幼児の秘密

モンテッソーリ教育の原点。
マリーア・モンテッソーリ自身の著作。

モンテッソーリ教育とは何なのか、どのような背景にあってこれをつくりだしたのか、それを知るために、やはり彼女自身がどう考えていたのかについて知りたくて読んでみた。


出版年自体が古く、また重訳ということもあってか、非常に読みにくい日本語だった。けれど、日本人が書いたものにはない独特の雰囲気がつかめたような気がする。
とりわけ、敏感期に関する記述、第二部のおもちゃに関する記述と、最後にあるこどもと大人の違いについては、他の人が書いたものにはない、強い愛情と熱意を感じた。
●生活
> 嬰児の服装史を調べますと、それに絶えざる発達の跡が診られます。こわいむつぎ帯から、いよいよ軽いまた単純な衣類に進んでいます。もう一歩進めば、どんな着物もぜんぜん用いないことを覚えるでしょう。生まれたての子が必要とする温度は、その周囲から供給されるべきですが、衣服からではありません。今まであたたかい胎内の中に暮らしていたから、赤ん坊は外気に抵抗するために十分な体温は出せません。しかし着物というものはからだをあたためないで、体温が失われることを防ぐだけのものです。嬰児の居場所はあたたかでなければなりません。
●きげんが悪い理由
> 「きげんが悪い」というあいまいな言葉が、ありとあらゆる現象を命名するのに用いられます。おとなにとって何でも理由のわからないとき、不合理でどうにもなだめすかせないとき、みな「きげんが悪い」のです。敏感期につながるふきげんは、満たされない欲求のあらわれであり、狂った危険な心境の警報であります。わたしらはそれを理解し、そのかなたに潜む欲求を満足させることに成功すればすぐ消えます。すると、さっきの興奮状態の後だから、まるで病的印象を与えかねない、打って変わった落ち着きが見られます。だから、わたしらがふきげんと名づけるどの兆候の裏にも作用する原因が、求められるに違いありません。それがいったんわかると、それが手がかりになって、子どもの心の秘密の根拠を深く探り、わたしたらと子どもとの間に一つの平和な信頼関係をつくることを促がします。
> 子どものすることはみな、解ける合理的原因があると考えるべきです。動機も存在理由もないような現象は一つもありません。
→ほとんどの大人は、大人の視点でみて理解不能なことを「機嫌が悪い」とか「反抗期」と片付けてしまう思考停止をしている。そうあってはならない。
●遊び
> この遊びがそんなにおもしろいのなら(というのは、子どもらはこのばかばかしい遊びで大変楽しんでいたのですから)、その喜びは、一定の年齢の子らには、物があるべき場所にあるという、ただそれだけのことにあったのです。幼児らのかくれんぼの意味は、見えないけれど、どこにあるかよく知っているものを見つけるということだったのです。彼らはあからさまにこう言いました。「見えてないけれど、どこで見つかるか知ってるわ、目をつぶっていてもよ。だって隠れてるところはまちがいっこなしだもの。」
> 幼児にとっては小さいびんやインキ壷自身は問題でなく、同じことができる他のものを与えれば、けろりときげんが治ります。
> 子どもの生活では遊びは二の次で、もっとましな、高く評価できることが何もないときだけ、間に合わせにするものだということです。それはわたしら自身でも大して変わりません。将棋やブリッジは暇なときは愉快な娯楽ですが、これだけをするように強制されたら、何も愉快な娯楽ではありません。高尚な、重要な仕事があったら、ブリッジ遊びは忘れます。ところが幼児はいつも高尚な重要な使命を持っています。経過する一分一分が発育の低い段階から高い段階への移り行きですから、貴重なものです。子どもは絶えず成長します。発育の手段に関するすべての物は子どもを引き付けますが、他愛もない遊びごとには冷淡にさせます。
→子どもかくれんぼをしたとき、「どっちの手に入ってるかな?」をしたとき…自分も子どもの心を理解していなかった。間違えていた。子どもにはフェイントのようなものは要らないのだ。
●子どもに対する敬意
> 幼稚園や小学校の低学年の先生たちは、三、四歳児がすでにまったくなじんでいる事柄を説明するのに、あんなに骨を折り、一言で言うと、その受け持った児童は今まで少しも物を見たこともなく、生まれたての子のように取り扱います。そんな先生が児童に与える印象は、耳の聞こえる人を聾と思っている人のようでした。一音一音力を入れて、もうとうに知っていることを繰り返し繰り返し言います。結局子どもらは他の返事はしないで「つくぼじゃないよ」と抗議するでしょう。
●人間としての尊厳
> 子どもベッドと名づけられるものは、実際は何のことはない家族が、自分の心の生存のために努力している生き物に提供しうる最初の残酷な檻にほかならないものです。それらの幼児は、両親によってその中に入れられる高い鉄製檻の囚人で、その強制寝床は現実であり、同時に象徴でもあります。
> おとなは子どもが小さい間は、自分勝手に抱き上げてどこへでも連れて行き、少し大きくなれば、自分の言うことを聞き、おとなに都合のよい子であれかしと、勝手にきめるという時代に終止符を打つことです。もうよいかげんに悟って、自分のことは二の次にし、子どもを理解し、その援助者になることを心がけねばなりません。
> 子どもをむぞうさに除外するのは、その発育の抑圧であり、子どもに、永久に黙っておれと言い渡すのと大差ありません。
> しかし子どもらは、この贈り物(菓子やチョコレート)を受け取ることを拒みました。それは、子どもらが、次のように言おうとするかのようでした。「どうかぼくらのきれいな経験をそこなわないでください。ぼくらはまだ精神的喜びを味わっているのです。 – ぼくらをそれからそらさないでください」と。
> 子どもは正義感や品位への道を教えてくれるある手引きに感激します。その思考の発達を促がすものは何でも取り入れます。その反対の他のもの、賞品や菓子や玩具などは突き返します。
> 遊びの最中におとなが来ます。散歩してもよいなと思い、子どもを引っ張って連れて行きます。それとも幼児は小さな仕事、たとえば小桶を小石でいっぱいにすることをしています。そこへ母親の友だちが来ます。母親はその子を女客に見せるために、仕事から引き離して連れて行きます。子どもの世界には、引っ切り無しに勢力あるおとなが鑑賞します。そうして子どもの生活を、都合を問うことなしに、何らの顧慮もなしに、処理して、子どもの動作は何らの意味もないのだという証明をしているようなことになります。
> わたしらは目の前の子どもの中に、自分を弁護することもわたしらを理解することもできない、言われることは何でもそのまま受け入れるという天造物を発見します。彼らは侮辱を受け入れるだけでなく、わたしらが子どもらに非難することの何にでも、自分のとがを感じるのです。
> おとなには身体上の処罰は廃止されました。それは人間の威厳をそこね、社会的侮辱になるからです。しかし、子どもをののしり、またなぐることより卑劣なことがあるでしょうか。
→子どもの人権と言う言葉があるけれど、本当のこのことを理解している人は少ないように思う。子どもをバカにしてはいけない。子どもは動物ではないし、囚人でもないのだ。しかしそのように扱っている人がいかに多いことだろう。卑怯で卑劣な接し方をする親は、いつか子どもによってその報いを受けることになる。悲しみの連鎖だ。
●子どもの時間間隔
> おとなをいらいらさせるのは、子どもの試みの無益なだけでなく、その運動のリズムが自分のとは違うことです。自分に特有のリズムは、流行おくれの服のように簡単に脱ぎ捨てて、新しいのと着替えられません。他人のリズムに合わさねばならぬという強制は非常に辛いものです。おとなの子どもに対する関係はこれと大佐ありません。
> おとなが子どもに与えるべき助けは、おとなが、自分の歩行リズムとその慣れた目的到達意欲をだんぜん放棄することです。
> 子どもはおとなのとは違う固有の速度を持っているからです。これは小児科医が一般に認めている事実です。まして幼い子どもは、決して必要な食物の総量を一度には食べません。ゆっくり食べて、大きな中断が何度もされます。
→お行儀よく、とか、周りの迷惑….を理由にすることもあるけれど、それは本当に正しいのだろうか。習慣を形成することは大切かもしれないが、それはあくまでも、子どもが「成長したがっている」意欲をそがないという前提において認められるものなのだ。これを理解しない押し付けは、本末転倒だから注意しなくてはいけない。
●子どもに学ぶ
> 世間では一般に子どもらに両親、教師、一般人、動植物その他への愛情を、まず外から教え込む必要があると信じています。しかし誰が子どもらに愛することを教えるでしょうか。子どものするすべてのことをふきげんと名づけ、自分と自分の物をみな子どもらに対して防御するおとなに、まさかそれができるとは思わないでしょうね。そんな人は愛情の教師ではありえないです。ほんとうに愛する者は、おとなをそばにいさせたがり、繰り返しおとなの注意を自分に引き付けておこうと、「見ててね、そばにいてね」という子どもの方です。
> 愛情でなくて何が目がさせるとすぐ子どもを両親のもとへ走らせますか。子どもは夜が明けるとすぐ、すべての純潔な者と同じに、その寝床から飛び起きます。するとすぐ、両親を捜しに出かけます。それはちょうど「どうぞ聖く生きることを習ってちょうだい。もう明るいの。朝ですよ」とでもいうかのようです。しかし、先生としてくるのではなく、ただただ自分の愛する人たちに再会する望みにかられて来るのです。室内はまだ暗く、睡眠を妨げる光が外からははいらぬように、よく閉め切ってあります。子どもはためらい、暗さを恐れながら近寄ります。やがてその恐怖心に打ち勝って、やさしく両親にさわります。「こんなに早く起こしちゃいけないって何度も言ったじゃないの」と叱ります。「起こしゃしないよ、キスしてあげようと思っただけ」と答えるかもしれません。これはおよそこういう意味てす。「肉体を起こそうとしたのではない – あなたがたの精神を呼びさまそうとしたのです」と答えたかもしれません。
> 子どもは自然が彼らに委任したもの
> エマーソンが言ったように、子どもは永久の救世主で、堕落した人を天国へ連れて行くために、繰り返し人間の中にもどって来ます。
→朝、子どもの笑顔によって本当に心が洗われる毎日。これは親になってみなければわからないだろうなぁ。
●絶対にやってはいけないこと
> わたしらを支配して、子どもの理解への道をふさぐ主要な致命的罪悪は、立腹であります。
> おとなは造物主の役を僭越にも私しました。その思い上がった自負心は、子どもの中に現にあるものはみな自分がつくったのだという考えを子どもに授けました。
> おとなは子どもを力の自覚では引き下げ、その無能力を納得させて、引き続いてどんな自発心もくじきます。おとなは子どもに行動を禁ずるだけでは物足らぬのか、お前はできない、いくらやってもだめだと言わずにいられません。おそらくもっとひどいこと、「ばか! なぜこんなことをしようとするのだ。お前はそんなことはできないことがわからないのか。」とさえ言います。これは作業と行動過程を侵害するだけでなく、子どもの人格一般を侵害します。
> 不安のこういう形式はみな、おとなの権力化にあって、おとなが従順を強いるために子どもの不明瞭な意識段階を利用したような子らに見られます。そんな子は薄闇にうろつく不安なもの(おばけなど)に対する不安を植え付けられます。これはおとなが幼児に対してとる、最も卑怯な防御手段の一つであります。これでもって、子どもが天性闇に対して感じる恐怖を高め、闇の中に恐れを引き起こす現象を、空想でつくり出します。この常習の不安は、危険の際に正常な自己保存欲の結果としてあらわれるものとは区別されます。
→おばけの絵本による子どもの規制(脅迫)に対する敬称は、NLPやシュタイナーではなくモンテッソーリを学ぶ人にも共通することのようだ。
●子どもの仕事
> 子どもにとっての秩序は、わたしらおとなが家を建てる地盤か、魚がその中で泳ぐ水に相当します。人間精神は幼少時代にその環境から、後年の外界征服に必要な道しるべを取っておくのです。
> おとなの作業と子どもの作業との間のもう一つの明らかな区別は、子どもは報酬も譲渡も望まない点にあります。子どもは自分の生育使命をまったくひとりでし遂げ、残りなく果たさねばなりません。誰も、子どもからこの労力を引き取って、彼の代わりに成長することはできません。
> 子どもは作業で倦むことなく、作業で成長し、また作業がそのエネルギーを高めます。子どもは決してその骨折りから解放されることを望みません。むしろ自分の使命を完全に単独に実行しようとします。成長の仕事が子どもの本来の生活を決定します。すなわち働くか死ぬかを決めます。
→遊びと読んでいるものが、高尚で興味深い成長の仕事なのか、それとも、ただの娯楽なのか。子どもにおもちゃを与えることは、決して猫に毛糸球を与えることと同じ目的であってはならない。クリスマスのオモチャを買う大人たちは、このことを理解しているのだろうか。

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