虹と水晶

チベット密教の瞑想修行

(2000年以前に読んだ本の記録)


以下 付箋を貼ったところ

・チベットのにおけるパドマサンバヴァの最初の弟子たちは、自分たちが学派や宗派を形成しているなどとは考えてもいなかった。彼らは単に、タントラ仏教とゾクチェンの修行者だったのである。

・ゾクチェンそのものが、何か独立した学派や宗派だと考えたり、あるいはどこかの学派や宗派に属していると考えるあやまちをおかさないよう、気をつける必要がある。「ゾクチェン」という言葉が意味しているのは、いかなる時も、原初の境地そのものなのである。

・伝授の系譜がが存在していることはたしかだ。この境地は、ラマから弟子へと伝えられてきているのである。だがその系譜につらなる人々は、かつても現在も、チベット仏教のあらゆる宗派の中に見出すことができるし、すべてひとしくゾクチェンの修行者なのである。さらに、ゾクチェンの行者がボン教の修行者であったり、あるいは、どんな学派や宗派にも属していない場合もありうる。

・ゾクチェンは、ニンマ派と完全に一体視されるようになってしまい、多くの人々がまちがって、ゾクチェンはニンマ派だけに属していると考えている。たしかに、ニンマ派の歴史をつうじて、ゾクチェンを代表する偉大な修行者たちが非常に多く出現した。ロンチェンラプジャムやジグメ・リンパは、その比較的最近の例で、このふたりは、チベットの最高の学者、歴史化、精神的教師のうちに数えられているのである。

・ある宗派に基本的な忠誠を誓っているラマが、その帰依を完全にたもちながら、その一方で、ほかの伝統からも自由に伝授を受けるのが、一般的だったことをはっきり心に刻みつけておく必要がある。

・ガラップ・ドルジェは「最初に加行を教えろ」などとは言っていない。彼によれば、最初になすべきことは、ラマが直接的な導き入れをおこなうことなのである。次に、弟子は原初の境地に入ろうとつとめ、それがどんなものか自分で発見して、それに関して、いっさいの疑いがないようにする。それから弟子は、その原初の境地にとどまるようにするのである。障害が生じてきた場合にのみ、修行者は、その障害を乗り越えるための修行を実行に移す。ある能力が足りないと思ったら、それを育てていく助けになる修行を始めるのである。このように、何をなすべきかを決定する際、万人に強制的に適用される原則ではなく、修行者の認識をたよりにするのが、ゾクチェンの原則である。それがゾクチェンの本来のやり方なのである。

・カルマムドラは、まさに修行なのであって、霊的修行をよそおって、面白おかしくセックスを楽しむ方法ではない。高度な段階の密教修行において、カルマムドラが持っている重要性は、「カルマムドラがなければ、マハームドラもない」という密教の言葉に表現されているのである。

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