男心と女心はなぜこうもすれ違うのか
最先端の脳科学とAIの知識で探る、男女の特徴
黒川本は、基本的に全部チェック。
●女性が期待している回答
女は、全面降伏「味」の大型キャンディが欲しくて、深刻な理由を並べ立て、最後通牒を突きつけることがある。このときは、命がけ。「そうだね、別れようか」といわれた日には、こちらも引けない上体だからだ。
「こんなことじゃ意味がないから、別れた方がいいんじゃないの?」
→「きみには降参だよ。機嫌を直してくれないか。これからはきみの言う通りにするから」
「あなたは、私の料理を何十年も黙々と食べているけれど、美味しいんですか、美味しくないんですか」
→「きみの料理が、ぼくを生かし続けてくれたんだ。仕事で失敗して途方に暮れて、きみの味噌汁で生きていく希望をつないだ日もある。毎日、感謝していたよ。ありがとう」
男は、繰り返し女のもとへ帰る暗黙の誠意を愛と呼び、
女は、日々与えてもらうことばの飴玉を愛と呼ぶ。
●時間の魔法
男性脳のキーワードが「空間」なのに対し、女性脳のキーワードは「時間」なのである。
男は、一生使えることばを、惚れた女に与えるといい。女はことばで癒される動物だ。幾度も思い出しては、男への愛を追体験してくれる。長い年月を経ると、大粒のダイヤモンドよりずっと効果がある。離婚を考えたとき、結婚指輪の見事さを今更ありがたがって踏みとどまる女ははないけど、遠い日の「あなたは、大切なひと」ということばを思い出したら、ちょっとくじける気がする
三週間を楽しみに過ごせば、三週間分の情緒が溜まるのが、カワイイ女性脳だ。
空間移動をしなくても、時間を稼いでやれば女性脳は満足する。結婚記念日の二週間前に、カレンダーを眺めながら「今年は、日曜日だね。美味しいワインでも調達しようか」なんて声をかけたら、それでOK。女性脳には魔法がかかる。二週間のあいだ、「あのひとったら、やっぱり優しい」とことあるごとに嬉しくて、テーブルクロスを新しくして、ホームパーティで十分満足してしまうのである。私が男なら、女性脳を相手に、年間12回のイベントで、365日大切にしているように思わせる演出をする自信がある。
旅という特別の時間は、女性にとって擬似人生時間である。一回のたびで、十年分くらいの夫婦生活は取り戻せる。ただし、プランニングから実行まで、ゆっくり時間を取ってあげてね。仕事の合間に旅行会社のパンフレットをさっさと持ってきて、「おい、これに行くぞ」なんて進めちゃダメですよ。
●恋愛本質と、セックスレスの理由
思春期にやってくる羞恥心が、私たちの率直な要求のことばを隠してしまうと、男と女のことばは混迷して、話し合いでは満たされないようになる。抱き合うことでしか溝を埋められなくなるのだ。これが、恋愛の本質、恋心の正体である。
対話できる夫婦はセックスレスになり、会話がすれ違う夫婦は淡々としたセックスライフを続ける。仲の良い家族になれなくて、対話もセックスも断絶したまま、子どもの親として同居する場合もあるだろう。
●男性が感じる女性の魅力
女の会話のコツは、いかに喋るかではなくて、いかに黙るか、にある。男性脳は、語るべき「気持ち」を持たず、女の気持ち語りを聞くのも苦痛なのだ。この脳には、女の機嫌の良い沈黙が最高のご褒美なんだもの。
●男と女 それぞれの「自我」
女は、惚れた男の「気持ち」をどうしても探ってしまう。自分と同じように、彼にも自我をさらけ出してほしいのである。それを愛の証だと思っているので。けれど、そもそも男性脳には、自分の気持ちという核は存在しない。
本当の自我は、十二歳の思春期前夜にいったん水面下に沈められ、…彼らが本当の自我に再び出会うには、ある程度の社会的成功を手に入れた後、動物的な性衝動が幾分ゆるやかになって知的な愉楽に変わる頃まで待たなければならない。
「自我の確立」というのは、少年のためにあることばだ。少女の場合に必要なのは、「自我のリストラ」である。哲学も心理学も教育学も、しょせんは男たちが創った世界だからね、女の気持ちを語り尽くしてはいないのである。ときには、医療だってそうだ。女たちは、学説に用心したほうがいい。
女性脳がおとなになるということは、この肥大した自我が等身大に見えるまでの道のりである。他人の目を知り、社会を知り、自分が思うほど、周りは自分を気にしちゃいないことを思い知らなければならない。良い意味でも、悪い意味でも。
息子の思春期に、今まで息子に任せっきりにしてきた女性脳の慰撫を引き受けてやらないと、息子が自立できないこともある。
●その他
女は、職場で、仕事をしたいのか、男にちやほやされたいのか、そのどちらにするかの覚悟を決めるべきである。女性の八割は、その区別が付いていないか、そのどちらも欲しがっている。けれど、男性脳は、この2つ混ぜられないのだ。発情してちやほやしたい女と、仕事の信頼を分かち合う相手は、同一にはなりえないのである。