みの気持ちが出るからである。相手が自分に感謝をしてくれないと面白くない。メランコー親和型の人の対人関係が「相手に尽くす」ことを通して実現するというと、立派なようであるが、実は自己喪失というこにすぎない。そして「尽くす」ことの裏側にはきわめて深刻なメッセージが隠されている。喜んでくれ、感謝してくれ、楽しくしていてくれ等々、相手の気持ちに対するさまざまな要求である。
・そもそもメランコリー親和型の人が人に尽くすのは、一人になることへの恐れから出ている行為ではないかと思っている。一人になることの恐れとは、他ならぬ見捨てられることの不安である。彼らが対人関係で常に緊張するのは、相手を喜ばせることに常に自信があるわけではないからである。すまく喜ばせることができるかどうか不安なために緊張をするのである。逆に相手を傷つけはしないかと恐れるのである。
・子どもを愛しているから、子どもが喜ぶ姿に幸せを感じる母親は子どもへの要求がない。子どもが喜ばなくても子どもに対し不満にはならない。自分のない親は子どもがいつも機嫌よくしていないと不安になる。不満にもなる。子どもを愛しているから喜んでいる顔を見たいというのと、喜んでいる顔を見ることで自分という存在を感じようというのとでは、まったく心理が違う。
・母親であれ、ビジネスマンであれ、情緒的未成熟な人は、相手と一緒にいる間も相手に対する要求が出てくる。相手がいつも機嫌よくしていてもらいたいという期待が相手に対する要求に変化する。「機嫌よくしていろ」という要求である。この要求は相手にしてみれば押しつけがましく感じる。実際に機嫌がよくないときなどは「ほうっておいてほしい」という気持ちになる。あーだこーだと要求がましく絡まれることで、不愉快になる。
・メランコリー親和型の人は、他人から認められることで自分の存在を確認できる。難しく言えば「自己同一性の供給源としての他人」が重要になりすぎている。だから、他人と接するときにおずおずビクビクとしてしまうのである。他人から拒否されれば自分が自分でなくなってしまう。「ママのこと好き?」と聞く母親が最低の母親であるという教育学者ニールの言葉の意味はここにある。

ここは、とくに妻と共有したいところ。またこの部分を読んで、私が心理学やコミュニケーションについて学んでいる理由の一つが、またわかった。その理由とは、神経症であるとか心理学的に「おかしい」ことの裏づけが欲しいということだったのだ。「これ、おかしいぞ」という人間関係のあり方があったときに、「価値観の違い」という言葉で片付けられてしまって悔しい思いをしたことが何度もある。とくに親戚関係という微妙な関係などでそういう問題に接することが多いかも知れない。そんなときに、神経症の症状であるということを、明らかに理解していれば、心の持ち方がかわってくる。自信と安心が得られる。「それは異常な状態なのだ」ということを明確に言い切ることができるから。
●注意すべきシグナル

・たとえば「外国で勉強をしたい」「平和のために尽くしたい」等々というような抽象的なことしか言えない子供は危険である。抽象的な夢を語る子どもは単に賞賛を求めているにしかすぎない。夢が具体的な子どもは、口で「こうしたい」と言っているだけではなく、生活の仕方が変わってくる。好きなことのある人は結果を求めないで努力を続けられる。しかし騒がれることを求めている人は結果が出ないと努力が続けられなくなる。
・自尊心には神経症的自尊心と本当の自尊心と二つある。算数ができないという劣等感をカバーするために国語をする生徒はやはり国語の達人にはならないだろう。それよりもなぜ自分は算数が嫌いかを冷静に反省する親子が長い人生の最終勝利者である。
・マザコン : 母親固着が強いということは、「実際の自分」を母親に十分に認めてもらえないということである。「実際の自分」を母親に十分に認めてもらえていれば、母親固着は解消している。
・不公平であるが、親から愛された人は人を愛する能力が育まれるし、親から愛されなかった人は、人を愛する能力が育まれていない。
・「わめいて泣く」のは非抑制型の子で、とにかく関心を持ってほしいとき。ただこのようにわかつてほしくて泣ける子どもはいい。親に気に入られなかったら生きていけないほど内面を拘束されている子どもは、親に見えないところで泣く。子どもが「大泣き」するときには母親は怒らないで黙って見ていればいい。そのうち子どもは疲れる。

●わかりやすい事例

・「相手をあるがままに受け入れる」ということは、「もっと出世して」と夫の尻を叩かないことである。「もっとお金を稼いで」と期待しないことである。
・男にとってわがまま勝手な女のほうがまだいい。これは最悪の女である。一番質の悪い女はいい女を演じながら、男からだまし取っていく女である。これが最低の女。
・子どもの言動が面白くないときには、子どもに言おうとしていることを自分に向けていってみることである。(世界には戦争や飢えで… の説教をしたいなら、親である自分も同様に、世界をみて現在の自分の環境のすばらしさを実感すべきである)
・コミュニケーション情報の交換と理解している母親がいる。しかし子どもは何も情報の交換をしたいわけではない。情緒の共有をしたいのである。

●私メッセージをコントロールの為に悪用した最悪の例

・「お母さんとっても辛いわー」と言う。これを言えば子どもは「お母さんごめんなさい」と言わなければならない。そして子どもは「勉強をするから許して」となってしまう。もっと質の悪い母親は「お母さんを困らせてうれしいの?」と子どもを責める。「お母さんをわざと困らせているの?」とまでくればこれは明らかにいじめである。さらにひどい母親がいる。最悪なのは「お母さん怖いー」という母親である。
・交流分析の分野では「慢性的で定型化された不快感情」のことを「ラケット」という。このラケットはよく他人を操作するために使われる。これを使って育てられた子どもはノイローゼになると私は思っている。簡単に言えば男をあやつる女の涙である。ラケットは相手に罪の意識を持たせることが目的である。たとえばひどくみじめな様子を示すと、相手は何か自分が悪いことをしたような気持ちになる。
・交流分析では他人の行動を変えることを目的にラケットを使う場合のことを「強要」という。あやつるほうは破滅しないで、あやつられるほうが破滅する。
・「どうして….できないの」には相手を攻撃しているメッセージが隠されている。子どもの現実の存在を無視している。向こうに基準を合わせている。親族の”神話”の人である「叔父さん」に基準を合わせている。
・苛立ちの感情で「どうして早くできないの」と言っているにすぎない。苛立ちの感情で言っていないときには「それをして、次にそれをして、最後にそれをして」と言える。本当に子どもに「早くしなさい」というときには問題は整理されている。これが指導である。「お母さんが、どうしてこんなに悲しまなければいけないの」と言うときも同じである。母親自身が問題の整理ができていない。こういう母親の心の中は冷たい。人の悲しみがわからない。人の悲しみがわかる母親は「お母さんがどうしてこんなに悲しまなければいけないの」とは言わない。
・どこまでも自分はいい親であることを示しながら、子どもを思うように操作しようとしている。神経症的傾向の強い人が、「お忙しいのはわかっていますが」とか「自分勝手なお願いなのは十分にわかっていますが」と言いながらも決して引き下がらないのと同じである。相手にはあくまでもいい顔をしながら、身勝手な自分の要求を押し通そうとする。
・「どうしてできないんだ」と言うときには、相手のできないことについて「罪の意識を持て」という要求をしているときである。そしてもともと相手にできないことをさせようとしていることが多い。こうした「どうして」はいじめである。「俺は、こんなに素晴らしい男なのに」とか「私は、こんなに素晴らしい母親なのに」という意味が隠されている。自分を受け入れている人とか、周囲の人から十分に認められている人はこのような「どうして」は使わない。

加藤氏の主張は、親業と反するものではない。けど、似非親業実践者に対する十分な警鐘になっていると思う。表面的な理解しかできないインテリ(本当のインテリジェンスがない、インテリジェンスを持っているフリをしている人)は、とくに注意が必要なのだろう。