モンテッソーリの教育

What you should know about your child
子どもの何を知るべきか
子どもの発達と可能性

モンテッソーリが早期教育をどうとらえていたのか、
そのあたりについて理解することができて、すっきりした。


●早期教育と敏感期

・教育家たちが、四歳から六歳までの子どものためのある種の教育を始めたとき、彼らはそれを就学前教育と呼びました。この姿勢は、六歳以前に与えられる教育は真の教育ではないという思い込みにもとづいています。私たちはすでに、教育の過程が子どもの誕生のときすでに始まっているということや、子どもの発達はある年齢のときに急に始まるものではないといことを見てきました。
・子どもたちが敏感期にあるときは、彼らは非常に熱中したり著しい活動力の爆発をおこしたりします。その敏感期が過ぎると、子どもは無関心になります。以前、彼をすさまじい力で引きつけたものが、今では自分のまわりにあるいろんなものの一つと同じものとなります。
・私たちは、子どもがことばの爆発をおこすような早い時期に、あらゆる種類の物の名に飢えを感じていることに気づきました。その熱望は敏感期が続くにつれて増大し、単語や名前、名詞、動詞、そのほかの重要なことを知りたがると仮定してごらんなさい。私たちが、この自然の飢えが続く間それを満足させ、できるだけ多くの単語と名前を与えると仮定してみなさい。さらに、もし子どもが手あたりしだいに名前や単語を吸収させておくのではなく、子どもが容易に吸収できる様に類別したり分類したりして単語や名前を与えると仮定してみなさい。問題は、子どもが理解できる範囲でどの種類の名前や単語を教えるべきかということです。科学の一つの重要な側面は、自然の事物に適用されている用語法が体系化されているということです。世界のすべてのものは名前をもっています。ことばに飢えている子どもたちにとって、科学的であろうとなかろうとすべての名前が大歓迎なのです。
・子どもが敏感期にあり、名前に対する飢え(それは知識に対する飢えでもある)を感じているとき、彼に生物学、地理学、薬学、動物学またはそのほかの科学上の名前を与えてもよろしい。それらのものを彼に、事物の付属物、彼の環境の事物の一部のように秩序だった形で与えなさい。彼は以前に身体的運動をマスターしたいのと同じやさしさで、それらをマスターできます。環境にある事物の再吟味の過程と、これらの事物を名前に結びつけることは子どもにとっては楽しい経験と魅惑的な発見となります。子どもはすでに早い時期に、環境の全体をつかんでいました。種々の部分とそれらと関連する名前をもった環境の様子は今や彼にとって、あたかも形の細部や構成の細部を巨視的に見たときのように現われています。
・これらの遂行が子ども時代の敏感期に適しているなら、子どもが早い段階で単語や文への爆発をおこし、または適切な配慮のもとで子どもの発達の特別な段階の間に読み書きの爆発をおこしたように、計算への爆発の可能性もあります。右に述べたことは、三歳から六歳までの子どもによってなされうるであろう学習は、七歳から十二歳までの生徒のいる小学校で現在なされている学習の相当の部分を先んじたり、すっかりつつみこんでしまったりするかもしれないことを意味しています。必要な設備と環境が彼に用意されれば、彼はかつて示した知識に対する熱望と飢えと活動のよろこびとを学校にもちこむことでしょう。そうすればその子どもは、小学校において中学校におけるよりもむしろ高い発達程度に達するでしょう。同じような、加速され、強化され、しかも楽しい発達が大学段階にまで、いやそれ以上へと高く高くもちこまれるかもしれません。
・子どもの発達にすこしでもよい基礎をきづくためには、私たちは二歳か、一歳か、むしろ生まれたころまでもどらなければならないことがわかります。そもそもの生まれたときから、それぞれの特別な時期の諸要求に合わせて子どもに配慮と注意をはらうことによって、そしてまた、私たちが比喩的に牢獄とか砂漠とか呼んでいるところから子どもを解放することによって、子どもの知性は大きな力、事実上世界におけるもっとも大きな力となるでしょう。
・子どもは、生まれたときの文明の水準がどんなものであっても、同じ容易さと平静さでとりくんでいきます。
・子どもがことばに対するあくことを知らない欲求をもつこの敏感期に、子どもたちに抽象的な事物に関することばよりも、現実的事物に関することばをマスターさせた方がもっと有益であろうと示唆したのはマリオ・モンテッソーリでした。したがって、子どもたちは事物と直接的に結びつけて、それが意味する科学的用語を獲得する機会が与えられました。科学的用語の修得に関しては、三歳半の子どもたちの方が五歳の子どもたちよりすぐれているということが私たちの実験からわかりました。
・以前の心理学者や教育者たちが、子どもたちにことばを教えていたことは確かですが、彼らは子どもたちに空想的な詩やおとぎ話と、たくさんのそのようなものを学ばせていました。私たちの方法は、後の科学的知識の獲得が容易になるよう現実の事物と結びついたことばを自発的にマスターさせることでした。
・衝動が特定の方向に方向づけられている時期をモンテッソーリは「敏感期」と名づけ、衝動の方向性と対応し合致する活動、機能、技能が自発的にそしてもっとも容易に獲得され習熟される時期であるとする。
・子どもは、よく世話されていたり、乳母と育児部屋を与えられていたり、身体上の快適さと諸要求に必要なものはなんでも与えられるかもしれません。しかし、もし母親の愛情と注意とが欠けているとしたら、子どもは牢獄の中にいるのと同じであり、事実上は捨てられているのです。育児部屋は完全に殺菌されていて、白い壁と清潔でのりのよくきいた服を着た乳母がついていて、その乳母は衛生学のことごとくの法則に厳密にしたがっているかもしれません。しかし、それでもその子どもは自由のない、発達の特別な期間に必要な活動のない、へいで囲まれた牢獄の中にいるのです。身体は注意深く保護されていながら、子どもの魂は見捨てられているということがあり得るということを右の事情が示しています。

グレンが「具体的であり、事実に基づいたことであれば」
という前提を強調していた理由と意味がわかった。
それに関する敏感期であり、かつ具体的なものであれば、
むしろ飢えを放置することの方がよくないのだ。
食事を与えるのと同じように、心への食事を与えてあ゛けたい。
モンテッソーリは、少なくともドーマンメソッドとは矛盾しない。
シュタイナーがいう「覚醒の強要」にならないようにするためには、
それはつまり、敏感期であるかどうかということなのかも知れない。
●マインドセット

・教育方法が正しいかどうかの一つのテストは、子ども自身が幸福かどうかによります。成長途上の生物にとって、成長それ自体が幸福です。休息とかじっとしていることは、子どもの本性には無縁のことです。活動を動機づけるものは興味です。
・成長とは、子どもをほかのものに頼らせている束縛の連続的破壊のことです。後に私たちは、無為、たいくつ、抑圧という三重の砂漠から子どもを解放する必要性について言及するでしょう。
・私たちの教育の概念は、教育者は子どもの後ろに立ち、できるかぎり子どもを全身させようとすることにあると象徴的に述べることができます。ところが、ほかの方法は教育者が子どもの前に立ち、教師によって子どもに課せられている範囲を超えて進むことを止めるというものです。
・子どもに観察したり探索したりするといった自分の正常な今日にしたがうことを許すことは、子どもに対する尊敬の一つの姿です。それは、親の愛や自然の愛情から出てくる一つの霊感なのです。

これは手帳に控えておきたい部分。
●環境、好奇心、遊び

・遊びの特徴として、遊びにおける子どもの活動はおとなによって統制されたり命令されたりしないこと
・子どもの楽しみは、その子の年齢としては大きなことを成し遂げることのなかにあること、子どもの本当の満足はいまとりくんでいる仕事に最大の努力をはらうことにあること
・私たちは子どもを仕事から解放しようとしているのでしょうか?そのような試みは、植物を抜いたり、魚を水から取り出したりすることに似ているでしょう。
・あらゆる階級の労働者たちが、さりにさらに働くことを求め、そして与えられた仕事をし終えたあと、疲れたという代わりに、「もっと仕事があったらどんなにいいだろう!」と主張することを想像してごらんなさい。そのような状態が、新しい社会の始まりではないでしょうか? すなわち、すべての人が働くことを望み、すべての人が自分に合った仕事を与えられ適切な条件が与えられている社会であり、働けば働くほど幸福が感じられるような社会です。
・自然が仕事と遊び、就労と休息の間に区別をもうけますか? 流れる小川や成長している木の永遠の活動を見てごらんなさい。海の波、地球や惑星、恒星や星のたえざる運行を見てごらんなさい。天地万物には生命があり運動があり仕事があります。私たちの心臓、肺、血液はなんのために生まれてから死ぬまでたえず働いているのですか? それらは休息を求めたことがありますか?
・古い教育は、教師による教授と学習者による学習に強調をおいていました。ところが、モンテッソーリ教育は、子どもによる観察と発見に強調をおいています。
・子どもの発達にとって大切なことは、その子が将来行うであろう行動をできるだけ明確に視覚化するということです。未来の出来事に関して資格化でき予期できることは、来たるべき出来事に魅力と明るさを加えます。このような、次に何がおこるかについての前もっての準備は、子どもに予期できる楽しみを与えるにとどまらず、その現実認識をより適切なものにするでしょう。大切な点は、散歩の計画やその道順が子どもの同意なしに変更されるべきではないということです。子どもが計画を理解し、それが実行されるのを理解することは教育的価値のあることです。
・教育的意味における散歩は、精神的対象物、心理的目的をもたなければなりません。この段階では、散歩の目的は子どもを歩きまわらせようとするところにあるのではないことに留意しなければなりません。彼は観察や探求のために自発的に歩く観察家または探検家とみなされなければなりません。
・散歩に行くのは子どもであり、おとなはただついていくだけです。

では、何をすべきか。どう接するべきか。どんな環境が必要か。
ということについて。
●抑圧

・小学校は…子どもは自分の学習になんら興味をもてないまま学ばなければなりません。あたかも食欲がわかないものを食べるよう強制されているように、自分の傾向に反して学んだり行動したりしなければならないのです。彼は、あたかも自分が強制労働を宣告されている人間であるかのように感じます。教師は、賞や罰やおどしによって彼を強制したり促がしたりします。すべてこれは、生命の根元そのものの中に学習に対する憎しみを植えつけているものです。
・一群の行為の中断は、子どもの心の中でこれから自信を奪い、彼が始めた物事を終えるための能力を無効にするようなある内的諸条件をつくります。子どもがたえず一群の行為を完了する間じゅういつも中断されるなら、だんだんと達成に必要な勇気、恒久性、そして決断力を失っていきます。やがて子どもは不安定さ、決断力や忍耐力の欠如で満たされていきます。これらの諸欠陥は、ある子どもたちの特徴とみなされています。事実はそうではありません。それらは幼少期にその子どもの正常な一群の行為を中断したことの結果です。
・とくに、後ともが身体的に健康的で心理的にたくましい場合にはいつも動きまわっている傾向があります。もしその子どもが一群の行為を動機づけられうるような環境を用意されていなかったなら、あるいは子どもが始めた一群の行為をたえず妨げられたなら、その子どもは意味のある目的にとりくむ習慣を身につけることに失敗するでしょう。彼の勇気はくじかれ、自信は損なわれていたことでしょう。
・抑圧の有害な諸影響と、彼の発達のいろいろな段階に適した仕事を自発的に成し遂げることから子どもを妨げる有害な諸影響は、次のように述べられるでしょう。子どもは、「もし私が何かを始めたなら、だれかが私をとめるだろう。それで私はそれを始めないのです」といっているかのような潜在意識的態度を発達させます。
・あなたは、ことばを待ったり間をおいたりする人や、用いるためのことばを知らない人を見いだします。彼らの困難さは、ことばを欠いているということではなくて、用いようとすることばについての決意を欠いているということです。これらやほかの多くの欠陥は、幼児期の抑圧に起因しています。
・抑圧の有害な影響についてはもっと考察されなければなりません。抑圧された子どもは、だれかが自分の仕事を中断させたり妨げたりするだろうといった永久的な恐怖をもちます。
・一群の正常な活動を子どもがするのを妨げることによって引きおこされる性格や思考の欠陥の形成は、右に述べた結晶の奇形や写真のゆがみと同じことです。
・疲労はまた、その個人に向いていない仕事によっても引きおこされます。適切な仕事は、仕事それ自体からでてくる楽しみによって疲労を少なくします。このように、疲労の原因となる二つのものは、適していない仕事と時ならぬ仕事の妨害です。

逸脱を生む抑圧について書かれた部分を読むと、悲しいことに、
現代のほとんど親子がそうなっているように思う。
大人へのセラピーとしての箱庭療法などもそうだが、
モンテッソーリの考え方は、子どもだけでなく、
大人の精神的解放にもつながるという予感がある。
●恐怖心

・この出来事は、子どもに受け取られた強い印象が長い間痕跡を残し、多くの予期されない反応をうみだしたということを示しています。
・そのような人々は恐れなければならない理由などはないことを知っているのですが、その恐怖は持続してなかなか消えません。このようなコンプレックスは、フィルムの上になされたひっかき傷のように消すことができないで残ります。私たちは、子どもに精神的平静さや静けさを用意することにより、また、観念が定着するのを混乱させるような情緒や突然の中断を与えないことによって、このようなコンプレックスをさけることができることについてはすでに指摘しました。
・自由を保障されると子どもは、だれにいわれなくても自らの興味、関心にしたがってある活動に取り組もうとするものであり、そして実際に取り組むことができ、それがその子の成長につながるものであるという確信である。
・衝動が子どもの成長、発達において果たすいま一つの機能は、子どもが自我感を確立していくことにおいてである。ただしここでいう自我感は、「自我の目覚め」によってよく問題にされるような自分についての意識と同じものではない。自分についてのもっと直接的な感覚である。自分は自分の主人であるという実感…そしてこれらは人間の中核にあって、なくしてはならないもの、すなわち字部の存在を根源的に肯定する感覚、自分は生きるに値する人間だという感覚の確立に寄与する。
・モンテッソーリ教育においては、子どもは内的な欲求が尊重され、その十分な充足が認められている。モンテッソーリ教育は、その原理からすでに自我感の形成というねらいを秘めているのである。

大人は「突然の中断」をよくしてしまうので要注意だ。
何気なく、あまり意識せずにこれをしてしまう。
それによって、臆病になったり、何かに自信のない子どもが育つ。
それは、心の傷なのだ。
これをしないためには、親の側に精神的な余裕が必要だ。
これをしないためには、親の側に恐れがないことが必要だ。
●規律

・自由と規律は非常に相互関係的なものなので、規律にある欠けているものがあるとすれば、その原因は自由の欠如に見いだされるにちがいありません。同じ様に、もし子どもの家にある無秩序があるとすれば、私は、外部から何らかの強制があることを推測します。子どもの家の諸条件の中に無秩序や規律の欠如がある場合、その責任はおとなの側にあるのであって、子どもの側ではありません。その場合には、指導者は何か誤解をしていてなんとかして子どもを奴隷にしようとしているのです。その結果が無秩序または規律の欠如です。
・従順への衝動は子どもの中にあります。

子どもをコントロールしようとしたり、奴隷のように扱ってはならない。
それは、大人が抑圧を捨てるとき、
子どもはまるで宇宙とか自然の法則に従うかのように、
自律するのだろう。
●その他

・ある人は、「これらの新しい考え方はごもっともです。でも、これらの方法のなかったむかしの子どもたちはうまく育てられていなかったのでしょうか?」というかもしれません。それに対する答えは、これらの新しい考え方は、新しい秩序のために必要なのだということです。物事の古い秩序が変わってしまったために、新しい方法が今必要になっているのです。
・おとなは新しい状況と環境にだんだんと適応できなくなり、子どもはますます適応できるようになります。そのために社会は人類の向上に必要な重荷を子どもに負わせているのです。このようにして教育の仕事は、子どもの重荷を軽くし、変化する環境に対する彼の積極的適応において幸福を感じられるようにさせてやる努力をともなっているものです。
・子どもたちにおける歯の重要性は強調されなければなりません。歯に変化がおこるとき、それはいつでもその個体の全体の中で何か重要なことがおこりつつあるしるしです。

子どもは神さまからの預かりもの
子どもを尊敬し、子どもに学ぼう。

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