心の休ませ方

「つらい時」をやり過ごす心理学

今回の震災、
自分も気づかないうちに、自分自身の心にかなりの衝撃を与えていたようだ。家族と一緒にいる時間は、いつもどおり振舞っていたつもりだったのだけれど、震災一週間後のある朝、一人でネットのニュースをみた時、突然こみ上げてきた感情と、止まらない涙に、自分でも驚いた。
ふと本棚をみると、以前興味があって買っていた加藤諦三さんの本。
このタイトルにひかれるように、ページをめくっていた。


読んでみたら、特に抑うつとかうつ病に関する詳細な内容だった。この本の性格上、休ませ方の説明というよりも、まずは心の状態の理解のために大量のページが割かれている。理解することそのものが心を休ませるために必要なことだから、なのかも知れない。
偶然だが、この前に読んだ、岩月氏の本「幸せ恐怖症」や母親の愛情欠乏の話とも整合のとれた話だったので、とても興味深かった。

●原因 : 親子の役割逆転があった

子どもは、親の甘えの欲求を満たさなければ責められる。この場合、子供は完全に「甘えの欲求」を否定されている。「親子の役割逆転」をして育った人は、人の好意を怖くて断れない。大人になってもその感情的記憶は残っている。
甘えの欲求が満たされていない親が子供のために何かをする。それを子供が感謝しない時には面白くない。時には、子供に激怒する。たとえば、「わー、おいしい料理」と言ってもらいたくて料理を作った。しかし、子供はそれほど喜ばなかった。そこで親は、グチグチグチグチといつまでも子供を責めさいなむことになる。
小さい頃、周囲の人から甘えられた人は、心の底に憎しみを持っている。自分が幼児的願望を持っているのに、他人の幼児的願望を満たす役割を背負わされてしまった人は悲惨である。これは心理的にはまさに地獄である。

私自身が、既に自分の娘にこんな態度をとってしまっていないか、改めて心の点検をした。感謝の強要のようなことは、絶対にあってはならない。実家の祖父母においては一部「喜ばないと機嫌を悪くする」という点で該当するものがあるので、注意が必要だ。
●原因 : 精神的搾取をされた

いわゆる「良い子」は対価なしに何かをしてもらえるという体験がないのである。自分が何らかの犠牲を払わなければ人は自分に何かをしてくれないと感じている。だからいつも人の機嫌に怯えているのである。
悪い男に引っかかった女を考えてみれば分かる。愛を求めているから、男の言うなりになる。恋に落ちた女は悪い男から搾取され続ける。恋愛も親子関係も同じである。愛を求めている側が弱い立場になる。「これをすれば良い子と言ってあげる」ということで、子供は自分を曲げて頑張り続ける。「こうなれば愛してあげる」ということで、子供は親にとつて都合の良い子供になる。
いまあなたが静かに休むことであなたを蔑視する人がいれば、その人はあなたが頑張っている時には、あなたから搾取する人である。そんな人と関係が切れて良かったと思うことがあなたのためになる。あなたが頑張っていれば、そういう人はあなたから搾取し続ける。あなたを利用し続ける。あなたは疲れ、その人は元気になって豊かになり続ける。
長く搾取されていると、搾取されているほうが安心する。独りになるよりも搾取されているほうがまだ良いのだろう。しかし別れることができれば、心理的事情は一変する。時が経てば経つほど自分に自信が湧いてくる。そして、「自分は、何ですべての意味において損することをしていたのだろう」と思うようになる。と同時に、あなたは、「あの人たちは、私と別れて損したなと思っているに違いない」と思うようになる。
自分を軽く扱う人は心の中で切れ

現在の自分が、人からの要求や依頼を断るのが苦手だったり、無用な被「責」妄想の傾向がある理由がはっきりした。まず、小中学校にかなりの「良い子」をして無理をしていた時期があること。20歳前半、とても厳しい規則の元で生きていた時期に、ここにかかれてある内容そのままの搾取をされていたこと。私の場合は別れて独りになったので、その感情が、まさにこの通りだったので、とても驚いている。
●原因 : 強迫観念を植えつけられた

仮面の厚さと自信のなさは正比例する。自分が受け入れられているという自信のある人は屈辱感がない。自信のある人は、小さい頃自分の内面を見せても蔑視されて孤立しなかった。その集団から追放されなかった。しかし、うつ病になるような人は違った。
生きることに疲れた人たちが、人の言葉を重く受けとめたり、あるいはヒステリックに対応するのは、もう一つ原因があるように私は思う。生きることに疲れた人は、つねに言葉のウラには「責める」という意味が込められている環境の中で育ったからである。
人はありのままの自分を受け入れられることで、周囲の人への信頼感が生まれる、愛されているという実感を持つ。
あなたは人に迎合して生きてきた。その結果自分には不誠実に生きてきた。これからは自分に誠実に生きることである。

今でも自分は、ありのままの自分は社会には受け入れられないという不安があり、行動の大きなおもりになっている。ただし、信頼と自己開示ができる妻と知り合ったことによって、このあたりは随分解決できたような気がする。
●原因 : 愛情飢餓感がある

不満になった子供だって親がしてくれたことは知っている。旅行に連れて行ってくれた、好きなお料理を作ってくれた、服を買ってくれた、病気の時に病院に連れて行ってくれた、お誕生日会を開いて友達を呼んでくれた。しかしそれと「認めてほしい」という願望が満たされるか満たされないかは別の話なのである。子供は、何をしてもらっても親が「認めて」くれなければ不満である。
軽い傷を大袈裟に騒ぐ子供は、決して「痛いのを治してくれ」と言っているのではない。子供は「痛い」ということを言っているのではない。「痛いけど僕は頑張っているぞ。偉いだろう。すごいだろう」と訴えているのである。母親にその「強い自分」を認めてほしいのである。

娘に対して自分がどういう父親でありたいか。そのことにいて考えさせられる内容だ。
共感しろ子どもを認めろという話は多いけど、ではいったい「その子の何を」認めるべきなのかが、が重要なのだ。
●症状 : うつ状態の人が望むこと

うつ病になるような人に、自分を無にしろといっても、それは難しい。溺れそうな者に、「浮き輪にしがみつこうとするな」と言うようなものである。それよりもあなたは溺れそうにはなっていないのだということを理解させることである。憎しみの感情を吐き出させることである。感情が爆発すれば台風一過で晴れ晴れする。しかしうつ病者はなかなか感情を吐き出せない。感情が爆発しようにも、感情自体が矛盾している。心の中では不安と相手への愛着と怒りが同時に発生している。
よく人は、人生に疲れたという。生きることに疲れたという。しかし人生に疲れたのではない。生きることに疲れたのではない。正確には憎しみを抑圧することに疲れたのである。
生きることに疲れた人が望んでいるのは、大人として愛されることではなく、幼児のように愛されることなのである。生きることに疲れた人は努力しないで幸せになる方法を求めている。自分から這いあがろうとする意志はもうない。「いまのこのままで救ってくれ」というのが生きることに疲れた人の叫びである。自分のことを理解してもらう努力をしないで、「誰も私を理解してくれない」と言うのが生きることに疲れた人の態度である。理解してもらう努力をしないでも、他人は自分を理解するべきであると思っている。

このことをはじめに知っておきたかった。そうすれば、自分の知っている範囲のうつ症状の人とももっと色々なことが話せたのに、と思う。これからでも遅くはないので、現代社会で増え続けている”うつ”については、自分にも何かできることがないか、探っていきたい。
●症状 : 自ら望んだ不幸

この人たちは皆文句を言うことが主題で、解決しようとする意志はない。そしてこういう人たちは周囲の人の悪口を言いながら生きている。それは不幸になることそのことが、その人たちにとって復讐になっているからである。惨めに生きることが復讐になっている以上、相手の言うことを聞こうという意思がはじめからない。
うつ病になるような人やノイローゼの人が不幸な状況にしがみつくのは、それによって人を責めて憎しみを晴らそうとしているからである。いま幸せになったのでは憎しみの感情が晴らせないからである。
不幸は偽装された憎しみである。彼らは自分が不幸であることで憎しみを晴らしているのである。不幸にしがみついている人は、不幸になるより他に憎しみの感情を表現する方法が分からないのである。
「惨め中毒」という言葉が英語にある。アルコール中毒の人がいつもアルコールを飲んでいなければいられないように、彼らはいつも自分の惨めさを誇示していなければ生きていられないのである。
憎しみを持っている人は、幸せになるよりも、憎しみを晴らしたいのである。相手を責めたいのである。

根底に「抑圧された憎しみ」があるということをキーワードとして理解しておけば、何をすればいいかは自然にわかってくるような気がする。
●その他

マズローが、自己実現している人は、「それにもかかわらず」という考え方をする共通性があるという。
うつ病になるような人や神経症的傾向の強い人と、心理的健康な人の間の会話には通訳がいる。じつは日本語から日本語への通訳のほうが、外国語への通訳よりも日常生活では大切なのである。